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2004-12-22


[政治思想]今どき神も信じてないのかい!?

「今どき神だの宗教だのと!?おまえら国家と人民を喰い潰すガンだ!!今だに神なんぞを信じている狂信者共!!」

「今どき神も信じてないのかい!?ケッ今だに共産主義なんぞ信じているカビ臭ェ革命オタク共がよォ!!」

-HELLSING 2「CROSS FIRE2」より

まぁとくに前置きに意味は無いです。

まだニュートラルな人に向かってkojidoiの非公正ブログより

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これらの問題に関しては、かならず、強固な教義を伴う「宗教」の流派が存在する。すなわち「日本国無謬教・南京大虐殺幻派」・「同・中国陰謀告発派」・「同・なにがなんでも日教組悪玉派」「自然崇拝教・有機農法絶対派」・「同・遺伝子組み換え要らない派(さらに理論派・武闘派に細分)」・「懐古教・戦後民主教育否定派(教育勅語礼賛派)」・「同・パラサイトシングル敵視派」……。

みんな宗教なのだ。

大学に入学したとき、最初に受けた忠告は「原理に気をつけろ」だった。いわゆる統一教信者のことだ。この教団に洗脳された学生たちがいろいろ偽装サークルを作っていて一般学生を勧誘しに来る。いったん取り込まれたら最後だ。彼らはまともに学業に励むことも周囲の同級生や教官たちと正常な人間関係を取り結ぶこともなく、ひたすら自分勝手な教義の理論体系の中で自分たちを内輪で肯定しあう。周りがどんなに理を尽くして説得しても彼らを離脱させることは困難を極めるということだった。親兄弟でさえ、サタン呼ばわりして全否定するのだ。

ブログや掲示板でしつこく異論者に付きまとっている上記の宗教者たちも、その反応は一緒だ。彼らをなまじっかなことで説得できるものではない。なんどかやってみたが、下手に議論に足を突っ込むと、いつのまにか「ミイラ取りがミイラに」なってしまう。対話してみようという気持ちが、いつのまにか彼らの手法を模倣することに繋がってしまうのだ。あとで冷静になってみてぞっとしたりする。結局、くびをつっこんでしまった自分の無力さを噛みしめることになるだけで、事態は何ら改善しない。

だから、やめたほうがいい。そういう「議論(もどき)」なんか止めよう。

それより、彼らによって近い将来洗脳されあるいは「刷り込み」されてしまうかもしれない 今は「中立な」人々 に訴えかけるほうがいい。かつての私たちに「原理に気をつけろ」と忠告してくれた先輩たちのように、だ。

うーん、まぁそういう人たちとの対話は徒労に終わるというのは分かるんだけど、でも僕は「まだニュートラルな人」に期待を掛けようとも思わないんですよね・・・

何故ならニュートラルっていうのは英語で言えば体が良いですが、要するに無関心でしょう?義務教育もまだ終えていない子供じゃない限り、生まれてから今までのその人の人生の中で一度は公民の授業やらテレビのニュースやらで、南京大虐殺やら遺伝子組み換えやらそういうことに触れるチャンスは山程あった筈なのだ。なのに何でニュートラルでいられるのか?kojidoi氏は「原理」の例を出しているが、しかし原理のようにマスコミであまり取り上げられない(*1)例なら確かにそのようなこともあるかもしれませんが、南京大虐殺とかの問題は訳が違うのだ。今も中国でこの問題について真剣に怒っている人が居る。それは十分知っている筈なのに、「ニュートラル」な人たちはそれについて全然考えない。別に彼らはある一定の考え、つまり「南京大虐殺幻派」とかに入り、その考えを信じているからそのようなスタンスを取っているのではない、何故ならその様なスタンスの人は一応まず南京大虐殺という事件を知って、それが本当だとしたら自分が苦しくなると考えたからこそ、それが「幻」であると信じたがる訳だが(*2)、「ニュートラル」な人たちは悩みもしない、その点では、僕は「ニュートラル」な人たちは「南京大虐殺幻派」よりも私的には劣っているとすら考えます。

しかしこの様な極めて偽善的な(*3)「ニュートラル」、「普通の人」に対する憧れというのは日本では特に強い。そしてそれ故に、例え自分が政治的に偏っていても(*4)、それを隠して必死に普通の人になろうとする。試しに2ちゃんねるの極東板とかで「あなたは右翼ですか?」と聞いてみるがいい。彼らは十中八九こう答えるだろう「いえ、私は普通の日本人です。ただ今の日本が左に偏っているので、右に見えるだけです」と。僕は右翼ではなく、むしろ真逆の左翼だが(この前のテストの結果はすごい不満">*5)、これを見ているとついつい「お前ら右に誇りを持て!」と言いたくなる。いやもちろん僕は右の思想は大嫌いなのだが・・・

この様な「普通」への憧れは一体どこから来るのか?「自分が政治的偏向者であると公言すると他人から変な目で見られるから」というのは理由の一つかもしれない。人というのは自らが「変な人」として見られるのを極端に嫌がる。そりゃある程度の変さなら「ひょうきん者」として容認されるよ?でもその容認される領域をちょっと越えると社会は一変し、「異常者」として排除しようとする。ふざけるなっつーんだ、「変さ」っていうのはつまり「狂気」なんだぞ。そんな狂気が簡単に制御できてたまるかってぇんだ。もし制御できたとしたらそいつは偽物だ。まぁお前らは偽物でも十分満足できるのかもしれないがな。

えーと、話がどんどん逸れていくな。確かに他人=社会から「異常者」という目つきで見られるのは嫌かもしれない。だが今の社会をよく見てみろ、これを見てみろ、これを見ておまいはまだ「ニュートラル」な人間でいようとするのかい?この社会でニュートラルということはつまりこの風景を容認するってことなんだ。はっきり言うとこの文は二十歳未満の人に向け書いている、ニュートラルで無い人はもちろん対象外だし、二十歳以上になってまだニュートラルでいる様な人はもう処置不能だと思うからだ。話に戻ろう。君がニュートラルで居るこの一瞬の間に、もう気付いていると思うが↑に書いてあるように何人もの人間が飢餓で死んでいく。別に僕は君に「○○の偏向をせよ!」と言っているではない。ただ考えろと言っているんだ。考えた結果もし君が「彼らが何人死のうが関係ない!僕は今の幸福を守る」と言うのなら僕は存分に君と闘おう。何故ならそこには君が考えて、その思想になったという理由があるから。だが今の「ニュートラルな人々」には「理由」なんて無い。何故ならただ生きているだけなんだから。もちろん今の社会で上手くやっていくのはそういう人たちだ。だが、きっといつかそんな社会崩れる。いや、崩れなきゃならないのだ。そしてその時新しい社会を作れるのは、「理由」を持っている人だけだ!

話をもう一回元に戻そう。kojidoi氏は今インターネットに蔓延っている様々な人を指して「宗教者」であると言った。だが、問題は彼らが「宗教者」である事ではないのだ。むしろ「宗教者」であることは良い事かもしれない。何故なら過去においては優秀な哲学者・思想家は殆どが宗教者だったし、現代においては、アクチュアリズムを貫いている人たちは殆どが宗教家なのだから。問題は彼らが「宗教家」であることではなく、むしろ折角「宗教家」に近づいているのにそれを必死で隠し「普通の人」であろうとすることなのだ。「それはあくまで他人に対する方便で・・・」という言い訳は通用しない。何故なら他人とは結局心の中の自分なのだから(*6)、他人を騙すと云う事はつまり自分を騙す事に他ならない。他人を騙す為の嘘がいつしか自己暗示へと繋がり、そして最終的には自分がその嘘の言いなりになる。もちろんそれは水面下で行われることだから本人は気付かない。そして完全に名実ともに「普通の人」になったとき彼らはこう言うのだ。「いやぁ、世間もやっと俺の思想を分かってくれたなぁ。まぁ、俺も思想を多少変えたけど・・・」と。

とにかく僕は「普通の人」、「ニュートラルな人」は大嫌いだ。そしてそういう人たちと話をするぐらいなら、例えどんなに不毛だろうが、敵対する思想の人たちと議論まがいの喧嘩をする方がよっぽどましだと思う。例えそれで自分の無力さを思い知る事になっても、それはしょうがない。何故なら自分が無力だというのは事実なのだから。「普通の人」と一緒になって「普通の人」全体の力で今の社会を支え、そして「あぁ、自分って力があるんだなぁ」という幻想に浸るよりは断然良い。

無力さを知ろう。今の社会に絶望しよう。そして、「ニュートラル」が与える偽物の希望にノーと言おう。それが出来ないのなら、どんな素晴らしい運動テクニックをもったとしたって、今の社会を変える事はまず出来ないと僕は考える。


*1: 今は余り取り上げないでしょう。

*2: もちろん僕はそのような行為はとても卑怯な「逃げ」だと思う

*3: 何しろ人は「何かした」ということについては大っぴらに責められるが、「何もしなかった」ということについては責める事は殆ど不可能なのだ。実際は「何もしなかったこと」がとても酷い結果を生む場合が殆どなのに!

*4: それ自体はもちろん悪い事ではない

*5: だからこの前のテストの結果はすごい不満

*6: というかむしろ「自分」とは心の中の「他人」なのだが