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2007-07-31

[僕の俗流若者論]「未来」って、なんだろう

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/essa/20070731/p1

# 2007年07月31日 Rir6 どーでもいいけど 「今の若者には『未来』が無いんだ」という「理解ある大人」の声に頷く若者が居るとしたら、そいつらこそが「未来」を亡きものにしてるんだよ。「未来」は与えられるもんじゃなくて自分で奪い取るもんだろーが。

というコメントに対して

# 2007年07月31日 rna 政治 世代間対立を煽るようでもあるけど、くすぶらせるよりは表にリングを用意してプロレスしたほうが健全なのかも。/「その時は無茶苦茶な夫婦喧嘩になりました」ちょww/社会基盤壊されたら奪うものすらなくなるよ>Rir6

というようなことが言われました。

でも、僕からすればこれは全くずれた返答です。だって、僕は別に「社会基盤」とか、それによって生み出される「財」とか「サービス」とか、そういうものを奪い取れと言ってるんじゃなくて、「未来」を奪い取れと、言ってるんですから。

例えば、もしお金とかそういうものが「未来」だとしましょう。もしそうだとしたら、「未来」をより多く手に入れるには、例えば老人たちにたいして年金の支給を停止したりして、その分を若者に分配すれば、「未来」は若者たちの物になるでしょう。

でも、その結果訪れる世界は、自分達が生活する町で、老人たちがホームレスになって路上にあぶれ、死んでいく、そしてそんななか私たちは生きて、金を使うことを強制される、そんな世界です。

はっきりいって、僕はそこに「未来」があるとは到底思えないんですね。もちろん全ての若者がそうであるとは言えませんよ。例えば赤木氏みたいに、散々若年フリーターとして社会に痛めつけられてきた人は、むしろそういう世界の到来に希望を見出すかもしれない。でも、これはまだ社会を知らないガキの戯言かもしれませんが、そんな世界が到来することが、自分達の「未来」であると、僕は信じたくはないんです。

「未来」とは、自分が自分どおりにそこで生きていくという、イメージのこと

じゃあ「未来」とは一体何なのか?

難しく考えるのは止めて、直観で判断しましょう。「未来」、とくに自分にとっての「未来」を具体的なイメージとして頭の中に思い浮かべてみます。

何が思い浮かんだでしょうか?

多分、その光景は人それぞれだと思います。科学が発展し、SFが現実になったような未来、環境破壊が進んだ未来、戦争によって荒廃した未来、家族とともに幸せに暮らす未来、仕事も見つけられず家族も作れず、日々を絶望の内に暮らす未来・・・

ただ、いずれの「未来」にも共通して言えるであろうことが一つあります。それは、「自分がそこで生きている」ということです。

もちろん、それが当てはまらない人も居るでしょう。例えば老人にとっては、自分が死んだ後の世界が「未来」になってしまうのかもしれないし、若い人でも、末期癌などに侵されて、余命がいくばくもない人にとっても、それは同じかもしれない。しかし少なくとも、今生きている大多数の若者にとって、「未来」とは、自分がそこでどのように生きるかという、イメージを指すのではないかと、僕は考えます。

「未来」は何処から"奪い取る"べきなのか

そして、「未来」を手に入れるとは、すなわち、そのイメージを成就出来る可能性を手にする、そういうことに他ならないのです。ですから、未来とはあくまで自分の手で掴みとるものであって、他人から与えられるものではないんですね。自分が挑戦しない限り、どんなこともチャンスは0なんですから。

では、その「未来」という可能性は誰が持っているのか?これは、それこそその人がどんなことをイメージするかに依ります。先ほども述べましたが、家と車と妻を「所有」して、幸せなニューファミリーを形成する、そんなイメージを抱いてるんだったら、確かに既得権益なる人達がその未来を所有しているのでしょう。しかし僕から言わせれば、彼らの未来イメージはーそれが経済的苦境によるものであることは重々承知ですがー余りに貧しいイメージであるように思えます。だって、持つものが増えるっていうことは、それだけ自分を縛るものが増えるってことに他ならないじゃないですか?毎日朝早く起きて通勤電車に乗り、そのまま夜まで拘束されて弱者から搾取する作業を強制され(*1)、帰ってきたらただ人を慰撫し、何も感じなくさせる、ドラマやマンガ・アニメなどの文化ドラッグを摂取し、寝るだけという、そんな生活を、何でわざわざイメージしなきゃならないのか?

他の人はどうかは知りませんが、少なくとも僕は、そんな檻に閉じ込められたような生活はイメージしたくありません。

僕にとって未来とは、一人でふらふら不規則な生活をしながら、ニコニコ動画とかで遊ぶ、そんな生活です。もちろん、そんな生活していたら、いつかはお金が無くなり、道端で野垂れ死ぬかもしれません。でも、例えそうだとしても、僕はそんな何十年も檻に閉じ込められた様な生活を送るよりは、数年でいいから、そんなだらしない生活を送って、自分の人生を自由に生きたいと、そう考えるんです。

そして、そうである以上、僕にとって奪うべき「未来」を持っているのは、そのようなだらしない生活をすることを抑え込み、「労働しろ!」とか「勉強しろ!」とか強制する、そんな〈真面目な人間〉の社会そのものです。そして、そうである以上、そこでは年齢などによる区別はありません。例えば、僕たちゆとり世代の中にも、「ゆとり教育」を否定して「読み書きそろばん」こそが重要だと語る連中(*2)が居ますが、しかし僕にとっては、そいつらも敵の一人です。逆に、例え老人であっても、そういう「だらしない生き方」を奨励するのなら、その人は同志なのです。

「未来」を「成長」と同義としかみなせない狭量な世界観が、若者の「未来」を見えなくする

実はそういう見方から立つと、元記事の記述についても面白いことが言えるかもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/essa/20070731/p1

私はかなり奥さんに尻に敷かれている方ですが、それでもごくまれに妻を叱りつけることがあって、そのうち一つは彼女が鏡を見ながら「若い人はいいわねえ」(*3)と言った時。

「今の若い人の気持ちを自分たちが若い頃の経験で推し量ってはいけない」

とマジで怒りました。

お肌の問題に悩んでいる女性にこんなことを言うのは明らかにコンテキストがずれている応答なので、その時は無茶苦茶な夫婦喧嘩になりましたが、折に触れ、そういうことを一年くらい言い続けていたら、ある時突然、これと言ったきっかけもなく「今の若者には『未来』が無いんだ」ということをストンと理解しました。

まぁ、そもそも自分と違う他者のことを、話もせずに「理解」出来ると思う時点で傲慢なんですが、それにしてもこれはひどい

まぁ、確かに今の若者は、上昇志向が無いとか、10年後の将来に絶望しているとか、そんな話は『希望格差社会』とかを始めとして、さまざまな本で言われています。それに対して、「理解ある大人」たちは、それは社会の構造変化により将来も安定的な成長が約束されなかったことによるものだとか、色々なことを言って、「今若者は希望=未来を持てなくなっている。それは私達大人の責任だ」と言います。

しかし僕から言わせてもらえば、そもそも若者は10年後の将来なんてそんな先のこと考えてないんですよ。例えば僕なんかは、進路に関しては全て最終学年の夏休みになるまで全く真面目に考えてきませんでした。そして今も、大学を出た後の進路は全く考えていませんし、そうである以上、自分が10年後どうなるかなんて、想像もつかないのです。まぁ、僕は特殊なのかもしれませんが。

しかしやっぱり殆どの若者にとって、10年後の将来なんて、想像も付かないだろうし、そもそも考える意欲さえ湧かないでしょう。だから、適当に世の中が持っている、「若者はこんなことを考えている」という若者イメージと合ったことを答えます。

しかし、それをもって若者には「未来」がないなんて答えるなんていうのは、それこそ「未来」=「成長」としか考えられない、成長病信者たちの症状でしかないんですね。例えば、こう聞いてみりゃ良いんですよ。「あなたは明日も生きていますか?」と。そうすれば殆どの人は「はい」と答えるでしょう。そして、「今度の休み、何をしてます?」と聞けば、その人はその休みの予定を述べるでしょう。ある人はアニメを見ると答えるかもしれない。また別の人は彼女とデートをすると答えるかもしれない。実は、それだけで「未来」があることは十分証明されているんですよ。だって、1秒後も1週間後も10年後も、同じ等価値の「未来」なんですから、ただ余りに遠くなると社会的なバイアスの影響力が強くなるだけで、1週間後とかを聞けば、彼らは十分「未来」について考え、それを成就することに挑戦しているんです。

もちろん、その「未来」の内実がどのようなものであるかにはそれぞれ考えがあるでしょう。しかし、そうだとしても、若者に「未来」が無いなんて言い方は、端的に間違いだし、逆にそう言うことによって若者から「自分で進む力」を奪う、絶対やってはいけないことなのです。

本流若者論者よ、「未来」を語れ!

しかし、「若者」に属する論客、特に若者論を批判する論客(僕は、彼らが自分達と敵対する若者論を「俗流若者論」と批判することから、本流若者論(者)(*4)と読んでいます。)の中には、このような絶対乗ってはいけない論旨に乗ってしまう人が多々居ます。

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2004/12/post_a3f2.html

 確かに、現役の大学生の私にも、件の学力調査の結果は衝撃的でした。ですが、私がさらに衝撃的だったのは、これを報じたマスコミが、さも鬼の首でもとったかのような安易な文部科学省批判ばかりやっていたことです。

 これでいいのでしょうか。

 私は、学力低下の原因をひとり学習カリキュラムの削減に求めるのは愚策だ、と思っています。確かに、学習カリキュラムを削減すると、学力は低下するかもしれませんし、今回の調査はそれを裏付けた、とも言えるでしょう。

 しかし、私は学力低下の問題には、もっと大きな問題がぶら下がっているのではないかと思えてなりません。

(略)

《普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差》。そういえば、わが国の中学生は先進各国に比べて学習時間が少ない、という統計も同時に出ていました。しかし、いくら努力しても報われない社会が目の前にある、というのであれば、ある意味、学習時間が減少するのも仕方ないのではないでしょうか。

なんで現役の大学生だからってそんな学力調査の結果に衝撃を受けなきゃなんねーのか、さすが真面目な学生の考えていることは違うなぁと感心しますね(*5)。

そして、そのような〈真面目な学生〉の反応は、以下のような〈真面目な市民〉の反応を導き出すわけです。

はじめまして。

一読して、胸の内にあったモヤモヤがすっきりといたしました。

ほんとうにその通りだと思います。

「勉強しても、どーせ・・・」という子どもたちに、明るい未来への夢

を持たせてやりたいと、子育て中の母親の一人として痛感しています。

そして、多分この親は、子供に対して「『勉強しても、どーせ・・・』なんていうのは社会に毒されているのよ!」とファビョリながら子供に勉強を強制するのでしょう。全く、素晴らしすぎて反吐が出ます

学力低下?より勉強しなくなった?いいじゃありませんか。その分より自由に生きているんですから。何?国際競争力が低下する?ほー、するとあんたは、日本はこれまでと同じようにどんどん経済成長を続ける=発展途上国から搾取をしつづけるのが良いと、そう考えるわけだ。このFuckin' JAP野郎!

(というかね、後藤氏の意見は、一見若者を擁護しているように見えながら、実は「勉強に意欲を持ち、真面目な高学歴の若者」擁護でしかないのは、もはや自明だよね。

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/04/post_aedc.html

内藤氏は、オーストリアでの実例を引き合いに出して、《ピアスや茶髪を犯罪であるかのように「摘発」する教員が、分数もできない中学生を卒業させてしまうような、日本のでたらめな「甘さ」とは好対照である》と、現行の教育体制を批判する。要するに内藤氏は、本来学校に求められている知識の習得には「厳しさ」を、そしてそれ以外の場には「緩さ」を求めているわけだ。「世界」における内藤氏の議論には、内藤氏のこのような主張が不足しているように思える。

と書いて、分数のできない人間には「厳しく」対応しろという説教(*6)に同意し、成人式についても、「自分の運営した成人式は正常だった」と繰り返すだけで、そういう論によって彼は暗に成人式で暴れる若者を「一部の愚かな人々」という風に切断処理するわけ(*7)です。

・・・というか、そもそも自分が成人式の実行委員であったことをあそこまで恥ずかしげなく宣言できる神経が、僕には理解できないんだけどね。

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/02/post_7942.html

 私は、平成17年仙台市成人式のパンフレットにおいて、《これからの時代にとって、「市民」あるいは「国民」としての自分の生き方を見直す、という意味での成人式があってもいいのではないか。そう思いこの委員会に臨んだ所存である。ここに参加することで自分を見つめ直す人が少しでもいれば幸いである》と書いた。

という風に、「市民」あるいは「国民」概念については、彼は一切疑わないわけだ。若者は20才になったら「国民」としての自覚をもち、自分の生き方を見直さなきゃならない・・・ねぇ、それなんて『戦争論』?

ま、良いんだけどね。どうせ↓の様なことを高らかにしちゃうような人だし。

 1・平成17年1月10日

 「仙台魂をー!」

 「誓います!」

 円陣を組み、平成17年仙台市成人式実行委員会長の伊藤洋介氏の掛け声の後に、伊藤氏と私を含む実行委員11名が一斉に声をあげた。その後、私が

 「出陣!!」

 と勢いよくドアを開け、一人で勝手に暴走している私をよそに実行委員全員が平成17年仙台市成人式会場の舞台袖に移動した。

(略)

 「国賊成人式報道これ討ってよし!」

 と小さく掛け声を上げて、私は壇上に登った。

キショッ!

もちろん、彼ら本流若者論者の議論により、俗流若者論によって自分を劣等視していた人(*8)を劣等感から解放した。これは確かですよ。その点の功績は評価できます。でも、その一方で、結局彼らは若者を従順な「社会人」(*9)にするシステムを整えるよう社会に要求して、そしてその裏返しとして若者に「社会人」になることを要求するわけです。ですが、そんな経済成長のために自己を犠牲するような社会システムは、もはや既に若者の方から拒否られているのです。そうである以上、結局の所、本流若者論者は、ただ俗流若者論の批判をするだけで、有効な対案、つまり若者の「未来」の在り方を提示できないのです。それならまだ、破滅的とはいえ、若者の未来を具体的な形として提示する、俗流若者論者の方が人気が出るのは、ごく当然です。

もし本当に俗流若者論と対決するというなら、本流若者論者は、まずこれから若者はどのような「未来」を生きるべきなのか、そういう未来イメージを提示すべきです。そして、そのようなイメージの視点から、俗流若者論を、それを統計学とか駆使して「真/偽」で判断するのではなく、それこそ小卒ですら分かるような「善/悪」で判断してみるべきです。それが出来ない限り、本流若者論は絶対俗流若者論に勝てません。

まとめ

*1: 資本主義の仕事、特にサラリーマンの仕事なんていうものは、弱者から強者へ所得を移転、つまり搾取することに他なりません!

*2:

*3: 実はこれは僕の認識と同じ。僕は、自分は、他の世代と比べたら幸せだったと自己認識している。何故なら土曜日授業が無かったから。もうそれだけで、僕にとってはゆとり教育は万々歳だし、僕の次の世代は土曜日も学校に行かなきゃならないかもしれないという話を聞いて、「可哀想だなぁ。僕らの幸せを分けてやりたいぜ!」と本気で思う

*4: っていうか、「後藤氏とその取り巻き」と読んでも良いんだけどw

*5: もちろん皮肉

*6: こういう考えに立つと、例えば九九が言えなくて立たされた僕なんかは、どうなるんでしょうね?当然勉強に関しては「厳しさ」が要求されるから許容される?でもあれ辛かったなぁ・・・

*7:  照明が落ち、司会の黒田典子氏が自己紹介をすると、会場から一部の不逞の輩が 「典子ー!」と黒田氏に対して叫び声を上げていた。私は少し腹が立ち「あの莫迦、どうにかならねえか?」と小声で愚痴をこぼしたところ、「まあまあ」と、隣にいた実行委員の榎森早紀氏に諌められた。

*8: そんな人間多くないと思うけどね♪

*9: 確かにこの人達は「給料」は保証されるだろう

この日へのコメント

syujisumeragi 2007/07/31 21:00
>金が無くなるまで東京で放浪します。何か会ったりしてみたい人はtaitiro@gmail.comや、このブログのコメント欄などに連絡を。


俺とRIR6の総括対談をやることは、
川田龍平と小林よしのりの総括対談を実現するよりもはるかに難易度が高く、
そして実現した場合において悲惨な事態になることが予想されるので、

是非やってみたいものです。
Rir6 2007/08/02 20:40
何か仲介者が居ればいいけど、少なくとも二人で話す気にはなれん。