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2007-05-06

[生きる]自立は何故リアリティをなくしたか?

『ブレイブストーリー』というアニメの映画を見ました。

絵も綺麗だったし、作品に込められたメッセージも結構考えさせられるものだったように思います(*1)。これで映画として良い作品ならなあ……

ま、それはともかく、実は僕はこの作品を見ているとき、ずっとあることを考えてました。それは

ということです。

家族を放棄する大人達

この『ブレイブストーリー』という映画では、主人公の少年ワタルは、両親が離婚し、そして母親は倒れるという状況を何とかしよう、つまり「家族を取り戻そう」として、その願いを叶える為に『ビジョン』という世界に飛び込みます。

そしてそこでワタルは、(どういう経緯だったのかは失念しましたが)父親の幻想と会います。そしてそこで、父親に「家族に戻ってよ」と言うワタルに対し、父親はこう言い放ちます。

「お前の為に俺は散々我慢してきた。好きなこともやれず、ただお前の為に働く。そんな生活はもうごめんだ。俺はお前らを見捨てて俺の為に生きる」(大意)

ここで僕は、ある作品を思い出しました。それは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』です。この作品でも、主人公である子供のしんのすけは、親であることに疲れた親たちから捨てられます。

「家族の居る日常」を再び取り戻したしんのすけ。「家族の居ない運命」を受け入れたワタル

しかしその「(父)親がいなくなる」という状況に対し、両少年が取った選択は全く異なるものでした。

ワタルはその後ビジョンという世界を旅し、そこの世界の人々と友達になる家庭を経ながら、「願いを叶えようとすれば、この『ビジョン』という世界が滅びる」ことを知ります。そして色々あって(*2)ワタルは「(運命を変え、)家族を取り戻す」ことと「(運命を受け入れ、)ビジョンを救う」という二者択一の選択を迫られ、そしてワタルは、「(運命を受け入れ、)ビジョンを救う」ことを選択するわけです。

それに対し『オトナ帝国』では、しんのすけは家族を取り戻す為に奔走します。そしてその結果彼は再び家族を取り戻し、また再び家族の居る日常へと、戻っていくのです(*3)。

僕が支持するのは断然『ブレイブストーリー』、しかし……

もちろんこの二つの作品の主人公は、「親であることを放棄した親」に対し子供がどの様な選択をするか、ということ以外は全く別々の状況に居ます(しんのすけは別に「親」と「世界」の二者択一を迫られているわけではないし、ワタルは父親を無くしても母親がいる)から単純に比較はできません。が、そこを敢えて比較して言うならば、僕は『オトナ帝国』のメッセージよりは、『ブレイブストーリー』のメッセージを支持したいと思います。

何故なら、そもそも僕は「親」が絶対に必要だとは思わないからです。親が自分のことを見捨てるとしても、何を恐れることがあるのか。逆に自分の行動を束縛する人から自由になれて、喜ばしいではありませんか(もちろん、アニメの様な場合と違って、現実的に考えるならば、今の日本の法制度では、子供は親が居なくなると、親戚などに引き取られるか、施設などに入れられ、強制的に誰かの庇護下に入れられます。ですから、現実的には、親が死ねば却って自由はなくなるわけで、その点で「親が居なくなると困る」というのは理解出来ます)。だって、そんな親であることを放棄するような親の庇護下にいたら、不幸になるにきまってます。(*4)

しかしそうであるにも関わらず、僕はこう言わねばなりません。『オトナ帝国』の話に比べ、『ブレイブストーリー』の話は、やはり劣っていたと。それは、単純に脚本の問題・技術の問題という側面もあります(*5)。だが、それ以上に問題となることがあるのです。それは

ということです。つまり、“子供が親の喪失という運命を受け入れる”物語である『ブレイブストーリー』は、“子供が親を取り戻す為闘う”物語である『オトナ帝国』と比べ、端的にリアリティを持ち得ないのです。どんな良いお話も、それがリアリティを持ち得なければ、単なる妄想となってしまう。かくして、『ブレイブストーリー』は『オトナ帝国』に完璧に敗北しました。

リアリティ無き「自立」

しかしそれにしても、何故「子供が親を捨てて自立する」ということは、ここまで現実味のないこととなってしまったのでしょうか。もちろん僕だって別に親から自立しているわけではないから、「自立しない」理由が分からないわけではありません。端的に言って、自分一人で暮らすより親と一緒に暮らす方が、家事労働が分担出来て楽だし、金銭的にも依存出来るし、いざというときに頼ることも出来ます。

ただ、これらはあくまで「ないよりはあった方が良い」という類のメリットであり、それ以上の何物でもありません。逆に言えば、何か親に依存することにより深刻なデメリットが生じるというならば、僕はあっさりこの依存関係を断ち切るでしょう。

でもどうやら世の中はそうじゃないらしい。つまり、親子関係というのは、どんなに重大な対価を払おうとも絶対存続せねばならないものであり、それを維持する為に親と子は最善の努力をしなければならない。もしそれが断ち切れた時は、その親子は地獄にも等しい苦しみを味わう……そんな感じのイメージで、親子関係というものを見ている気がする。

だってそうじゃなきゃ、そもそもしんのすけは親が居なくなったとしても、放っておけばいい。事実親が居なくなった後彼らは(スナックでジュースを飲んだりして)ある程度楽しくやっていたじゃありませんか。にも関わらず、私達はそこに「親がいなくなった寂しさを紛らわそうとするが、寂しさをなくせない子供達」という心理を読みこむ。極めて不思議です。もちろんこれは『オトナ帝国』だけの問題ではありません。離婚しようとする両親を必死で引き留めるなんて言うのは、『ブレイブストーリー』に限らずアニメ・マンガ・小説のセオリーですし、「若い頃に親をなくした」という説明文があるキャラクターに付けられていたら、それは間違いなく「そのキャラクターにはトラウマがある」というサインです。別に親がいなくてもなんとも思わないキャラクターがいても良い筈なんですが、そんなキャラクターは『よつばと』の「よつば」以外見たことがない(*6)。

(続く)

[言及]http://d.hatena.ne.jp/keya1984/20070504/1178248817について

http://d.hatena.ne.jp/keya1984/20070504/1178248817

を読んで疑問に思う事が多々あったのでここに書いておきます。

「発達障害の診断を受ける」ことを望まないのはそんなに間違った考えなのだろうか

 それにしても「これってハローワークに行くと場合によっては発達障碍とみなされるということになるのかな」って、ずいぶんな言いがかりですね。該当者がそれとみなされてはいけませんかね。

(略)

要は「病気や障害があることにされるのは嫌だよなぁ」ってことで一貫してそうですね。違いますか。それならそれで、自分は健康健全を愛するから病気や障害は嫌なんだと言えば良いでしょう。そこに、不妊で悩む人への配慮が欠けているぞとか、発達障害者の様々な困難を考えておらぬぞとか、さも自分はそこを重視しているんだという格好などつけなければいい。

これはid:kmizusawa氏の発言への批判なのですが、これは僕には問題を故意にずらしているとしか考えられません。id:kmizusawa氏が危惧しているのは「ハローワークに行く人が診断を受けない権利は保障されるのか」ということでしょう。しかしid:keya1984氏はそれを「id:kmizusawa氏は自分が発達障害かどうか判断される事を嫌がっている」という風に誤訳し、さらにそれが「障害者と判断される事を嫌がっている」となり、そしてそれを「障害者を差別している」という風に受け取ります。

これには大きく二つの誤りがあります。一つは別に「診断を嫌と思う」主体はid:kmizusawa氏ではなくハローワークに行く人だということ。そしてもう一つは、別に「診断を嫌と思う」ことは即「障害者と判断される」ことを嫌がるということに結びつかない、さらに言えば、たとえそうだったとしても、それは「障害者を差別している」ということに直接は結びつかないということです。

1.主体の問題

id:kmizusawa氏が上記のコメントで危惧しているのは、「ハローワークに行く人」が診断を受ける事を忌避する権利は保障されるかということであり、「id:kmizusawa氏」がどう思うか、ということではありません。例え診断を受ける事を忌避する事がその発達障害者を差別することと同義であるとしても、診断を受けることを忌避する人がハローワークに来る権利を保障することがは重要です。例え差別的な感情を持つ人でも、いや、差別的な感情を持つ人だからこそ、国はそういう人が、その人が望む範囲で、提供している福祉サービスを受けられるよう保障すべきです。これは差別しない心、差別を憎む心となんら矛盾しません。

2-1.「診断を嫌と思う」こと問題(1)

でもまあ、上記の問題は要するに文法の問題ですから、そんな重要な問題ではありません。それより問題となるのは二番目の問題、つまり「自分が発達障害かどうか判断される事を嫌がる」ことは「障害があることにされることを嫌がる」ことや「障害者を差別している」ということと同義なのかということです。

id:keya1984氏はid:kmizusawa氏の発言に対し、

要は「病気や障害があることにされるのは嫌だよなぁ」ってことで一貫してそうですね。

と言います。ですが、本当に「診断を受ける事を嫌がる」ことは、「障害があることにされることを嫌がる」ことなのでしょうか?

例えば、そもそも「健全/障害」という二分法で人を区切る事を嫌がる人が居ます。また、何か生きるに当たって障害を持つ人が居ることは認めるけど、その判断基準を医学に委ねるのは嫌だという人も居るでしょう。さらに言えば、医学がその判断基準を持つ事は認めるけど、その医学が国家権力と密接に関わっている事を嫌う、そんな人だって居ます。そういう人たちの主張がどのくらい的を射ているかどうかはさておくとしても、そういう人たちがいることは事実です。そして、そういう人たちは、上記の主張を読めば分かるとおり、別に「障害があることにされる」ことを嫌がっているわけではありません。

2-2.「診断を嫌と思う」こと問題(2)

更に言うならば、その様なことを一切無視して、例え「障害かどうかの診断を嫌がる」ことが「障害があることにされる」ことと同義だとしても、それと「障害者を差別する」こととの間には深い隔たりがあります。

そのことを理解するための補助線として、ちょっと自分の例を話したいと思います。私は、小学校6年生のころ、児童相談所に相談しにいき、そしてそこである病院を紹介され、その病院でLD(学習障害)であると診断されました(*7)。何故相談しに行ったか、それは小学校で余りに逸脱行動(忘れ物、遅刻、衝動的な行動)が多かったからです。その度にきつく叱られ、家に電話がかかってくる。そのようなことを何とか切り抜けるための<戦略>として、両親はその様な「障害」のラベリングをもらいに児童相談所に行ったのです。そして別に僕もそれについては(今もって)別に反対はしていませんでした。実際、そのラベルをもらいに行くという<戦略>行為により、先生の叱責は止みましたから。

そしてその後僕は病院へ通院し、そこで親は医師と話し、僕のほうは何か計算とか漢字とかそういうことをやる、そんなことが始まったのですが、1、2年ぐらいしたある時、それが終わる出来事が急にやってきました。(ここから先は、僕の主観に多分に傾倒した書き方になります。)

ある日、それまで薬などを出さなかった医師が、急に薬をだしたんですね。といっても、それは別にリタリンとかそういう類の薬ではなくて、親が、僕が寝小便がひどかったことに対して出した、寝小便を止める薬なのですが。とにかく「薬を出した」ということに対して僕は激昂しまして、結局病院に行くことはそれが最後になりました。

何故僕は「薬を出した」ことに激昂したのか。それは、端的に言うならば、僕が「薬を出される類の障害者」とされることを嫌がったからです。そして、その気持ちは今でも変わりません。僕は、自分が「ある程度他の人と違う」ということを認めていますし、それが医療的な観点から見られたら、もしかしたら「障害」と分類されるかもしれない(*8)、ということも認めます。ですが、「薬を出される類の障害者」というラベリングは、断固拒否したいのです。

ですが、果たしてこれは障害者を差別しているのでしょうか?他の人はどう思うかもしれませんが、僕はそう思っていません。何故なら、僕が「薬を出される類の障害者」というラベリングを拒否するのは、僕が生きるための<戦略>だからです。そしてこれが僕の<戦略>である以上、それを他者に強制しませんし、他者がそれとは違う<戦略>を取っていたとしても、別にそれは他者の自由で何も僕が関与していいことではありません(逆に言えば、そのような枠組みを見失い、自己の<戦略>がすべての人の唯一の解だと考え、それを他者に押し付けたり、自分のと違う<戦略>を貶めるときこそ、それは「差別」となると、僕は考えます。)。

ここで言う<戦略>とは何か?それは「自分の生を世界とつなげるために取る根本的方策」です。例えば、僕が小学校6年生の時にLDというラベリングを取得したのは、そのLDというラベリングにより、自分を世界、その時は学校社会に結びつける事が出来たからです。もしLDというラベリングを貰わなかったら、僕は「ランク外の劣等者」として学校社会の下に追いやられ、世界との結びつきを失うのではないか、その様な<戦略>的判断から、僕はLDのラベリングを自己に付与したのです。

しかしそれは唯一の正解ではありません。<戦略>はその行為を選択する人が主体的に判断すべきものですから、例え先ほどの僕と同じ状況に会った人でも、僕とは違う<戦略>、つまりLDのラベリングを拒否し、別の<戦略>、例えば「僕が孤立するのは僕の“個性”が強烈過ぎるせいだ」とか「学校社会が異常なのであり、僕はむしろ正常だ」(*9)という<戦略>をとるという選択肢は残されているのです。ただ、僕は僕の判断基準でそれらではなく「LD」という<戦略>を行使しようと決めたのですが、もちろん個々により判断基準は様々な筈ですから、他人が別の<戦略>を取ったとしても、何の不思議もないのです。

唯一の正解はない

よく発達障害に関する本を見ると、「もし自分が発達障害だと思うのならば、是非病院へ行き、診断をもらいましょう。」というようなことを書いてある本を見かけます。もちろん、そのような<戦略>の選択肢を知らせることは重要ですし、それによって助かる人もいると思うのですが、それのみが唯一の正解だとする言い方には、僕は違和感を覚えます。「発達障害」のラベリングは、確かに適切な治療をもらえるという利点もありますが、逆に医療的思考(=自分が社会に合わないのは自分のせいだとして、自分を変えなければならないとする思考)に自分が飲み込まれるかもしれないというデメリットもありますし、また、診断権が医療にある以上、「発達障害ではない」という診断を貰い、医療という権力に「性格のせいだ」というレッテルを貼られる可能性も当然考慮しなければなりません(もちろん、そこですぐ別の<戦略>を選択できればいいのでしょうが、医療行為という<戦略>は特に他の<戦略>とは排他的であるため、一旦その<戦略>を選ぶと、なかなか他の<戦略>を選ぶのは難しくなる。そんな気がします)。

更に、そのような唯一の正解的思考を更に突き進めれば、上記サイトのように、「唯一の正解を選ばないという事は、その正解に対して何らかの悪印象を持っているんだ。つまり、そいつは差別者だ!」というように、医療という<戦略>を指向しない人全体を差別者だと認識します。ですが、何度も言うように、自分をどう世界に位置づけるかという考えは、世界そのものの認識とは必ずしも一致しない、いや、むしろその二つの違いについて敏感であるべきなのです。何故なら、それを間違えると「自分にとっていいこと=世界にとっていいこと」という独善主義に陥りかねないからです。

批判的思考について

id:keya1984氏はid:kmizusawa氏がこの政策に対し批判的な文章を書いた事に対し、次のような事を言います。

「発達障害者の困難は就業面だけじゃないだろ」とか「中高年の発達障害者はどうした」とか「具体的に何をするんだ」とか、文句をつけたいだけの揚げ足取りにしか見えません。まず何か少しでも始めようというときに、あれが足りぬこれが足りぬそれがわからぬなどと文句だけつけるなら誰にでもできます。

(略)

 それと、世の中で困難を抱えている人は山ほどいます。障害者の就業問題だけ取ってみても、視聴覚障害に身体障害に知的障害に性同一性障害に肝機能や腎機能の障害にと、様々でしょう。行政で対応する人員や労力や経費などコストのパイが有限である以上、発達障害だけに厚くするわけにもいかないのだから、「今できそうなことで今やるべきこと」を、どこにどれだけ割くかという問題は常にあります。

 大増税して高負担高福祉の大きな政府にせよという社会的合意ができるなら話は別ですが。そういう大きな議論は別として、今ある中で今やってみようということがある。その中で「障害者どうしのパイの奪い合い」にならないよう、どのように意思形成をするかも重要な問題なのですね。外野席から興味本位に、あれが足りないこれが足りないなどと、せっかく始まった対策の第一歩に欲張りなケチだけつけるような意見は、はなはだ無責任ではないでしょうか。

要するに「これは基本的に良い政策なのだから、ケチをつけるのは止めて、まず賛同しろ」ということでしょう。ですがこれには二つの問題があります。

一つは「政策単体で良い政策だからといって、それを無条件に賛美していいのか」という問題。そして第二に、「政策に対する責任とは一体何か」という問題です。

1.個別と全体の問題

確かにこの政策は、単体で見れば、割と良い政策に思えます。先ほども述べたように、「障害について診断を受ける」ということをハローワーク利用者に強制する問題はありますが、その問題さえクリアすれば、障害の診断を受けられる機会を増やし、更に就労支援との連携を行えるようにすることは、結構な事です。

しかし、政策単体で見て結構な事ならば、それに即ゴーサインを出して良いというのは、やはり余りに無邪気に国家を信用しすぎな考え方ではないでしょうか。事実、この政策を例にとっても、この大変結構な政策の裏には、あまり結構ではない大きな流れが垣間見えます。

それは簡単に言えば

  1. 失業対策として、国が経済構造の改造から個人の改造に重点を移していく
  2. 医療の執行権力化の推進

という流れです。

第一の流れは、ジョブカフェや若者自立塾にも言えることですが、国は、企業の側に「より多くの人を高い賃金で雇え」というメッセージ&政策を行うという方向から、労働者の側に「もっと企業に好かれる人材になれ」というメッセージ&政策を行う方向へ、明らかにシフトして行っています(ホワイトカラー・エグゼブション、派遣法改正etc...)。そしてこの流れに、個人の志向にフリーター増加の責を負わせる、一部の心理学や社会学であったり、臨床心理士などに代表される傍流精神医学が乗っかっているわけです。

そして第二の流れは、精神障害者を強制的に「治療」出来る制度を作ろうとする流れと符合しています。つまり、権力が人をどのように扱うべきか、その指針を、(狭義の)行政から医療機関に移管しようとする流れです。これの何が問題かといえば、行政の方は、一応曲がりなりにも、それを規制する法はあります。しかし医療関係に関して言えば、最近はそれでも医療裁判など法が介在する事が多くなりましたが、それにしても市民の権利を守るための法は(行政に比べれば)整備されていません。

国が行う政策を考える際には、政策単体だけを考えるのではなく、このような背後の動きも考えねばならないでしょう。何故なら、政策が通るということは、政治の世界においては、必ずしもその政策が通ったということのみを表さないからです。id:kmizusawa氏の記事は、その点で「ハローワークのみに限定していること」から上記の1の流れを読み取る、そういう記事だったと思います。

2.政策に対する責任問題

次に、市民が政策に対して責任を持つとはどういうことかについて。

ここで重要なのは、政治の世界において、「賛成」はどういう意味を持ち、「意見の提出」がどういう意味を持つかということです。

政治の世界において「賛成」が持つ意味。それは端的に言えば、それを賛成された相手に対し力を持たせるということです。そしてこの場合、力を持つのは厚生労働省官僚です。

なるほど確かにこのような、政策単体で見る限り良い政策を提出する官僚は、少なくともより大企業優遇の政策を取ろうとする経産省などに比べれば、良い官僚に見えます。しかし、例え良い官僚であったとしても、それが官僚である以上、結局は体制維持の方向へと動きます。もちろんそれが必ずしも悪いとはいえませんが、しかし少なくともその様な方向へと向かう力がこれ以上増える事は、少なくとも体制によって苦しむ人に目を向けるならば、避けるのが自然であると思います。その体制によって苦しんでいる当事者ならば、それは更に言えます。

それに対して「意見の提出」は何を意味するか。確かに余りにその政策の趣旨と反する意見ならば、その意見の提出は、政策に対する抵抗を意味します。

ですが今回のid:kmizusawa氏のような意見は、確かに微妙なところかもしれませんが、僕としてはそんなに政策の(表の)趣旨に反する意見であるようには思えませんでした。

このような修正意見の提出は、必ずしも政策への反発力とはならないでしょう。むしろ今回の政策への反発として注意すべきなのは、この政策の趣旨を真っ向から否定するような意見、つまり「発達障害なんていうものは個人の甘えにすぎない」とかの意見です。

市民が政治に参加するとは

ある政策に対して、その政策にどのような問題点があるかを指摘できるというのは、よほどの背景知識がなければ出来る事ではありません。軽度発達障害に関する知識、失業者・フリーターの実情など、その様な知識を有している人って、単純に僕の周りを見渡してみても、そうは居ません。

逆に、国のやることに何でも賛同を表し、それを批判する人を「ヒコクミン!」という人は、まぁ幸い僕の周りには居ませんが、2ちゃんねるなんかには山ほど居ます。どちらがより楽なのかは明白です。

id:keya1984氏はid:kmizusawa氏が法案に対して意見をつけることに対して、まず何か少しでも始めようというときに、あれが足りぬこれが足りぬそれがわからぬなどと文句だけつけるなら誰にでもできますという風に言います。しかし僕が考えるに、事実はむしろ逆ではないでしょうか。つまり。

と。

そして、このように考える事こそ、僕は「市民」としての責任と考えるのですが、皆さんは、どうでしょうか?

*1: というか、そうだったから僕はこの記事を書いている

*2: 本当は゛「色々」の所こそ重要なんだろうけど、今回の話とは関係ないので割愛する

*3: ノスタルジー云々という話題もあるが、それはまた別の機会に話す。今は特に興味もないので割愛

*4: 『オトナ帝国』の例で言うならば、確かにひろしはしんのすけの努力により、再び親の責務を背負うことにした。しかし一度失われた信頼は決して戻らない。ひろしが子供達を裏切ったという事実は消えないのだから。つまり、ひろしの子供達への愛情は子供達が自分の為に奔走してくれる限りにおいて、保たれるということを子供達は知ってしまったのだ(事実、ひろしは親の責務を取り戻した後においても、未だに「懐かしいニオイがする」などと、ノスタルジーへの未練を彷彿とさせるような発言をしている)。その様な条件付きの愛が、子供達にどんな悪影響を与えるかは、論を待たない。

*5: しかし僕はそういうことについては批評する術を持たない

*6: 余談だが、『よつばと』は僕の大好きな漫画だ(本当に余談だな)

*7: なにぶん子供のころの事なので、詳細は不明ですが……

*8: ただ、僕のは子供の頃の診断だから、今はもう普通の人間だとされるのかもしれない(というかそっちの可能性の方が高い)

*9: 学校社会より巨大な世界に自分を結びつける

この日へのコメント

keya1984 2007/05/06 22:38
丁寧なご批判、ありがとうございます。私としても、おこたえすべきことが多くありますので、それは追って自分のところに書いてTBいたします。

ただ、明らかに流れを読んでいただけてないという点について、述べさせてもらいます。私のkmizusawaさんへの批判の2箇所目は、彼女の従前の主張との一貫性をただしたものです。そこをsis7さんが省略して引用されていますが、ここを省略されては困ります。柳澤大臣のあの発言をあのように誹謗した人が、ここではそのように言うのは何故なんだ…病気や障害があるようにみなされては問題だということで一貫しているようにしか見えないが、それならそうと言えばいいではないか、なぜ、さも当事者に寄り添うかのような格好をつけるんだ…という箇所ですよ。

で、誰だって病気や障害は嫌じゃないですか。「薬をもらうような障害として扱われることは断固拒否する」というのもそうでしょう。私は、それが悪いだなんて言ってません。過去の記事でも、そうしたことは書いています。ましてや、そうした拒絶感の表明が差別になるだなんて、思いもしませんでした。

ですので、今の私の戸惑いは、なぜ私が「そんな表明をするのは差別だ!」と言っているかのように受け止められたのかということです。…逆ではないでしょうか。そういう表明をするのが「これは差別的だ、でも…」と思われているのではありませんか?

私は、そんなことは当たり前で差別的だとは思っていないから、いわば「隠すなよ」とkmizusawaさんに言ったのですよ。でも、そこに彼女は答えないし、sjs7さんは先取り式に「差別と言われたらそうかもしれないが、言って悪いのか。それを差別として黙らせるのは納得いかない」とまで言われる。

私が、いつ、どこで、そんなことを言ったのでしょうか。この点では非常に不本意に感じますので、ここで指摘させていただきました。
sjs7 2007/05/08 03:04
僕はid:keya1984氏とid:kmizusawa氏に以前どんなやりとりがあったかは知りません。別に記事にそのやりとりへのリンクも張っていませんでしたし。

だからそのやりとりが前にあったから自分の発言は正しいのだと主張するなら、そのやりとりがあった場所する知らない僕としては反駁できません。

ただ一言二言愚痴を言うと
>病気や障害があるようにみなされては問題だということで一貫しているようにしか見えないが、それならそうと言えばいいではないか、なぜ、さも当事者に寄り添うかのような格好をつけるんだ
だからその「病気や障害があるようにみなされては問題だ」の主体は誰なの?「自分がそのようにみなされては問題」なのか「それを嫌がる人がそのようにみなされるのが問題」なのか「地球上の全ての人においてそのようにみなされるのは問題」なのか。
前の2つの場合は、別にそう考えていても「当事者に寄り添う」ことは可能です。理由は記事で述べました。

>で、誰だって病気や障害は嫌じゃないですか。
そうは思いません。例えば僕はLDというラベリングをもらったとき、一方で「やったこれでエジソンや坂本龍馬と一緒だ!」と思ったりしましたし、今も若干そうもっています。
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/19981129/f1397.html
そして、「一方でエジソンや坂本龍馬は別に薬なんか使わなかった」ということが、僕が薬を嫌がる理由だったりもします。

だから、「全ての人が障害を嫌がるべきだ」ということを考える、そのことは僕は差別的だと思います。そして僕はid:keya1984氏がid:kmizusawa氏の意見をそのように曲解したと考えるから、id:keya1984氏を批判したのです。
sjs7 2007/05/08 03:13
あ、困った誤解を招きそうなので追記
>「エジソンや坂本龍馬は別に薬なんか使わなかった」
ということを僕は書きましたが、これをどう判断するかというのも当然人それぞれであり、「そんなエジソンや坂本龍馬になれるのはごく一部だ」と考えるなら、この事実を一切無視しても良いし、逆にこの事実を持って自分が薬を使う理由にしても良い訳です。それは本当に人それぞれさまざまな考えがあって良いんであって、僕はどんな考えを持っていたとしても、その人を共に地球上に生きる他者として尊重します。

「自分にとって良かったことは、他人にとっても良いはずだ」という考えこそが、一番悪い考え方ですから。