Rir6アーカイブ

2004-10-14


[歴史問題]僕らは虐殺の上に生きている

▼本宮ひろ志『国が燃える』を応援しよう。言論弾圧を許すな。▼CLick for Anti War 最新メモ

・『サラリーマン金太郎』で知られる人気漫画家の本宮ひろ志氏は、日中戦争を題材に、『国が燃える』という漫画を『週刊ヤングジャンプ』に連載しています。(内容紹介→http://d.hatena.ne.jp/claw/20040929)

本宮氏は、心情的には保守的な人物だとは思いますが、この漫画を通じて、「歴史の流れの中で犯した誤りに対し、一人ひとりの人間はどう責任を取っていくのか」という問いを提起しているようです。

(略)

・そのような立場から、本宮氏はこれまでの連載でも、日本の対中侵略や、矛盾に満ちた「満州国」の建国、殖民政策の展開を批判的に描いてきました。

・ところが、南京大虐殺について描いた第88話が発表されると、「南京大虐殺はなかった」「百人斬りはデッチアゲだ」という人々による、異常なまでの中傷と攻撃が始まったのです。

僕らはどんなに言い訳しようが虐殺の歴史の上に生きている。例え南京大虐殺があろうと無かろうとね・・・

====

この問題を単なる「南京大虐殺はあったか・無かったか」問題として捉えるのは、確かに直接的なアクションとしては(肯定派・否定派両方にとって)良いのかもしれないが、しかし一方で本質的な問題を隠して、この問題を単なる史料の解釈上の問題としてしまうと思う。だって別にこの本は「南京大虐殺はあった!」という事を表現するために描かれているのではないのだから・・・

マンガに限らず、全ての表現というのは絶対に「虚構」を表層に於いては含んでいる。これはフィクションでもノンフィクションでも同じことだ。例えで説明すると、「彼は煙草を吸った」という文の情報と、実際に彼が煙草をすう場面を見たという情報は、違うものである。が、その「彼は煙草を吸った」という文と、彼が煙草をすう場面を見たという情報は(少なくともその文の表現者の内部に於いては)本質的に同じなのである。

何が言いたいか?仮に南京大虐殺が無かったとしよう、だが、そんな事本当はどうでも良いのだ(この「どうでも良い」というのは当事者で無い第三者だから言える事なのだが、しかし今回抗議している人の中で当事者は一体何人居るのだろうか?「当事者の声を代弁して」とかあなたは言うかもしれない。だが、その当事者の言葉を信じているのは第三者のあなたなのだから、結局その行為は第三者の「あなた」の信仰の為に行われているのだ。そしてその信仰は、このような表現に於いては「どうでも良い」のだ。理由はこれから話す)。南京大虐殺というのはあくまで「表層」に過ぎない。問題は表層に現れている事からその表現の本質を導き出し、それについて考えることだろう。そして、この表現の本質とは南京大虐殺という事件の残虐さを広く知らしめたり、加害者を告発することではない。そのような個別の事件の背後にある「(日本がした・された)戦争・虐殺というもの」というものの性質では無いだろうか?

まさか「第二次世界大戦は無かった!」とか言い出す人は居ないだろう(昔「世にも奇妙な物語」でそんな話があったそうだけど)、南京大虐殺があったかどうかは分からないが、少なくとも昔日本が参加した戦争で、人が大勢死んだ事は事実である。南京大虐殺はそのシンボルに過ぎない、それを否定したとしても戦争で中国人が沢山死んだ事には何の変わりもない。南京大虐殺というシンボルを否定する事によって、戦争の残虐性そのものを否定できるという考えは、例えていうならば国連の何処かの国の旗をひきずりおろせば、その国が国連を脱退したことになるのと同レベルの妄想だ。シンボルの否定を幾らやったってそのシンボルに込められた本質の否定は出来ないのだから。

例え右派勢力がどんなに否定したって戦争とは残虐なものである。戦争中に民間人を大事にするというのが美談として扱われるのは即ち通常の戦いに於いては民間人は大事にしないという事を表している。さらに言えばそもそも兵隊と民間人を区別するのだっておかしいことで、兵隊と民間人を区別した戦時国際法というのは「国同士の国力・繊維を守るために作られた」ルールであり、人間の最低限のモラルにも到達していないのだ。合法=道徳的という等式を疑うことが出来ない人には想像もつかないかもしれないが、世の中には合法でも道徳的で無い行為は沢山あるし、違法でも道徳的な行為も沢山ある。第二次世界大戦で言えば、前者に当てはまるのは戦時国際法に則った戦いであり、後者に当てはまるのがゲリラ・レジスタンス・便衣兵である。

南京大虐殺に参加したご先祖様を愚弄する気か!」という声も聞こえてくる。だが、そもそも僕らがご先祖様を愚弄するなど可能なのだろうか?僕らは戦争後に生まれた昔のヒット曲で言えば「戦争を知らない子供たち」だ。被害者でも加害者でも無い(というか戦争というのは被害者は必然的に加害者であり、加害者もまた必然的に加害者なんだけど)僕たちがどうやって戦争時代に生きた人に対して、例えば避難を与えたり、例えば賛美を与えたりすることが可能なのか、当事者でない以上そんなことは不可能だ。何故なら現在の人は過去に対して何も出来ないのだから。もし戦争時代の人たちを馬鹿にしたり、あるいは賛美する人が居たら、こう聞いてみよう。「その行為の根拠は何ですか?」と。

僕らが沢山の虐殺の上に成り立っている(たまたま今話題になっているのが第二次世界大戦なため第二次世界大戦について話したが、もちろん他にも虐殺はある)。これはどんなに本を燃やそうが決して消す事が出来ない僕たちの本質だ。このマンガはその本質を、南京大虐殺という表層によって表した。もちろんその本質は大変辛く、きついものである。だが、その本質を背負う事は保守・革新を問わず全ての今生きている人に突きつけられている義務であり、本来革新と保守の議論というのはその「突きつけられているもの」に対しどう対処するかということであった筈だ。その「突きつけられている義務」そのものを否定するというのはもう革新でも保守でも何でもない、ただの子供のだだっこである。