Rir6アーカイブ

2005-06-26


[政治]僕は人を裁けない

何か最近裁判員制度(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6)というものが日本でも導入される様になったそうで、ようするにこの法律は今まで裁判官によって下されていた刑事裁判に25歳以上の一般国民も裁判員=裁く側として参加させるという風な制度で、2009年までに開始される予定となっています。

まぁ、僕は一応2009年にはまだ25歳以上にはなっていないのですが、しかしもし25歳以上になったとしても、僕は裁判員に選ばれたとき出頭する気はありません。もちろんその事によって課せられる刑罰(*1)は潔く受けますが、しかし僕はどうしても自らの信条からこの裁判官制度というものを認める訳にはいかないのです。

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「許せない」という言葉は当事者以外は言ってはいけない

良くテレビやBLOGなどでは、重大な事件を起こした犯人に対し「あの犯人は全く許せませんねぇ」という怒りの声が出されます。要するに彼らは自分個人に犯人を許す/許さないが決められると思っている訳ですが、しかし僕から言わせればそれは全く欺瞞としか言いようがないのです。

別に僕はここで「人を許せるのは神だけだ!」とかそういう宗教的な説教を行うつもりはありません。ただ考えて欲しいのが、許す/許さないを決めるには、少なくともその犯人との間に何らかのアクションが無ければなりませんが、しかしその事件の当事者でない限りは絶対そのような関係性を持つことは不可能でしょう。だとしたら、許す/許さない以前に、そもそも当事者でない私達個人には、そもそもその問題にコミットする権利すら無いと考える方が妥当なはずです。しかし私達はマスメディアを通してそのような問題に勝手にコミットしているわけで、本来ならそれだけでも私達はある種負い目を感じるべきなのですから、許す/許さないなんていうことを当事者以外の個人が言うことは、当然出来る訳がないのです。

もちろんこのような場合当事者に何処から何処までか含まれるかというのはなかなか難しい問題でしょう。僕にとっては当事者とは被害者・加害者の直接の家族と直接の友人までであり、学校で同じクラスメートとか近所の人とかは当事者に含まれないのですが、それはまだ議論の余地のあることでしょう。しかしだからといって、何の関係もなく、今までの生活がその事件によって何も変わっていないにも関わらず、あたかも自分の権益が侵されたかの様に騒いで、自分個人にその全く関係ない人に対して許す/許さないを決める権利があるなどということは、とんでもない勘違い(*2)なのです。

国家の「裁き」と個人の「許し」は直結しない

しかしもちろんそのような「当事者以外は事件の加害者を許したり許さなかったりすることは出来ない」という論理の一方で、国家は犯罪者を裁きます。しかし重要なのは、この国家が行う「裁き」と個人が行う「許し」は直結しないということです。確かに国家はその加害者の行為が合法か違法かを法に基づいて判断し、そして違法だった場合はその行為の性質に沿って、「どれぐらいの被害をもたらしたか」とか「何年ぐらいで矯正可能か(もしくは不可能か)」を総合的に判断して与える刑罰を定め、そしてそれを加害者に与えます。そしてそのような総合的判断において、確かに国家の刑罰のなかには「被害者の応報感情を満たすことが出来るか(*3)」という応報論的側面もあります。しかしそれだってあくまで「応報論が適用されないと国家秩序(*4)の安定が阻害されてしまうから」という、条件付き適用なのであって、例えばもしその犯罪を応報論で裁いても国家秩序の安定には繋がらない、もしくは逆に国家秩序を悪化させてしまう場合には、国家秩序の安定という真の目的を達成する為応報論は適用されないのです(だからといって僕は「国家は犯罪者に対する応報感情を満たすことを第一目標とすべきだ!」と言ってはいないことに注意。どんなに頑張ったって国家というものは結局そこに属する国民の割合で言えば当事者より当事者でない人の方が多いのですから、他人が被害者の応報感情を完璧に代理できないのと同じように、国家もそれが集合体である限りは被害者の応報感情出来ないのです。さらに言うと、もし国家が応報感情を本気で完璧に代理しようとするとどうなるか?そこに生じるのは、国家というものが国民の集合体ではなく、国民から遊離した(*5)具体物として存在する様になる姿です。民衆の為に国家が存在するのではなく、国家存続それ自体の目的の為に国家が存在(*6)し行動する社会。そのような社会がどのような帰結を生むかは、大日本帝国の末路を見れば明らかでしょう。故に僕は国家は絶対被害者の応報感情を満たすことを第一目標とすべきとは絶対思わないし、更に言うならば例え国家秩序維持の手段として応報刑論が使われるとしても、その使用は極力抑えた方が良い(*7)と僕は考えます。)。そしてそうである以上、国家の刑罰は当事者の「許し」を目的とする訳ではありませんから、国家の「裁き」というものは個人の「許し」には直結しないのです。

国家の個人化

http://www.moj.go.jp/SAIBANIN/qa.html@法務省のQ2-なぜ裁判員制度を導入するのですか。には次の様に書かれています。

 裁判員制度の導入により,法律の専門家ではない国民の皆さんが裁判に参加し,国民の皆さんの感覚が裁判の内容に反映されるようになります。そして,それによって,国民の皆さんの司法に対する理解と支持が深まることが期待されているのです。そして,それによって,国民の皆さんの司法に対する理解と支持が深まることが期待されているのです。

確かに僕も現在の司法の基準が正しい形であるとは思いませんし、今のままでは国民も司法システムに信頼を寄せることが出来ないというのは良く分かります。しかしだからといって僕は(抽選で選ばれる国民の極一部の、何も専門的教育を受けていない)個人の感覚をそのまま司法システムに持ち込むということはやはり危ない様な気がしてならないです。

前項で僕は個人の「許し」と国家の「裁き」は直結しないということを書きました。要するに国家の倫理(=法律)は個人間の関係にそのままは適用できないのです。そしてそれは逆から言えば、個人間の倫理もまた国家の行為にそのまま適用できる訳ではないということになります(*8)。個人は自分の倫理判断の下位に国家の倫理判断をおくべきだし、また国家の方も国家秩序の範囲(*9)内において個人の倫理を認めるべきなんです。しかし今回の裁判員制度はそれを無視し(てる訳じゃないでしょうが軽視はしているだろう)、個人の倫理がそのまま国家判断に適用する様にしようとしている様に思えてならないのですね(というか実際に裁判員に選ばれたらどうしたってそれを行わなければならない)。つまり個人の国家化もしくは国家の個人化です。それが如何に危険であるかは前項で既に述べました。

もちろんこれに対し「国民はそんなに馬鹿ではないのだから、個人的な倫理がそのまま裁判においても適用できるなんて思わないだろう」という反論もあるでしょう。確かに既存の選挙制度とかを見ても、国家の基準設定を国民に任せるというのは、まぁ完璧とは到底言えませんが(*10)少なくともある程度は成功していると言えているでしょうし、それだったら裁判員制度も同じように成功するはずだという考えも理解は出来ます。しかし理念上国民の全てが参加することが出来、そしてマスメディアなどによってある程度議論がされる選挙に於いては、その国家の基準を決定することの公共性が十分理解できる(更に言えば政党制などの理由により、結局具体的に政策を決定するのは国家のことについて十分理解出来る人に限られる)でしょうが、国民のごく少数しか参加できず、しかも(選挙と比べれば)そんなにマスメディアも取り上げないものに対し、その公共性が本当に理解できるかと言えば……かなり怪しいでしょう。少なくとも僕は無理です

ではどうすれば良いのか?僕はむしろ既存の既存の最高裁判所の国民審査制度をもっと十分活用できる様にすることや(下級裁判所の裁判官も国民審査に掛けることも考慮に入れるべきだと思う。まぁ僕は幾ら何でもそれはちょっと行き過ぎかなと思うけど……)、選挙の争点に「どのような裁判官を指名・任命するか」を挙げるなどの既存の選挙制度を流用する様な方策が重要では無いかと思います。その方がごく一部の完全に名ばかり(*11)の「国民の代表」に任せるよりはずっと良いでしょう。

個人の国家化

更に言えば、僕はその様に国家が個人化することにも危惧を覚えますが、それよりさらにこの様な裁判官制度によって個人的な倫理が国家化することも、"個人的"には恐れるのです。

例えば僕ははっきり言うと人一人殺したぐらいで二十年ぐらい刑務所にはいるのなら、私達はみんな一生刑務所に入らなきゃならなくなると個人的には思ってるんですね(その理由はid:rir6:20041124:1113764820を参照)。ですが私達は刑務所に入ることなくのうのうと生活している。もちろん今だってその矛盾はあるわけですが、しかし個人の判断と国家の判断に隙間があるために何とか僕は僕の倫理の崩壊をせずに済んでいるわけです。ところがもしこれが裁判員制度によって完璧に個人と国家の倫理を同一化しようとするならば、選択肢は「裁判員に選ばれても殺人を犯した犯罪者を無罪だと主張する」か「餓死する子供達から一切目を背ける」か「自殺する」の三つしか無いでしょう。しかし当然のことながら一と三の選択肢は僕には到底不可能ですので、二の選択肢を取らざるを得なくなるのです。

しかし実際国家基準と個人的な基準の間でダブルスタンダードを取っているお陰で保ててる(世間的には)良心的な倫理は多いでしょう。それは確かにダブルスタンダードであり不安定なものなのですが、しかしそのような不安定さが一切無い正しい世界というのも、僕は何だか嫌な感じがしてしまうのです。

[情報社会論]Dive into the world

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20050614nt07.htm

http://www.yomiuri.co.jp/net/feature/20050623nt0b.htm

まぁ確かにこの二つの記事は色々と事実誤認な点もあるでしょう。

研究会は、ブログや知人同士が意見交換する「ソーシャルネットワーキング(SNS)」の普及で、個人レベルの情報発信が急増し、「企業対個人」「発信者対受信者」といった社会構造まで変えつつある、と分析。その一方で、インターネット関連の知識格差が生じている、と指摘した。

 報告書はこうした現状を打開し、IT社会で日本が優位に立つには、義務教育段階からネットワークで個人が発言する作法を身につけさせることが必要だと主張。あらゆる子どもが自分のブログを持つのが効果的だ、と力説した。

ということですが、はっきり言ってBLOGでは「作法」は身に付かないだろうし(理由は後述)、「IT社会で日本が優位に立つ」と言いますが、BLOGをやっても別に何か特別な、職業などに役立つスキルが身に付く訳ではありません。ですがそうであっても、僕は全く別の観点から敢えてこの提言を支持したいと思います。もちろん彼らと目的は全くとなりますが、しかし少なくとも「子供はBLOGをやるべきだ!」というところでは、一致しますから、この提言から外れインターネット環境からフィルタリングソフトなどを使って子供を隔離しない限りにおいては僕はこのような政治の方策を戦略的に支持します。

しかしそんなことよりもっと腹立たしい問題があります。それはこれらの記事に対する既存のブロガー達の反応です。彼らにはごく少数素晴らしい意見がありましたが、しかし多くは全く本当に読売新聞の記者がタイトルで示した様に「子供にブログぅ?!」という様な、子供がBLOGを持つことそのことに対するとても汚いブーイングだったのです。これらのブーイングは主に二つの種類に分かれます。

しかしこの二つは、実はどちらも全く同じ選民主義者なのです。

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s/n比信仰者について

この様なことを言う人間はまさにな訳ですが、しかし彼らは屑であるが故に自分が屑であることになかなか気付きません。ま、それが屑の屑たる所以でもあるんだけど。よってここで改めて、彼ら屑が何で屑であるかちょっと説明します。

まず最初に、彼らはテクストの価値というものが普遍的・不朽の価値観によって決められるものだと考えているようですが、当たり前ですがそんなのは全くのデタラメです。テクストの価値を決める価値観というものはとてもその人が属している共同体に限定された流動的なもので、例えば日本語で書かれたテクストは日本語を使わない人にとっては価値がないものであるし、そしてギャル文字で書かれたテクストがギャル文字を読めない人々にとっては価値がないのもそれと同じなのです。これはもちろん言語共同体に限ったことではなく、例えばプログラミング言語のTipsはそのプログラミング言語を使わない人には全く意味が無いという風に、趣味・職業の共同体でも言えるし、ある年齢の受験関係の記事は他の年齢の人には全く関係ないということで年齢共同体に関しても言える。もっと究極的に言えば、一番普遍的なものとして扱われやすい文法のことだって同じなのです。例えば「てにをは」というものがきっちりしていないとテクストとしては価値が減衰してしまうという人が居ますが、しかし世の中には「てにをは」がきっちりしていないことによって却って「熱心さが伝わる」とか「純朴さが伝わる」といって価値を逆に上昇させる人々も居るのです(僕もどちらかといえばそっち側)。これを「間違った価値観だ!」と言うのは自由ですが、しかし例えそうだったとしても、その様な間違った価値観(*13)を持つ人が居る以上、そこに共同体(文法共同体とでも言おうか)による価値観の限定があることは認めざるを得ないだろう。

しかしその様に言ってもまだ彼ら屑は「でも俺たちの共同体の方が正統だもの。」という様な妄言を吐きます。例えば「世の中で多数派だから俺たちが正統だ」とか「歴史的に起源が古いから俺たちが正統だ」とかいうふうに。しかしそれが何故正統なのでしょうか?結局、その様なものが正統であるというその根拠だって実は、その共同体の中から再帰的に出されたものなのです。そうである以上、その様な根拠はその共同体の中での自分達の啓発には役立つかも知れませんが、少なくとも共同体外に出すときは何も意味を持たない。いや、もっと言ってしまえばその様な偽物の根拠は他の共同体を暴力(*14)で押さえつける時の免罪符となってしまうという意味で、有害でさえあるのです(しかしこのような排他的な共同体のエノセントリズムは実は最近の日本のナショナリズムにも言えるんですよね。「国民の多数が愛国心を支持しているのだから愛国心教育には何の問題もない」とかはまさに「世の中で多数派だから俺たちが正統だ」だし、「天皇家は万世一系だから素晴らしい」とかも「歴史的に起源が古いから俺たちが正統だ」というのと全く同じだし……きっとこの種の再帰的な自己正当化は全てのエノセントリズムに共通しているのでしょうね。まったく吐き気がします)。

マナー絶対主義者について

しかし流石に前項のような妄言を吐く人々はごく僅かです。多くの人は自分の持っている価値観が限定的なもので、また別に他の価値観より優れている訳ではないことを理解していますから、少なくとも「子供が書くBLOGなんてインターネット資源の無駄遣いだからやめさせろ!」なんてことは言いません。しかし一方で彼らはこう言うのです。「だが、例えどのようなテクストであってもマナーは守らなければならない。しかし子供たちはまだマナーが教育されていないので子供がBLOGを書くのは好ましくない」と。そしてこう語るとき彼らはその善人の仮面を剥がし、そのs/n比信仰者と同じ本性(*15)を見せるのです。

そもそもマナーとは如何に構築されるか?ここで重要なのは、マナーと法は違うということです。マナーというものはあくまで民衆間の交流により生みだされ、そして生みだされ続けるものであり、それは個々の心でそれに同意を示すことによって具現化するものなのです。そして個々の心によって形成されるが故にそれはかなり汎用的なものとして機能するのです。一方、法は民衆間の多数決によって作られた国家によるものであり、それが具現化するきっかけは多数決によってそれが国家的基準として認められたときです。故に確かにその法は、それを認める/認めないに限らず万人に作用するのですが、しかしそれ故にその法が行使されるにはある程度の重要性を持った罪(何故なら法はその罪の大きさ≒罰の大きさに応じて審査手順を厳しくするのですが、しかし余りに罪が小さい場合はそもそもさの罪に応じられる様な"ユルい"審査手順は出来ない為、法によっては罰せられないのが当然なのです)でないといけないわけで、ルールよりは汎用性に劣る訳です。このことを無視し、マナーの汎用性と法の強制が両立できると混同してもその議論は全くナンセンスなのです。

ぱどタウン問題を例にして考えてみましょう。ぱど厨の議論では本当に「法」と「マナー」が何の区別もなく同一のものとして捉えられていた訳で、本当に「ぱど厨」という言葉を使う奴らこそ真の厨なんだなと言うことが良く分かりました。確かにぱど厨は他サイトの素材に直接リンクするなどのことをしましたが、しかしそれは法によって問題にするのは余りに軽微であるのだから、従って現実的に法を適用することは不可能な訳です。

しかし一方で既存のマナーをそのまま適用する訳にもいかない。何故なら彼らはインターネット空間に新たに入ってきた人なのですから、既存のマナーの決定にそもそも参画してないから、そのマナーに自主的に従う根拠がそもそも無いのですね(だから彼らは自分たちの頭でルールを考え出し作った訳です。僕はその態度はインターネットに新たに入ってきて、自分はそのマナー形成に全く参画していないのにそのマナーが正しいものだとする人間よりよっぽど民主主義的で偉いと思う訳ですが、しかし既存のネットワーカー達は全く逆の方を賛美するわけです……ほんとーに今までのインターネットは厨ばっかだな)。だから彼らが参画してきた以上、既存のネットワーカーは自らの持つルールを変えることも考慮に入れながら(というか新しい価値観の人が入ってきたんだから十中八九変えなきゃ駄目なんだが)、子供達と新しいマナーを共に作る様対話しなければならない。それがマナーというものの真の意味なのですから、ただ何も参画させず正当性を動物的に教え込む「教育」によってマナーを教えるなど論外なのです。

以前僕は読冊日記)と「ぱど厨」について論争しました(*16)。まぁこの時はまだ僕も自分の心の中で違和感が沸き上がってくるのは分かるけど、それを上手く言語化できていなかった(*17)のですが、しかし今読み返してみてもやっぱりあの読冊日記におけるぱど厨関連の記事はおかしかった(し、僕の記事も正しかった)と思うのです。このサイトでは管理人が自分は観察をしているという感じでそのぱどタウンに自分のページを置いて、そしてそのページがどこなのか隠しながら(ここにも僕はぱどタウンの風習以上に悪趣味だと思うのだが)、ぱどタウンの風習をページに書き込む訳ですが、しかしその一方で>

私にとっては、インターネットとは通常の社会のしがらみから解き放たれる場であり、特にこの日記/ブログ界界隈の、興味のある記事にだけリンクする、というようなつかず離れずのさらりとした人間関係がけっこう気に入っている。それなのに、そのあとを担うべき彼ら小中学生たちが、どろどろとした従来の地縁血縁的な社会のルールのグロテスクなパロディみたいなものを、わざわざネットに持ち込んでいているように見えること。これが、私には気持ち悪い。せっかくネットはここまで成熟したのに、そりゃ先祖返りじゃないのか、と思ってしまうのである。

<という風に、まるで幼稚な嫌悪感を表明し(当たり前だが既存のインターネットがつかず離れずのさらりとした人間関係何ていうのは幻想でしかない。彼らの目には積極的自由を奪われ(*18)ている、語ることすら出来ない人間は一切無いのだ。結局、既存のインターネットはさらさらしているのではなくて、ただドロドロしたものを「自己責任」の名の下に隔離しているだけなのだ)、>

生半可な知識だけあって最低限のリテラシーすらないこういう「厨」たちが、「ぱどタウン」などの敷居の低い無料サービスによって、インターネットに大量増殖してるんでしょうね。やっぱり学校で早急にリテラシーを叩き込むしかないよなあ、これは。

<という風に教育を主張する訳です。そしてそれを僕が「エノセントリズムによる価値観の押しつけだ!」という風に批判すると>

私たちと彼らのルールが等価であり絶対的な優劣はないとするならば、私たちのルールを彼らに受け入れてもらうときに、「とにかくそうなっているんだ」という、押しつけの形になるのは仕方のないことでしょう。ということで、私は教育に期待します。

<という風に「そうだよ、押しつけるんですが何か?」という風に開き直る訳です。ある種幻想が幻想と分かっていながらも、それを信じた方が治療が上手く行くから信じるセイシンカイらしいと言えばらしいんですけど、しかしそのような治療を社会に行い続けた結果どうなったかといえば、幻想のテロの恐怖を幻想と分かっていながらも、それに基づいて他国に侵略戦争を仕掛ける・そしてその侵略戦争を肯定するような世界になったわけで……

ちょっと話が脱線しました。しかしこれはなかなか重要なことです。例えその本人がそれを本気で信じているのではなく、幻想だと分かっていたとしても、結局やることが同じだったら対外的には本気で信じているのと同じことなのです。それが擁護するのはつまりエノセントリズムの「教育」という名の暴力(類似の暴力として愛国心教育や「心のノート」問題(*19)がる。そういえば「心のノート」も心理学者河合隼雄が心の教育の名の下に作ったんだよね。何か既視感を覚えるわぁ:-p)を擁護するのと同義であり、有害なのです。

(余談ですが、僕は上記の理由から、マナーを「メディアリテラシー」というものに含めるのには激しい嫌悪を覚えます。「リテラシー」というのはあくまで「識字能力」という意味であり、当然識字能力の内に「正しい文章の内容」なんて入れないのと同様に、メディアリテラシーの中にも「ネットマナー」なんか入れてはいけないのです。それはマナーの固定化、つまりは多元主義の否定に繋がるでしょう。敢えて言うならネットマナーというのは「メディアフィロソフィア」、つまり哲学でしょう。そして実際の哲学が「教育」ではなく「対話」から生まれるのと同じように、マナーもまた「対話」によってのみその効果を担保できるのです)。

終末後の新世界としてのBLOG

しかし何故僕はここまで子供達のBLOGを擁護するのか?答えは簡単です。BLOGというものは、確かに危険な場所ではありますが、しかしそこには可能性が満ちている訳です。だってBLOGというものは「自分(生活空間)/社会/世界」の区分で言うならば世界そのものなのですから!しかもこの世界はあの20世紀末という終末の後に出来た新世界ですから、そこには社会みたいな制限は何もないのです。比喩的に言うなら、BLOGというのは誰も管理人が居なくなった広大な廃墟なのです!

しかし大人というのは危険性ばっかりを考えて、可能性というものを遠ざけます。よってBLOGの可能性は未だに大部分が未発掘なんです(実際、BLOGの前段階である2ちゃんねるに僕は居たが、しかしそこでの可能性は大部分未発達だった。それ故に僕はそこで本当にセカイ的な(*20)体験が出来た訳です。まぁ、2ちゃんねるなんてまだまだBLOGの前段階であるが故、可能性もBLOGに比べればずっと安易なものがばっかで数も少なく、その為四年かそこらで既に可能性が枯渇してしまった訳ですが……)。(*21)ですが子供たちは決して危険を恐れません。故に彼らは犠牲者を出したりもしますが、しかしとてつもないものを発掘できたりするのです。それは確かに現状のBLOGに安寧としている大人達、廃墟の比喩で言えば廃墟の一部でたき火でもやりながらほそぼそと暮らしている大人達にとっては脅威でしょう。しかし僕はそれが楽しみで仕方ないのです。例えそれが再び世界を破滅に追いやるかも知れない兵器だとしても(というかそうであれば逆に燃えます)。

大人達は言います。「こんな危険な所で遊んじゃ駄目だよ!」と。しかしそれは子供の耳には届く訳がないんですね。だから親達は子供を「お前のことを思ってのことなんだよ!」と言いながら教育によって服従させようとします(*22)。しかしそれは結局、自分が臆病だからそのような廃墟の奥深くに入り込めないことのルサンチマンであったり、廃墟の奥から出て来るものによって自分の生活が脅かされるという恐怖が根本の原因であり、そしてそうである以上、子供たちはそんなもの無視してどんどん進むべきなんです。

もちろんこれは多分に誇張を含んでおり、中には変化を含まない子供たちも居るでしょう(僕は見たことがないが)。しかしそもそも生活空間にしか居ることが出来ない子供が、どうして世界に飛び出すことを望まないと分かるのか?とにかく一度廃墟を見せてやるべきでしょう。そしてその上で、廃墟へと飛び出していきたいのならばそうさせれば良いし、生活空間に閉じこもるのならばそうすれば良い。どっちにしろ、全ては廃墟を見ることから始めるべきなのです。「子どもはみなブログを持て!」とはそういうことなのでしょう。

僕は読冊日記でこんな風な問いをされました。>

あと、この方は「我々のルールも彼らのルールも大きな視点から見れば等価値」といいながら、次の記事では19世紀の「社会進化論」に関する記事(引用部を読んだ限りでは、ダーウィン的というよりラマルク的)を引用して自説を展開しているのだけれど、このへんの考え方が、私にはよく理解できませんでした(19世紀の社会理論でひきこもりを論ずることの是非はともかく)。この方は、社会に優劣があると思ってるのか、ないと思ってるのか、どっちなんでしょう。

<これに対してそのころは上手く答えられなかったけど、今なら答えられます。別に僕は弁証法によって、今まで悪かった社会が良い社会になると思った訳ではないんです。結局どんなに社会が変わったとしても、静的な視点で見たら全ての社会は悪い社会なんです。では私達はシニニズムを取るべきなのか?違う!社会が良くなるとき、それは実は社会が常に変化している時なんです。つまり、個々の静的な社会に「良さ」が宿るのではなく、より変化しようとして動くその社会の自己否定の運動に「良さ」が宿るののです。それ故僕は子供が世界へと飛び出し、そして大人達を嘲け笑いながら、世界を変えていこうとすることをあくまで擁護し、そしてそれを拒もうとする腐った大人を否定し続けるのです!


*1: 10万円以下の過料

*2: それもかなり悪質

*3: 要するに、「これぐらいの刑罰を与えないと私は犯人を許すことが出来ない!」という被害者の感情

*4: 但しこの言葉を具体的な事象に当てはめて使うときはよく考えること。例えば民主主義を主張したとして、それが国家主義の国家によって行われた場合は、多分その国家は民主主義の主張を「国家秩序の安定を乱すものだ!」として罰しようとするでしょう(実際過去の大日本帝国においてはそれが行われた)。しかし国家の正当性というものは絶対に被治政者の同意のもとでしか得られないのですから、国家主義という考えを国家が採るということそのものが国家秩序の破壊であると考えられます。しかしそうなると今度は「じゃあ国家主義の政治活動を行うことは国家秩序を乱すことになるかの?」という疑問が生じるわけで(まあこれに関しては僕は若干認められるかなと思っている訳ですが)、一体どのようなものが国家秩序にあたるのか、一般感覚だけで決めずによく考えることが重要でしょう

*5: だって国民とイコールである限り応報感情を完璧に代理することは不可能なのですから

*6: 具体化するとはそういうことです

*7: というか無い方がむしろ良いんだが

*8: 全く関係ないとは言っていないことに注意

*9: もっとも「国家秩序」は個人の倫理を出来るだけ配慮しなければならない訳だけど、しかし例えば「人を殺しても良いというのが俺の倫理」などという奴は容認できない様に、その倫理擁護は無制限足り得ないのです

*10: イシハラ人気を見てると特にね……

*11: 国会議員はそれでも一応選挙を受けているけど、裁判員は選挙などの国民審査は全く受けないのだし

*12: id:rir6:20050306:1113810158もついでに参照

*13: 皮肉である

*14: 当然ここに含まれる暴力というのは肉体的・物理的なものに留まりません

*15: =エノセントリズム

*16: id:rir6:20040627:1113913505、id:rir6:20040629:1113913509参照

*17: 「今も出来てないよ」とか言わないで……

*18: つまりヘイトスピーチなどの誹謗中傷を受けて

*19: キーワードリンク参照

*20: 自分が盛り上げた祭りが新聞に載ったときの喜びと言ったら……

*21: 一応言っておきますが、ここでいうBLOGの可能性とは、例えば「もっと新しいツールが登場するかも」とか「面白い遊び方が登場するかも」ということではありません。そんなものは結局既知でしかない

*22: こういう口癖に嫌悪感を覚えた人多いはずなのに、なんで自分が大人になると同じことを繰り返してしまうんでしょうねぇ……