Rir6アーカイブ

2007-07-09

[嘲笑]メタブクマされる時

http://anond.hatelabo.jp/20070705224150

自分が「ワンランク上」にいないと気がすまないタチなんだろうか。

火災現場の見物人をさらに見物してますよ、みたいな。「趣味:ヒューマンウォッチング」とか言っちゃうんだろうか。

というのが本当かどうかは知らんけど、面白いメタブクマの例があったので紹介

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20070706/1183722718

2007年07月08日 id:fuku33 竹田さん 議論の前提のリテラシーとか、ロジックのスキル、そのへんの訓練を受けないまま想念を放出する機会がいきなり与えられた「ブログ以後の世代」というのは、ある意味可哀想ですね。それとこの方すごく権威主義ですね。

2007年07月08日 id:morutan なんだこれ?, これはひどい, しょっぱい, UMA オレの話を聞け(ぼえーっ)、って感じ。そもそも前提として「論理的でない」ではなく「現実的でない」といっているのだが?システム論の理解も不十分。ポストモダン臭。ギロンのためのギロン、か?話にならない

2007年07月07日 id:NOV1975 議論 僕とのやりとりの中でも思ったけど、反論ではなくて別の前提に立った自説の主張の中で否定されるべきものとして触れられるというやり方だから、名指し、TBありで反論風に書かれてもなあと思うのですよ

2007年07月07日 id:REV 「「前提の採択」と「論理演繹」の分離ができていない。」短いけど真理。

メタいみねー

[悪意]21世紀の権威主義者

はこうして作られるということがよーく分かって大変面白い。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070708/1183894651

学ぶことが「自ら変わる」ことであるなら、誰かの権威がその人に変化を強いることは不可能だし、無意味である。僕が自分の立場と名前を明らかにしているのは、自分の言葉に幾許かの責任を持とうと思うからです。僕の肩書きなど全くなにほどの力もないですが、僕の言葉の論理でなく肩書き、それに力を感じる人がいるとすれば、それはその人の認識が自ら肩書きの力に屈服することを望んでいる、その人の心の中の現象でしかありません。

その方の心の弱さの責めを他者に負わせようとするときに、その方はますます御自身の弱さに支配されるだけでしょう。こういう言い方はますますその方の欺瞞を強化してしまうだけかもしれませんが、学びというのは、いろいろなきっかけは縁あって世間からも働きかけられるものであるにしても、その結果はあくまで自分の中から生まれるものであって、決して自分の外にあるものを単に受け入れ、支配されることが学びではないのです。ある「権威」を批判するときに別の「権威」を引っ張って来てなんとかしようとかするその行動の癖自体が、ひっくるめてどちらの権威にも支配されていることの証であって、自分の思考を自分で問題に出来ていないことの裏返しでしかありません*1。

※1:他人から見てそういう「青さ」が微笑ましいこともあるかも知れないが、自分で売りにするのは浅ましいね

僕は自意識過剰でクリリンな人間なので、つい「これって僕のことを指してたりして?」とか思ったりしますが、まぁそんなこと言ってたってどうせ「クリリン」とかタグ付けされるのがオチなので、それは一切考えないことにします。

にしても……まぁ、「権威なんてものはそれを権威だと感じる人が居るから権威となる」っていうのは確かに真実なんですが、にしても、そこから「権威なんてものは個々人の心の問題に過ぎない」と言い、それについて考えることを放棄するっていうのは、正直大学の学者として大丈夫なのか?という感情を抱かざるを得ません。

例えば、ある行為がセクハラであるかどうかっていうのは、「その行為をセクハラと感じる人が居るかどうか」ということによって問題化(*1)されます。もちろん、ある人がある行為をセクハラだと告発しても、それによりその行為がセクハラだと即決定される訳じゃない。ただ、ある人がある行為をセクハラだと告発しているのならば、当事者やその行為が行われた場所を管理する管理人は、その人の告発について真摯に考えなければならないわけ。僕が言っている「問題化」とは、そういう水準での話です

しかし、ここでもし、「セクハラと感じるかどうかは、そう感じる人の心の問題に過ぎない」と言い、考えることそのものを放棄する人が居たとしたら、一体あなたはどう思うでしょう?少なくとも僕は、「人間として駄目な人」だなぁと思います。

そして、id:fuku33氏が言っていることというのも、実はそれと同じです。だって彼は、「権威」というものを社会的な問題として考えることそのものを放棄しているのですから。

もちろん、別に僕は「権威を人に感じさせれば、それは全て権威的な行為として否定されるべきである!」と言うつもりはありません。もしかしたらそれは、id:fuku33氏が言うように、それを感じる人の妄想かも知れません。でも一方で、それは社会の仕組みに起因する構造的な問題なのかも知れないのです(*2)。そして、それが本当に個人の妄想なのか社会的な構造によるものなのかは、その異議申し立てされた「権威的行為」それぞれについて、具体的に検証しなければ、分からないのです。

というか、こういう議論はむしろid:fuku33氏の専門だと思うんですがねぇ……。例えば、単なる一般人が「これは身体に良いことが証明された食べ物です」と言うのと、大学の先生が「これは身体に良いことが証明された食べ物です」と言うのの、どちらがより広告効果が高いか?そういうことをちょっとでも考えれば「権威なんてのは個々人の心の問題だ」なんていうのは、口が裂けても言えないはずなんですが……

勝手にid:fuku33氏の経営学者としての能力を疑問視してみたりします。

*1: 「決定」ではない

*2: そして、大学の学問なんていうのは、まさにそうやって権威を社会的なものとして構造化することによって成り立ってきた、そういう学問です