「労働は大人の義務なんだよ」
「義務であろうと働きたくないでござる」
「働きたくないでござる!!!絶対に働きたくないでござる!!!」
禿同(w)
フリーター・ニート問題にたいする、「良識ある学者」やその支持者(*1)が書いたネット上や本での意見(*2)を見ると、そこでは若者は「働きたくても働けない」から、フリーターやニートになると、統計を元にした実証的な研究を元にして書かれている。そしてそれを元に、彼らは「ニートは怠け者だ」という言説に対して反論する。
まぁ、きっとそれは正しいのだろう。回りとかを見ても、殆どの「若者」たちは「働きたい」と思ってるし、「働かざるもの食うべからず」という倫理には納得している。
でも、一方で、実はそうでない若者も、ほんと極小数だけど、居ると考える。
何故なら、僕がそうだから。
僕は、例え目の前に、今後定年まで確実に働け、しかも一日八時間程度の労働で残業がなく、しかも自分だけでなく家族がきちんと養える、そんな賃金を貰える職があったとしても(*3)、その職に就こうとはしないでしょう。
そもそも僕は「働かざるもの食うべからず」という倫理にも納得していません。例え自発的に働くのを怠けていたとしても、その人にはきちんと生きる権利が与えられるべきだし、そしてその倫理は、僕に対しても適用されてしかるべきだと、考えています。(*4)
だから、「今の若者は怠け者だ!」という主張は、少なくとも自分という「若者」に対しては、当たっていると考えます。故に、僕は彼ら俗流若者論者の言うことを「間違っている」と批判することは出来ません。「そうですが、何か」と言う様に、規範レベル(「~べし」という主張)への批判はできますが、事実認知レベル(「~である」という主張)への批判は、出来ないのです。
もちろん、何度も念を押すように、統計的に見れば、俗流若者論者の主張は間違っています。若者の平均は怠け者ではなく、むしろ働き者です。
でも、幾ら平均がそうだと言っても、それで別に僕が「じゃあ、僕も働き者になろう」とは思いません。例え若者の平均が働き者でも、やっぱり僕は怠け者ですし、そして僕は一応世代的に「若者」なのです。
だから僕は、俗流若者論者には、「おまえらの倫理を押しつけるな!」と反抗し、そしてその規範レベルでの争点において、僕と彼らは敵同士であると、認知するわけですが・・・
しかし、そういう俗流若者論者達を批判する「良識ある学者」や、その支持者に対しては、僕は悩まざるをえないんですね。何故なら彼らは、そういう本当に怠け者な若者に対して、どう思ってるのかが分からないからです。
もちろん彼らの言い分は分かります。怠け者の若者なんか相手にした発言をしたら、若者の平均が怠け者であると勘違いされてしまう。だったらそんな奴らは相手にしない方が良いと・・・おそらく、そんな理由なのでしょう。
しかし、そうやって無視されればされる程、何か行き場のない情念が沸き上がってくるのも、また事実な訳です。
だって僕のような怠け者の若者は、少なくとも世界に一人は、存在しているんですから。それがあたかも「なかった」かのように扱われる(*5)。若者は全て働き者であり、怠け者の若者なんかいないよ・・・そう良識ある学者が発言するごとに、僕のような怠け者の存在は、この世界から削り取られていっている、そんな風に僕は感じています。
もちろん「怠け者の若者という存在を世界から削り取ること」と「統計的な若者の真実を啓蒙すること」を天秤に掛け、後者のようなことに比べれば前者のような問題は取るに足らないと考えるなら、怠け者の存在を無視し、否認することは、論理的な決断といえます。
でも、少なくとも僕は、「怠け者」という存在を否認してもらいたくはない。だから、怠け者の存在を否認する「良識ある学者」たちに比べたら、むしろ少なくとも存在は認める、俗流若者論者の方に、僕はシンパシーを感じるのです。少なくとも僕にとっては、「若者は全て働き者だ」と主張する「良識ある学者」より、俗流若者論者の方が、ずっと誠実だと思うし、いい人だと思う。
別に批判でも良いんです。「若者全体は大変な時にあるのに、そういう一部の若者のせいで若者全体が批判される。彼らはけしからん!」と、そんな主張でも良いんです。
ただ、無視するのはもう止めてほしい。
まぁ、最終的にはその人の自由なんですが・・・
この日へのコメント
徹底的に無視すればよい。
こんどはやつらの存在意義が疑われる時だ
レゾンテートルなんてねえくせに、よく煽ってくれる