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2004-06-27


[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(10)「ぱど厨」と語ることの甘え

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
何か読冊日記という精神科医が運営しているサイトで、>被害者及び加害者がホームページを開いていた訂正:被害者や加害者がホームページを開いていたのはカフェスタでした。それについて詳しくはこちらぱどタウンというコミュニティのルールが変だという記事を書いて、それがBLOG界で話題になっているらしい()ので、僕も発言してみる。

何か極めて悪趣味な感じがこの文章からは感じられるなぁ、それは例えるなら韓国の犬食を批判するブリジット・バルドーみたいというか、オウムを追い出そうとする一般市民というか、そんな感じが感じるんですね。

でもまぁ感じだけを言うんだったら単なる中傷(別に僕はそれでもいっこうに構わないんだけど)になってしまうのでちょっとこの感じについて説明してみようと思う。

このサイトでは一般のネット界とぱどタウンのルールを比較して、「ぱどタウンのルールはおかしい!何故なら我々のルールと違うからだ」と言い、「彼らに正しいルールを与え、更正させなければならない」と結論付けます。

ここにあるのは「我々のルール」という物に対する絶対の信頼なんですよ。まぁその信頼の元には確固とした論理があるのかもしれないけど、でもそれを絶対的に信頼していることには変わりはない。

だけれど僕は思うのですよ、「我々のルールも彼らのルールも大きな視点から見れば等価値なんだから、認めろとは言わないけれど↓のように馬鹿にするのは止めようよ」と。
(略)

 いちばん気に入ったのは、rna@児童小銃さんの、

すごく疲れてショックなこともたくさんあるけれど、小学生のことを嫌いになれない!! (泣)
というコメント。爆笑。ぱどに潜り込んで、ひどい目に遭って命からがら生還したときにでも使わせてもらおう(ひどい目に遭うと決まってるのか)。

確かに一般のネット界のルールとぱどタウンのルールを比較して、「どちらが適当だと思う?」とか言われたら僕は一般のネット界を選びますよ。ですがそれはただ単に僕の出自が一般のネット界だからだと云う理由からであって、例えばもし僕がぱどタウンからインターネットを始めていたら、僕も今頃
いきなり来て、注意!?
ふざけんなよ!?
いきなり来て、
知り合ってもないのに、
注意されても困るんだよ!!
俺、優しいキャラのなりきりしてるけど、
俺の素はそんな優しくなんかねぇんだよ!!
とか言っているかもしれないと思う。

「そんな事は無いよ、だってあなたはもう高校生なんだから」とか言ってくれる心優しい人(多分居ないだろうけどあくまで仮定として)が居るかもしれないが、別に一般のネット界のルールと違うルールを信仰してるのは子供だけじゃないんですよ。大人だって例えばこのページにも書いてあるようにWinMXを使っている人は一般ネット界のルールは知らない(この人はそれを
ひょっとすると、私たちは、インターネットがあまりにもオープンでありすぎることに、そろそろ疲れてきたんじゃないだろうか。
と書いているが、そんな複雑な理由ではなく、ただ単に「そういうのがルールになっているから」という理由でそのWinMX的ルールを使っている人が殆どだと思いますよ)し、これは僕の経験の話なのだけれど、以前bbspinkという掲示板で少年ポルノ画像が貼られてそれが何かの拍子でニュー速に流れて祭りになったことがあったんだけど、そのスレでは本当に罪悪感無くポルノ画像の配布を行っていて、ニュー速で祭りになった後も「何なんだろうねああいう輩は?」という感じでまるでニュー速の方がルールを犯した者みたいに(というかニュー速の祭りは実際に彼ら一部のbbspinkのスレのルールを破っていたのだけれど)批判していたんてす。余りに頭に来て僕はそのスレに突撃(※21歳未満は本当はbbspinkに書き込んではいけません)したんだけど、袋叩きに遭いましたよ。まー、説得なんて通用するわけがないのが分かっていて突撃した僕も馬鹿なのですけどね。

他にも例えはハングル板とかでは「日本にいる在チョンは全員強制送還すべきだね(w」とかいうレスをする人が山ほど居るし、ネットウォッチ板なんか「マターリヲチ」というのが提唱されて痛い発言をした人の掲示板に批判の書き込みをする人は「突撃厨」とか言われて軽蔑されてるんですよ。これはことのはでも言っているとおりやはり一般ネット界からしたら「無茶苦茶」な意見なんですね、でもネットウォッチ板からみたらこっちこそ「無茶苦茶」な訳なんです。そしてここが重要なんですけど、上記のような一般ネット界のルールとは違うルールを持っているコミュニティの殆どが大人のコミュニティなんです。

「そういう大人同士のルールが違うという問題とこういう子供のコミュニティと大人のコミュニティのルールが違うという問題では根本的に意味が違う」と言われるかもしれません、ですが僕にはその2つの種類の問題の"意味"の違いが見つけられないのです。

そもそも僕には「我々大人は成熟しており彼ら子供は未熟である」という自信が一体何処から来るのか想像できません。彼は
「所有」にこだわる点については、私は彼らの幼さ、コミュニケーションの未熟さによるものだと思う
といいますが、一体「所有」に拘る点が何故未熟と言い切れるだろうか?また、「所有」に拘らなくなることを退化ではなく成長と言い切れるのは何故か?そこに僕は「大人」である事に対する甘えを感じてしまうのです。

またその甘えは、彼が
簡単なネットリテラシーについての試験をやらせるとか、ホームページ開設はもうちょっと敷居が高い方がいいんじゃないだろうか。まあ、一私企業に小学生へのネット教育を要求しても無理だろうから、いっそのこと、運転免許みたいに教習と試験を受けさせてホームページ開設免許を交付した方がいいのかも。
というように子供に対する大人には何かしらメッセージを出しているのに、その奇妙なルールを信仰している子供達に対してのメッセージは何も書いていないという所にも顕著に現れていると思う。

はっきり言っておこう、子供は弱者だ。子供はもし親や学校に何か命令されたら、たとえ,それが理不尽だと思っても従わなければならない。そして大人は強者だ、大人は例え子供達が納得しなくてもルールを押しつけることが出来る。そしてそれは、大人同士では当然生じる説明の義務を、子供相手には背負わなくてもいいという甘えを生み出すのだ。

そして更にいうとこの読冊日記の一連の文は甘えだけでなく逃げも読者に提供している。僕は一連の記事を見れば分かるように、一貫して「大人よ、何故こういう事件が起きたのか本気で考えろ!」と主張してきた、その観点から見れば僕は一定の効果をあげてきた。だが読冊日記の文はそれとは全く正反対に
つまり、この事件の背景にあったのは、「心ない一言が悪意を増幅させる」といった、ネットのマナーや会話の礼儀よりむしろ、いくら仲良くてもパスワード教えちゃいかん、とか、不正アクセスはダメ、とかそういう非常に基本的なネットのルール上の問題だったんじゃないだろうか。
「彼らがこのような事件を起こした理由は本当はそんな深いことではなく、単純に彼らのメディアリテラシーの不備にあるのだ。(だからそんなに深く考えなくても良いんだよ)」という事を言っているのだ。これを逃げと呼ばずして一体何と呼ぶのか?

最後に読冊日記の管理人に向けて、もしあなたが本気で
私のようなネット原住民は、旧人類気分をいやというほど味わわされる
のを嫌と感じるなら、分析を止めて子供達に自分の言葉で「何故ぱどタウンのルールが駄目なのか」語りなさい
。あなたは
「インターネット的」な生き方、考え方がすでに常識として身についてしまい、それを信奉している
と言い、そしてインターネット的な考えの中の「フラット」というキーワードについて
学年ひとつの差が大きな意味を持つので「フラット」ではありえない。
と書きました。しかし教育というのはまさに学年一つの差が大きな意味を持つという基盤に成り立っているのです。非インターネット的な物によって築かれた人間が本当にインターネット的になると考えている訳ではないでしょう?だからもしあなた達が「インターネット的」な物を子供達に持って貰おうとするなら、あなたは教育に逃げてはいけない。教育ではなく主張を、子供達に向けてするべきなのだ。 http://homepage3.nifty.com/kazano/diary.html

[旧NWatch]引きこもりのテロリズム

ひきこもりのための安楽死(尊厳死)@Freezing Point

少々過激な言い分になりますが…。 避けて通れないと思うので。

上でも書きましたが、「去勢」を相手に望むのであれば、そこには(その相手にとっての)「希望」がなければならない。 「希望」がないのならば、それは「拷問の強制」でしかないので、「去勢」は不可能ではないでしょうか。

ひきこもり支援は、何らかの形で本人に欲望を持ってもらい、ということは「希望」を持ってもらい、そこから去勢への回路が開かれ、もって「社会」への回路も開く、という道筋を持つものだと思います。

しかし…。

「努力すれば、誰でもなんとかなる」というのは、幻想だと思います。 「努力してもどうにもならない」人もいる(少なくとも、短期的な実現可能性の中では)。

だとすれば、「努力してもどうにもならない」人のための苦痛緩和的な選択肢も、用意しておくべきではないでしょうか。

現実的に言って社会再復帰の可能性がなく、しかも当人の主観的苦痛があまりに激しい場合には、(文字通りの意味での)安楽死(尊厳死)を、検討すべきではないでしょうか。
この人のあくまで事実について考えようとする真摯な態度は凄いと思う。でも、あくまでこれは「社会はどうするべきか?」であって、「私はどうするか?」では無いんだよね。。。

確かに「社会」という側から「一番優しい選択肢は何か?」という事を考えたのならば、結論は「安楽死という自殺制度の創設」しかないだろう。しかし「私」という人間がひきこもりの苦しみについて考えるのならば、僕は当然もう一つの選択肢、「社会を崩壊させる→テロリズム」という選択肢も考えられてしかるべきかと思います。

例えばよく安楽死という物が行われるガンという病気に対する処置を例に取って考えてみましょう。ガンに対する処置には大きく分けての3つがありますよね?この3つの療法にこのBLOGの人が提案しているひきこもりに対する処置を考えてみると、確かにその人物に対して「内科的療法」(つまり欲望=希望を持って貰って、去勢を受けさせるという処置)が出来なかったら即「安楽死」となっていますが、やはりそれは「私」という視点から見ると「何で患部を切り取らないの?」という疑問があがる訳なのです。そして「ひきこもりの患部」ってなんだろう?と考えたら、やはりそれは「社会」だと僕は思うのです。

はっきり言うと、これはかなり反則技的な意見です、社会で生きている「去勢が無事済んだ」人間からしたらまさに無茶苦茶な意見でしょう。だけれど去勢がまだ済んでおらず、幼児的全能感が抜けていない僕のような人間がこのひきこもり問題について考えてみると、やはりこの技がどうしても頭の中に出てきてしまうのです。逆に言うと、僕はこの記事を見る今の今まで「安楽死」という考えは一切頭に浮かびませんでした。何故なら「私」が居ないというのは、僕にとって無茶苦茶な、考えられない状況だからなのです。

「社会を崩壊させるなんて無理だよ」という意見ももちろんあるでしょう。ですがそれはあくまで「経験上」そうだという事なのです。何故なら社会が崩壊したならそもそも経験も消えますから、例え「社会を崩壊させた」なんて事があっても経験があるなんて事はありえないのです(しかしなんか詭弁っぽい話ですね)。

また社会を崩壊させることが出来なかったとしても、テロリズムという行動にはその語義通りの意味である「社会に恐怖を与える」という重大な副産物が生まれます。確かに引きこもりの安楽死というのも、社会に重大なショックを与えるでしょうが、引きこもりのテロリズムというショックに比べたら、やはりそれは微々たる物でしょう。

社会進化論という考え方をご存じでしょうか?といっても僕も今googleで検索していたら見つけた言葉なのでもしかしたら理解の仕方が間違っているかもしれませんが、社会進化論とは
社会進化論とは、目的論的自然観と進化論を基にした社会理論の一種で、自然が一定の仕方で変化するように社会はある理想的な状態へと進化していくものであり、現在の社会はその途上にある、とする社会観である。
という物だそうです。つまり簡単に言うなら生物と同じように、社会も環境に適応して進化するという理論です。

この理論に基づいて社会というものを考えてみれば、社会に「優しさ」や「人道」なんて物を期待するのは間違いでしょう、何故なら社会というのは「生物」であり「獣」なのですから。社会を変えるためにはその社会の存続が危機的になるような環境の変化が不可欠なのです。そしてその様な環境の変化を起こせるのは、やはりテロリズム以外に無いと僕は思います。

さて、この文を引きこもりの方は一体どのように考えてくれるのだろうか?僕としてはこれほど感想が待ち遠しい文を書いたのも久しぶりなので、何か感想を持った人(特に引きこもりの方)は是非感想をコメントやTrackBackで書き込んで欲しいです。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040623#p4