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2005-10-16


[異論]「モヒカン族>ムラ人」について

まず最初に断言してしまえば、そのような序列は確実にインターネット上に存在します。しかしこの人はそんなものは無いと言っている。だからちょっとカチンと来たし、逆に彼が批判している「モヒカン族>ムラ人」という現状認識を示した人が居るならば、その人を擁護したいと思った。(僕のブックマークコメントに対して言えば)ただそれだけのことです。(この記事を発見した場所ははてなブックマークの「注目のエントリー」だし、本当にこの記事の前後関係は何も分からないんですよ)

でもまぁ言いたくない(id:casanovastyle:20051014#1129300858)んていうのなら良いです。そういう現状認識を最初に出した人をリスペクト出来ない事は残念だけど、まぁ誰が言ったにせよこの現状認識が正しい事に変わりはないし、教えてくれないって言うんなら自分で勝手に証明するだけです。

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モヒカン族とは何か

モヒカン族に対する説明をする前に、まず僕のモヒカン族に対するスタンスを説明しておきましょう。といってもそれは無断リンク論争↓

を読んだ人ならばきっと一瞬で分かる事なのでしょうが、見てない人も居るだろうし(*1)。一言で言うならば「モヒカン族よ、思い上がるな」です。ですから僕の説明も、そのようなスタンスから行われる事をご了承下さい(*2)。

モヒカン族とは何か?それは簡単に言えば次の三つの言葉

で表せるでしょう。

ではまず「文言単独主義者」について説明します。基本的に、彼らモヒカン族は文章・発言の背景を知ろうとすることをしません(もっとも一部の偽モヒカンは違う様だが)。何故か?そんなことは無駄だと思っているからです。彼らにとってその文章の著者が誰かと言うことは「その文章のジャンルはどれか」とか「その文章の評価はどうか」と同じぐらいの意味でしかないのです。いわばソーシャルブックマークのタグと同じです。一応付加情報として知っとくと便利だけど、無くても何にも困らない。彼らにとって文章の署名とはその程度の意味しか持たないのです。

ですから彼らは文章を批判するときも、それが相手を傷付けることであるとは一切考えません。「ハンドアックス」という言葉がそれを象徴しているでしょう。文章・発言に対する批判というものは死ぬことはないものなのだから、配慮など必要無いし、そんなに慎重になることもないと、そう考えている訳です。

次に「システム論者」について説明します。彼らは基本的に「倫理」とか「信条」とかそういうものに何ら肯定的な価値も認めません。ですが、だからといって彼らがニヒリストであると考えるのは早計です。彼らは確かにそのようなものは信じませんが、しかしその一方で彼らが絶対的に信じるものがあるのですね。それは「システム」です。人間は自らの持っている倫理や信条によって動いているのではなく、その人間が属している「システム」によって制御されるのであって、「倫理」とか「信条」はあくまでそれによって生みだされる産物に過ぎない。だからもし何か問題が起きたのならば、倫理や信条に働きかけても無駄(だから倫理や信条なんかに価値はないと彼らは考える)、それよりもシステムを変えてしまえば簡単に問題は解決する、そのような考えがモヒカン族の思想なのです。

最後に「合理主義者」について。これは実は「システム論者」であるということと密接に絡んでくるのですが、人は皆合理的に行動すべきだというのが彼らの考え方です。非合理なものは人を苦しめてしまうのだから、そのようなものは理性によって合理的なものに改善しなくてはならない。その時に活躍するのが「システム」なのです。

何故僕はモヒカン族を批判するのか

このようなモヒカン族の思想は、確かに彼らの敵として存在している(と彼らが主張する)ムラ社会と比べれば遙かに良いものでしょう。このBLOGを読んでいる人の中には僕を「ムラ社会賛美者」であると勘違いしている人も居るでしょうが、もちろんそれは違います。僕は「社会」の圧力の元に他人との違いを消し去ろうとする輩は大嫌いですし、何より面倒なことは大嫌いです(*3)。ですがそもそも本当にモヒカン族とムラ社会というのは対立する概念なのでしょうか?僕は「それは違う」とはっきり断言できます。むしろこの二つの概念は同じ事象の裏と表でしかありません。ではその事象とは一体何なのか?それは「人間性の抑圧」です。

例えば「文言単独主義者」について考えてみましょう。モヒカン族達はある人の文章・発言に対する批判は、別にその人自身を攻撃するものではないのだから、人を傷付けたりはしないのだと主張します。しかしではその人の文章・発言に全く関係しない「その人自身」って一体何なのでしょうか?もしそれを説明するならば、人間というものを動物にまで退化させ、その人の身体性に基づかなければならないでしょう。何故なら人間が人間として表象するのは文章・発言などを用いたコミュニケーションの次元でしかありえないからです。アイデンティティ(*4)やレゾンテートル(*5)は一方的な説教などでは成立せず。他者とコミュニケーションしていく中でその都度成立し、そして消え去っていくものなのです。

そりゃ確かにある一つの発言が否定されただけで自分が全否定されたと感じるのはおかしな事です。例えば僕はこの文章で「反モヒカン族の僕」を表象させていますが。もしこの文章が否定されたとしてもそれは僕の反モヒカン的な所が否定されただけで、僕の大部分はまだ生き残っています。ですがそうだとしても、この文章が否定されるということは僕の一部を傷付けられるということなんですから、「俺は文章は批判したけどお前自身は何も傷付けてない」というようなことを言われたら流石にムカつきます。「反モヒカン」というのは僕の人格の一部なのですから。さらに言えばモヒカン族は「文章・発言批判によって死ぬことは無い」と言いますが、今まで自分がコミュニケーションでしてきた発言・文章などを全部一気に否定されても、そのような言葉を果たして言えるでしょうか?僕は言えません。(*6)もしそのようなことをされたら、僕は(肉体的か精神的かはともかく)死にます。その後全く新しい「僕」が出来るか出来ないかは分かりませんが、とにかく今までの僕は完全に死にます。「ハンドワックス」は(可能性はもちろん低いですが)人を殺す力を持つ凶器なんですね。それを無条件に使うことを正当化する彼らを、やはり僕は「人間の尊厳」という観点から許すことは出来ないのです。

また「システム論者」の側面も僕は全くおかしな思想だと思っています。成る程この世の問題の中にはシステムによって解決できるものもあるでしょう。しかしでは私達はシステムの万能性を完全に信じ切ってしまって良いのか?僕はそうは思いません。特に人間対人間に関してはシステムに任せる事は殆どの場合不可能でしょう。人間の「こうして欲しい」という欲求は次々と変わりますし、その欲求の内容は実は本人自体も完全には分かっていません。しかもその完全には分かってない欲求すら、もし文章・発言など他者への意思伝達に用いられる手段を通じて伝えられると、その内容は大きく変化し、相手に届くときには全く違う意味になるのです。そしてその様な変化がどの程度なのかを知るということは、予測不可能なのです。

このような不確定要素がありすぎるものを人間の介在しない(人間が介在すればそこには「倫理」とか「信条」とかが重要な要素になるんだから)システムに任せたら一体どうなるでしょう?確かに、そのシステムを作成するきっかけとなった、その人が発言・文章で出しこちらに伝わった要求は解決するかもしれません。しかしそれはあくまで過去のその人の要求であり、現在その人の要求を満たしているかどうかはかなり怪しく、未来に関して言えばそのシステムは絶対その後その人の望むものとはかけ離れたシステムに変わっていくでしょう。故に例えもしそのシステムを作る時々で人の介在しないシステムを作ったとしても、そのシステムをその人の要求を満たす為に終わりなきアップデートをしていくのは人間なのであって、人間の作業が加わる限り倫理や信条や思想は絶対避けて通れない問題なのです。

モヒカン族の方々はまるであたかもロボットかのように人間の心が機械化して、ただ仕様書に沿ったシステムを作れば良い、そして人々は自分たちの出した仕様(*7)を満たしたシステムを作ってもらったんだから、文句を言わずそれに従えば良いんだと考えているようですが、その様な方法は(そのシステムを作る人達の人間性を無くすだけでなく)システムを使う側の人間性すら無くしてしまうでしょう。

最後に「合理主義者」についてですが、はっきり言って僕は21世紀になったって言うのに未だにこんな素朴な理性絶対信仰を聞くとは思ってもみませんでした。まぁそんなことは言ったって日本ではヨーロッパみたいにホロコーストのような「理性の狂気」的悲劇を経験していない(もちろん日本も関東大震災後の朝鮮人大虐殺や南京大虐殺などホロコーストと同じぐらい狂気に満ちた悲劇を行ってきた訳ですが、それらは今話題になっているモヒカン族的な言葉を用いて言うならば「ムラ社会の狂気」な訳です)のですから、仕方がないと言えば仕方がないのですが……にしたって「みんなが理性でもって自分の利益を追求すれば全てうまくいく」というのはちょっと僕からしてみれば恐怖です。

僕は理性には二つあると思っています(*8)。まず最初に、何か目的があって、その目的に最も最短の道をとるということです。モヒカン族が「合理的」とか言うときの「理」はまさにこれでしょう。しかしこれは実はとても危険なんですね。何故ならその理性は目的に対して本当にその手段が妥当かは問いますが、しかし目的そのものの妥当性は問わないからです。例えば「国の政治は全て国益の為に行おう」という時、確かにその国益に対して現在行っている政策が本当に国益に適合しているかは問われるでしょう。これは確かに「合理的」です。しかしその一方で「本当に国益だけで良いのだろうか?」ということはこの様な「理性」においては一切問われません。

しかしその一方で私達はもう一つの理性を持っています。それは「人間性」と言い換えても良いでしょう(しかしもちろんそれは先天的なものでなく後天的なものです)。それは他者とのコミュニケーションの中で自分という存在は居るのだから、他者とのコミュニケーションを大事にし、そのコミュニケーションが健全な環境(=自由)の元で行われる様にし、それを元に自分の立場・目的というものを決めようとする考え方です。こう書くと訳が分からなくなりますが、要するに「そんなに感情的にならないで話し合おうよ」というとき、感情の反対側に位置しているものがこの理性なのですね。

そしてムラ社会の悪しき側面を乗り越える「理性」とはまさにこの後者の理性なのです。確かにムラ社会というものはこの二つの理性を二つとも持っていない社会です。しかし例えムラ社会に前者の理性が加わったとしても、それはその社会の抑圧性を高めるだけでしょう。何故ならムラ社会の不幸という者は、その社会の目的にあるのですから。ムラ社会の存立テーゼは簡単に言えば「社会・国家の為に個人は存在する」ということです。ですからこんな社会に前者の様な理性を持ち込んだって、むしろその人々を不幸にする機構を拡大・強力化させるだけで、何も彼らの不幸を解決はしてくれないのです。しかし後者の理性は違います。後者の理性の影響下に置いては人々は(すり込みではなく)他者との自由なコミュニケーションにより自らの目的を決定していきます。その中で彼らは自我を獲得し、そしてその自我を元に社会のテーゼをひっくり返すでしょう。つまり「社会の為の個人」から「個人の為の社会」です。そしてこの様な変化を起こすのに、モヒカン族的なテーゼは全く必要無いのです。というかむしろ(その既存のムラ社会の悪しき部分を温存してしまうという意味で)有害であると言っても良いでしょう。

序列思想の根源

このようにムラ社会を退治するどころかむしろその悪しき部分を増大させるモヒカン族思想なのですが、しかし残念な事ながらこの思想は拡大の一途をたどっております。何故か?それは彼らモヒカン族の中に拡大思想と、それと表裏一体の序列思想があるからです。その結果彼らは多数派となり、しかも彼らの内には序列思想があるから、彼らが多数派である以上インターネット全体の意見として「モヒカン族>ムラ人」という序列構造が見えるのです。

これはもはや証明する必要もなくmohicanグループの様々なキーワード説明文を見れば一目瞭然だと思うのですが、まぁ敢えて説明しましょう。

モヒカン族の思想が実はムラ社会の悪しき部分を全く改善しないことは先ほど話しました。しかしにも関わらずモヒカン族はまるであたかも自分たちがムラ社会の悪しき所を治す救世主かのように話します。つまり「ムラ社会v.s.モヒカン族」という構造に持って来たがるのですね。これは一体何故なのか?

一つに「彼らの勘違い」ということが挙げられます。しかし少なくともモヒカン族は根性はねじ曲がっていますが頭は良いです。少なくともそんな僕でも分かる様な勘違いをするとは思えません。となるとつまりそのような勘違いをしていた方が好都合だから、そのような勘違いを行う訳です。その様な勘違いをすれば、自分たちの拡大が正当化される。そのような理由から彼らは「自らはムラ社会と対立するものだ!」と宣伝する訳です。

大体、もしモヒカン族が拡大を志していないとするならば、何で彼らは自分たちのグループの中に引っ込んでないで、外に出て様々な人に(彼らはハンドワックスと自称する)殺傷能力のある凶器を投げつけるのでしょうか。何で彼らは自分たちの思想でもってモヒカン族でない他者の思想・倫理を否定、もしくはシステムによって排除しようとするのでしょうか。人体人のコミュニケーション(そこでは「文言単独主義」なんてものは絶対に通用しない)を徹底的に無価値とするにかかわらず、彼らは人体人のコミュニケーションをします。この様な場合、目的は一つです。それは「最終的にそれ(この場合は人体人のコミュニケーション)を世界中から廃絶する為」です。では世界中から人体人のコミュニケーションが廃絶する時とは一体どんな時なのか?それは全ての人の思想が均質化されたときです。そして彼らはモヒカン族なのですから、彼らが望む均質化とは、つまりモヒカン族化に他なりません。モヒカン族思想は人体人のコミュニケーションを認めない思想なのですから、そのような思想がこの世界で生き残っていく為には、自分の思想によって世界中の全ての人々をひれ伏させる以外に方法は無いのです。

拡大するモヒカン族思想

そしてそのような意図のもとの思想は全世界に拡大の一途を辿っています。こういう風に言うと「それは君大げさだよ」と言うかもしれませんが、僕は決して大げさだとは思いません。確かにid:otsune氏がこのような考え方に「モヒカン族」という名を付けたのはつい最近ですし、彼が想定していた範囲もネットやコンピューター関係の業界ぐらいだったと思います。しかし僕はこのような思想は既に1980年代には増殖し始めていたし、また実は昨今の政治経済の影にもこのような思想があるのでは無いかと考えます。もちろんこれは別に陰謀ではありません。今現在の所、モヒカン族同士を繋ぐコネクションはmohicanグループ以外に何もありません。そしてこのようなサイトを一度でも見たことのあるモヒカン族は本当に割合で言えばごく少数、大部分のモヒカン族は自分のことを「モヒカン族」であるなんて全く知る由もなく―しかしその行動様式は確実にモヒカン族思想でありながら―暮らしているわけです。

そしてそのモヒカン族は今確実に社会を変えつつあるのです。例えばここ最近日本の政治ではマニフェストというものが人気です。マニフェストとはつまり自分たちが政権を取ったら何をするかということを書いているものなのですが、今日本では選挙の時は「これさえ見とけばあとはどーでも良いんだ」というぐらい立候補者にとっても有権者にとっても重宝されているものです。

しかしそれって何かおかしくないでしょうか?マニフェストというものには確かに政策を知るには役に立ちます。しかし一方で、マニフェストには確かに具体的な目標は書いてありますが、しかしその党がそもそもどんな思想を持っているのかとか、日本をどんな国にしたいのかか、そういう大きなビジョンは何も書かれていません。ですから確かにマニフェストを見れば「この政党は選挙後こんな政策をやる」ということは分かるのですが、しかし「この政党はこのような思想に基づいて政治を行う」ということは全く分かりません。これでは確かに選挙直後は安心かも知れませんが、それ以降は本当に「訳の分からない奴らに委任状を渡した」ことになるわけで、決してマニフェストだけを用いた選挙が選挙民の幸福になるとは考えにくいです。(*9)

しかしにも関わらず日本ではマニフェスト支持者が多い。一体何故か。僕はここに「モヒカン族」の重要な特徴である「文言単独主義」の臭みをかぎ取って仕方がないのです。政党の歴史や思想的位置を一切考慮せずに、ただ政策のみを争点にして議論するというのはモヒカン族の言う言説だけに注目するというのにぴったり一致します。これは偶然の一致なのでしょうか?僕はそうは思いません。そもそも今日本の政治家で一番人気があるコイズミは、モヒカン族と同じように「旧社会のしがらみと対決する!」と言って出てきましたし、確かにそれに基づいて自民党のムラ社会的派閥政治家を倒しました。彼の「景気を回復させる」という目的は現在の経済状況を見る限りでは確かに成功させています、その限りで彼はモヒカン族的理性を持っている頭のいい人間なのでしょう。しかしその景気回復の裏で日本では賃金格差が拡大し、新階級社会に向けて今日も一歩ずつ進んでいるわけです。つまり「景気回復」という目的に対してどんな方法を使えばいいかは合理的に判断するけど、その「景気回復」という目的の為に階級社会を作ることを国民は本当に望んでいるかについては、彼は全く国民の意見を聞こうとはしなかった。この点でも彼はやっぱりモヒカン族的理性は持ち合わせてるけど他の理性は持っていない人な訳で、典型的なモヒカン族なのです。そしてそれを支持するコイズミ支持層の人達も又、彼と同じようなモヒカン族的思想を持っており、だからこそコイズミを支持する訳です。

またモヒカン族というものはまとめサイト脳ともリンクしています。これについて何故誰も言わなかったのか不思議で仕方なかったんですが、まとめサイト脳の人達が何故まとめサイトの内容を簡単に信じ込んじゃって、その裏を追求しようとしないかと言えば、まさに発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目するを忠実に履行しているからです。例え世界日報であろうがワシントンタイムズであろうが国民新聞であろうが2ちゃんねるであろうが酒場の親父の話であろうが、ニュースソースに注目して「これは○○が出している所だから間違っている可能性が高い」なんて言っちゃいけないと彼らは思ってる訳です。しかしよく考えてみてください。よほどの情報通ならともかく、まとめサイトを見る様な素人がそんな言説だけ見て何が間違ってるかなんて理解できる訳ないでしょうが。結果彼らは「ソース:2ちゃんねる」だったり「ソース:世界日報」な情報を簡単に信じちゃう訳です。その他にも、ぱどタウン論争(id:rir6:20050626:children)で「対話なんかしてられっか。ガキなんてシステムで教育しちまえば良いんだよ」というようなモヒカン族的暴論が吐かれ、しかもその暴論が大多数の支持を得たりするところから見ても、モヒカン族が多数派であることはもはや疑いようのない現実なのです。選挙の時「偽物の弱者をあぶり出せ」なんて議論が盛んでした(*10)。しかしその時モヒカン族は2038年1月19日3時14分8秒(世界標準時)までに反対勢力の数の力に負けて滅ぶことが決定しています。なんて言葉を叫ぶモヒカン族の「弱者性」が本物であるのか、気にした人は一人として居たでしょうか?

最後に

何かもっと他にも書きたいことは一杯あった気がするのですが、まぁ良いです。ただ最後に一つだけ。

モヒカン族でも、ムラ人でも無く、僕は僕という人間として発言します。あなたは、どーなんですか?


*1: 居なかったりして

*2: でも、僕はそのようなスタンスこそ正しいと思ってるけどね

*3: ただそこで僕とモヒカン族の人が違うのが、モヒカン族はそこで「どうやったらこの仕事をもっと短縮できるだろう?」と考えて実際に行動に移すのに対し、僕はその仕事を放り投げて寝ちゃうってことなのだろう。良く分かんないけど

*4: 自分が自分である理由

*5: 「ここにいても、よいりゆう」byエヴァ第二十五話(asin:B0000CBC3O)

*6: でも人生一度で良いからそんな体験してみたいよなぁ。

*7: 実はここにさっきの「文言単独主義」が絡んでくるんだけどね

*8: ま、これはある人の受け売りなんだけどさ。

*9: ここら辺の記述はhttp://www.asahi.com/ad/clients/waseda/opinion/opinion158.htmlを参考

*10: それについては一言二言言いたいことがあるがここでは言わない。