Rir6アーカイブ

2007-09-24

[考える]芸術の権威性を否定しながら芸術を神聖視するの?

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070923/1190560537

世間相場的な価値基準の一つに「ハイアート」と「サブカルチャー」というフレームワークが存在する。

このスキームを多いに利用しているのは村上だが、私はこんなフレームワークなんか糞食らえと思っている。

アートとアートではない物に線を引くのは容易な事ではない。

まぁ、これは確かだと思うんですよ。それこそid:ululun氏がマルセイ・デュジャンの「泉」を例に出したように、現代アートっていうのは、その自らの「アート」という枠組を壊していった。それは僕も認めるし、(権威が解体されていった、という意味で)好ましい変化だと思います。

でも、だからこそ僕は↓の文章には首をかしげます。

私はひぐらしもSchool Daysもウエブで収集した情報程度しか知らないのだけれども、仮に上記引用部が正しかったと仮定して-調べた範囲でしかないが上記引用のような印象を私は持っていないのだが-「見る側」がどのような姿勢で表現物を見ようと作品そのものが変質するとは思えない。

作品は、鑑賞者の前にただ「ある」だけであり、観客が「これはひどい」「こんなの作品じゃねえ」と言おうが「素晴らしい」と絶賛しようが作品そのものが変化するわけではない。

作品は作品でしかなくそれ以上でもそれ以下でも無い。

いや、だからそういう風に「その作品が(どのような)アートであるか否かは、その作品を見れば分かる」的な、本質論を否定したということが、さっきid:ululun氏が例に挙げ肯定した様な、現代アートなんじゃないの?

アートがアートであるかどうかは、それを「アート」として社会が認めるかどうかにある

例えば、何でデュジャンの泉が問題となったかといえば、それがニューヨークの展覧会に出されたからな訳じゃん。

つまり、それまでは作品の本質に芸術性(アート性)があるのであり、そしてその本質を見極められる人が認めて、博覧会なり美術館なりに展示されると、人々はそう考えていた。要するに「これはアートだからアートなんだ」という考え方。

しかし便器が博覧会に展示されたとき、人々はこう思った。便器なんてそれまでは全くアートだとはされなかったのに、展覧会に出された途端それがアートとして扱われる。ということはもしかして、アートかどうか決める基準というのは、そういう作品自体にあるのでは無く、それを「これはアートだ」と認める権威が認めたかどうかにあるのではないかと、そう思った訳だ。つまり、「『これはアートだ』と言う人が居ることによって、それはアートになる」という考え方が、人々の中に生まれた。

そして、現代アートの革新というのは、まさに人々がそういう視点をもつことによって始まったのだと、僕は理解しています。

「これはアートだからアートだ」と言っている時点では、「アート」という概念の曖昧化なんか進みませんよね。だって、それは「アートの本質が示されていない」という意味では、もともと曖昧だし、「アートの本質が存在する」という風に考えれば、本質が決まり決まっているんだから、これでも曖昧化が進むわけがない。

しかし、「アートのアートたる所以は、人が『それはアートである』と認めることにある」と考えてみると、じゃあ人は一体どんなものを(どんな)アートとして認めるか、という観点が生まれ、アートの曖昧化が進んでいくわけです。

要するに、「アート」というものが、神のものから人のものになったんです。それまでの芸術というのは、「アートであるかどうかは神が決めることだ」という考え方に立っていた。「神」が決めるものである以上、人間様がそれを色々いじくったりすることが認められるわけがない。

しかしそれに対して現代アートは「アートであるかどうかは人間が決めることだ」と看破した。そして、人間が決めるものである以上、それは決して完璧なものでは無い曖昧なものだという風に、考えることができるようになった訳です。

だから、見る人がそれをどのように見るかによって、そのアートは変化する

そして、そういう風に考える以上、「そのアートがどのようなアートであるかどうか」も、それを見る人・社会によって変わってくるのです。

もしこれが今までのように「アートの定義は神によって与えられる」と考えるのなら、話は別ですよ。例え色々な人が色々な解釈をしたとしても、ある一つのアートに宿る「意味」は一つなのであり、人がどうその作品を理解するかは関係ないと、強弁することができるでしょう。そのような保守的な見方は、僕は好きではありませんが、一応筋が通っていると言えます。

しかし、もしこれまで述べたような、現代アートの革新を評価する革新的な立場に立つのならば、「ある一つのアートに宿る『意味』は一つである」などと言い、アートは見る人によって変化などしないと主張することは、不可能です。だって、アートが(どんな)アートであるかどうかは決めるのは、その見る観賞者なのですから。観賞者がその作品を見て、そして色々感想を交換され、そして「これはこのようなアートである」と認められた瞬間、それは初めてアートたりえるのです。