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2007-06-23

[考える][ゼロ年代]『ゼロ年代の想像力』について(その1)ー『日本の思想』との比較

前エントリ:id:sjs7:20070622:1182503256

まず、「ゼロ年代の想像力」はどのようなことを主張しているか、僕なりに要約してみようと思う。

要約

引きこもり的想像力=古い想像力

宇野氏によれば、九十年代の作品というのは、「引きこもり」の想像力、要するに「世の中がおかしいが故に、正しいことが何なのか分からないから、社会から撤退して、自分の内面と向き合う」という、そんな想像力に基づいてサブカルチャー作品が生み出された時代だったという。そしてその様な想像力の例として「新世紀エヴァンゲリオン」や、桜井亜美・田口ランディなどの小説(*1)、浜崎あゆみのアダルトチルドレン的歌詞、「ポスト・エヴァ=セカイ系」アニメ(http://www.geocities.jp/wakusei2nd/lily.html:title]』みたいなのかな">*1)、浜崎あゆみのアダルトチルドレン的歌詞、「ポスト・エヴァ=セカイ系」アニメ(*2)を挙げている。

決断主義的想像力=新しい想像力

しかし年代が変わり、ゼロ年代に突入すると、そういう想像力では計れない、新しい作品が出てきた。例として『バトル・ロワイヤル』、『女王の教室』、『http://www.geocities.jp/wakusei2nd/nobuta.html』、『DEATH NOTE』、『コードギアス 反逆のルルーシュ』などが挙げられ、そして、これらの作品は、総じて「決断主義」的傾向を持つ。「決断主義」とは、つまり「確かに社会は壊れて、正しいことは分からないけど、でもだからといって引きこもっていたら殺されてしまうので、立ちあがり、自分が社会の正しいルールを作っていかなくてはならない」という風に考える、そんな想像力の事である。

そして宇野氏は、前者の引きこもり的「想像力」は、もはやゼロ年代においては後者の決断主義的「想像力」に「克服」され、もはや使えない想像力になっているにも関らず、批評家やオタクたちはその様な想像力にしがみついているが故に、批評が時代に追い付けなくなっているとし批判し、現代を見つめるためには、その様な古い想像力は葬らねばならないと、主張する。

「『古い想像力』は『新しい想像力』に駆逐される」というのは、あくまで事実命題

ここで注意すべきなのは、乙木氏がid:otokinoki:20070616:1181977308で

しかしあの連載では一言も「決断主義が良い」なんて書いていない

と述べているように別に宇野氏は「古い想像力」が悪であり、「新しい想像力」が善であるというように、倫理に則って二つを評価しているのではないということだ。宇野氏は、[asin:4877281282:title=脱正義論]を例に挙げながら、「古い想像力」も、「~しない」ということの正しさを見出したという意味で評価しているし、「新しい想像力」についても、自分達が勝てば自分達のルールが正しいルールになるなんていうのは幼児的居直りだという風に、その難点を述べている。ただ、「新しい想像力」は「古い想像力」の反省の上に成立っており、「古い想像力では生き残れないが、新しい想像力では生き残れる」という機能的な優劣から、「古い想像力」は「新しい想像力」に駆逐されると、予測してるだけなのだ。つまり、彼は想像力そのものについては「古い想像力は新しい想像力に駆逐されるべきだ」と規範命題を言っているのではなく、「古い想像力は新しい想像力に駆逐される」という風に、事実命題を述べている。

「事実命題に沿う行動をすべし」という規範命題(*3)

もちろん、宇野氏は、批評家や未だにセカイ系に拘るオタクたちに対しては、

この十年、批評家たちはあまりにも怠惰であった。

という風に、批判し、「批評家は現実に向き合うべきだ」という規範命題を提示している。これは、確かにhttp://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/zero_memo.htmlに書かれている様に

自身は「決断主義」を全肯定する者ではない、としながらも、著者の政治的身振りは「決断主義的」ではないか?

と言えるでしょう。現実の状況を(安易に)受け入れ、それに基づいて行動を起こさなくてはならないというのは、まさに決断主義の規範ですから。。しかし、少なくとも宇野氏は、別に「新しい想像力」そのものが本質的に善であるといっている訳ではないということは抑えておくべき。

10年代の想像力(の予想)

更に言うなら、宇野氏はこの連載の目的を

まずは、九十年代の亡霊を払い、ゾンビたちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の「いま」と正しく向き合うこと。そして来るべき10年代の想像力のあり方を考えることである。

と述べているように、ゼロ年代はあくまで向き合う対象なのであって、「答え」ではないのです。むしろ答えはそのゼロ年代(の幼稚さ)を乗り越えた所にあるのですから、むしろ宇野氏は「新しい想像力」を敵とまではいかなくても、目指すべき理想とは完全には合致しないものとして捉えているといって良い。それは、成馬氏との対談

市民:だから僕が興味あるのは、悪い意味での決断主義、悪い意味での「夜神月化」に対して、どう対抗していくかって問題だね。プチウヨとカルスタばかりの世の中で(笑)、どう対象への距離を確保していくかって課題が大きいと思う。

 何度も言うけど、「何が正しいか」は自分で考えればいいんだよ。でも物事へのアプローチ方法や進入角度には普遍的なメソッドがあるはずだから、それは考えていくつもり。まあ、こう言うとまた、左右を問わず頭の悪い決断主義者たちから「現状肯定論者だ」とか言われそうだけど、そういう「この世界のどこかにある不正義に全力で立ち向かえ、距離の取り方を云々する奴は現状肯定論者だ」という二項対立的な思考停止こそが、圧倒的にファシズムに近い。安倍政権への批判を強要するファシズム批判者は安倍と同じ穴のムジナのファシストだよね(笑)。右に巻かれるのはNGだけど左に巻かれるのはOKと言っているだけで、彼らを支持しても絶対に世の中はよくならない。

からも分かる。

では、彼が目指す10年代の想像力とは何か。それは、まだ第一回では明確には明らかにされていない。が、それについては宇野氏と付き合いがある乙木氏が、id:otokinoki:20070531:1180589181において、『ゼロ年代の想像力』がよしながふみを挙げていた(*4)ことに着目して、その作家の作品として『フラワー・オブ・ライフ』を挙げ、この作品は

まだ消化しきれていない私が本作のテーマを一言で述べることは難しいが、それでもあえて一言で言うのであれば、

《セカイ系や特別な自分》を包含し癒し包み込む、『日常の豊かさ』を見つめ直そう

というのが大きなテーマだ。

という作品であるが故に新しいと述べていることに大きなヒントがある。

何故なら、宇野氏もまた、http://www.geocities.jp/wakusei2nd/nobuta.htmlにおいて

■夏休みの終わりに

 

 「終わりなき日常」って言葉がある。「平坦な戦場」って言葉がある。20世紀も終りの四半世紀に生まれた僕等は、ジャスコ化する郊外にまでモノが溢れる一方で、決して歴史が生を意味づけてくれない世界に生きてきた。モノが溢れるその一方で、物語のない「平坦な戦場」は延々と続く。あるのはただひとつ残された自意識のゲームだけで、それはこの世界に生きる限り毎日繰り返される。そう、「終わりなき日常」は辛いのだ。

 だが、本当にそうだろうか。

 

 本当に日常は「終わらない」のだろうか。

 この世界にあるものは、自意識のゲームだけが渦巻く「平坦な戦場」だけなのだろうか。

 

 そんなわけはない。例えば人は、大人になる、老いる、そして死ぬ。「終わり」はかならずやって来る。そう、本来、「終わりなき日常」も「平坦な戦場」も存在しないのだ。

 この世界には「入れ替え可能」なものの方が実は少ない。「終わり」がある限り、「いま・ここ」は基本的に「入れ替え不可能」な唯一無二の時間なのだ。

 だから「モノは溢れても物語がない」と嘆く態度は、ただの甘ったれた言い訳なのかもしれない。少なくとも、「終わりなき日常」幻想を打破する程度の可能性は、この世界に溢れている。

という風に、日常を肯定することを主張しているからだ。大半が作品への批判か皮肉的な称賛である惑星開発委員会の座談会において、ここまでストレートに(*5)宇野氏が作品のメッセージに賛意を表明するというのは、やはり宇野氏がこの方向性に活路を見出していることに他ならないだろう。

故に、僕は宇野氏が今後提示するであろう「10年代の想像力」は、「日常の豊かさ」か、おそらくそれに類似する何かであると予想する。つまり、「自分が行う決断が妥当であるか否か」の基盤を、日常に置くということである。そして、日常において実現可能な力によるということで、id:inumash:20070605:p1で指摘されたような、ゼロ年代の「異形の力の獲得」というトラップを避ける。

もちろん、本来だったら宇野氏が連載を全部書き終えてから、明かされた「10年代の想像力」について言及すべきだろう。しかし、既にウェブ上でここまで自分の考えを出している以上、これと全く違うことを述べるとも考えにくいし、何よりそんなことをしていたらまさに「時代に取り残されて」しまう。

まとめ

まとめよう。宇野氏はまず事実として「新しい想像力」=決断主義的想像力に「古い想像力」=引きこもり的想像力が駆逐されていると論ずる。そして、その「現在」の変化についていこうとしない批評家を批判している。

だが、一方で宇野氏は「新しい想像力」を、それが「古い想像力」より、進んでいるという点で評価するものの、決してそれで良いと考えている訳ではない。むしろ、「新しい想像力」の中の悪い部分に向け、それを改善する更に新しい想像力を求めている(もちろんそれは「古い想像力」の焼き直しでは絶対駄目だが)。そして、その更に新しい想像力=「10年代の想像力」に、宇野氏は「日常」か、それに類するものを入れようとしている。

以上が「ゼロ年代の想像力」の要約である。

それって本当に「新しい」の?

さて、「ゼロ年代の想像力」を、宇野氏の主催する惑星開発委員会などのテキストも用いながら、その意味を読み込んでいった訳だが、しかしこうやって文章を読んでみると、如何に宇野氏が「新しい想像力」の新しさに拘っているかが良く分かる。

もちろん、本当に新しいものが登場し、そしてそれが新しさにより世界を変えているのなら、それは大騒ぎすべきことだし、それを見ようとせず昔の思い出に浸っているような批評家は、もはや批評家と名乗ることは許されないだろう。

しかし、本当に宇野氏の言う「新しい想像力」は、そこまで"新しい"ものなのか?そのような問いは、http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.htmlでも出されたが、僕は一挙に50年くらい遡って検証してみたいと思う。

『asin:400412039X:title』という本がある。これは、かつては日本のインテリに絶大な影響力を誇った、丸山眞男という、思想史研究家が書いた本である。この本の最初にはこのような事が書かれている。

思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないという「伝統」を、もっとも端的に、むしろ戯画的にあらわしているのは、日本の論争史であろう。ある時代にはなばなしく行われた論争が、共有財産となって、次の時代に受け継がれてゆくということはきわめて稀である。自由論にしても、文学の芸術性と政治性にしても、知識人論にしても、歴史の本質論にしても、同じような問題の立て方がある時間的間隔をおいて、くりかえし論壇のテーマになっているのである。思想史論争にはむろん本来絶対的な結末はないけれども、日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。・・・

また、丸山眞男はこうも書く。

小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接的には歴史的発展という考え方にたいする、あるいはヨリ正確には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくとも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十分な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

もちろん、これがそのまま宇野氏の言説に当てはまるかどうかはまだ分からない。宇野氏は過去=古い想像力との対決をしているかといえば、しているとも言えるししていないとも言えるからだ。だが、この本を更に読み進めていくと、やはり宇野氏の言う「新しい想像力」というのは、そんなに新しい想像力ではないことが、分かってくる。

「人権」とか「民主主義」とかはもう信じられない!

『ゼロ年代の想像力』では、90年代に入り、平成不況やら阪神淡路大震災やらオウムやらで、「社会」とかそういうものへの信頼がなくなった、それ故に人々は「社会は怪しい、それより自分の内面を見つめよう。」とい風になり、引きこもったと。

まぁ、これ自体は良くある主張ですね。昔は「人権」とか「平和」とか、そういう正義が明確だっだけれど、90年代に入ってソ連の崩壊やら55年体制の崩壊やらで、一体何が正しくて何が間違っているかというコードが不明確になったと、まぁそういう主張。

でも、そんな「正義」が確固としたものとしてある時代なんて、本当にあったのか?

近代ヨーロッパにおいて、思想をその内在的価値や論理的整合性という観点からよりも、むしろ「外から」、つまり思想の果す政治的社会的役割ー現実の隠蔽とか美化とかいったーの指摘によって、あるいはその背後にかくされた動機や意図の暴露を通じて批判する様式は、いうまでもなくマルクスの観念形態論においてはじめて学問的形態で大規模に展開された・・・イデオロギー批判がヨーロッパでひろく一般化し常識化したのは、第一次大戦後の世代が「諸観念の真理性の一般的不信だけでなく、そうした観念の主張者の動機に対する一般的不信を目撃」して以降の事である。

ところが日本では、すでにキリスト教を先頭とするヨーロッパ思想を幕末攘夷論者が批判する様式に於て思想のイデオロギー的機能がおそろしく敏感に、むしろ思想内在的な批判にさきだって出現している・・・

ただ、この場合いちじるしく目立つのは、宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからこごろとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即(つ)こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。・・・

ともあれ、こうした国学の儒教批判は、

  1. イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑、
  2. 推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直感的解釈を絶対化する結果となる)、
  3. 手応えの確かな感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
  4. 論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式
  5. 歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反撥する思考、

等等の様式によって、その後もきわめて強靭な思想批判の「伝統」をなしている。

正直ゴー宣のために書かれたとしか思えないが、書かれたのはもちろん今からおよそ50年前の1961年である。「正義」が絶対不可侵だった時代なんて、少なくとも近代日本にはなかったのである。

社会なんてあいまいだ!

そして、その様な「自己」のみを見つめるセカイ系的想像力(『日本の思想』ではこれを実感信仰と名付けている)は、「社会」に対する信用をなくす。

・・・こうして一方の極には否定すぺからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由な」直観で掴むときだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかも所栓はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は2×2=4か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する!(小林秀雄『Xへの手紙』)

これを、『ゼロ年代の想像力』の文と読み比べてみよう。

「セカイ系」とは何か。東の著作『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)によれば、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力」である。・・・

上記の東の認識を少し噛み砕いて説明しよう。・・・地下鉄サリン事件のような「まるでマンガみたいな」事件が起こり、確固たる現実感覚が失われる。「世の中がおかしい」という感覚は若者の社会的自己実現への信頼を減退させ、「自己(の内面)」にばかり関心が向かうようになり、心理主義が横行する。そんな「気分」の反映こそが、信頼できなくなった「社会」「歴史」といった中間項を抜きに「自己の内面」と「世界」が直結する「セカイ系」だと言うのだ。

ちなみに、この文の後、宇野氏はこう書いている。

なるほど、確かにそれ(セカイ系)は「新しい想像力」だったに違いない、ただし十年前までは。

・・・

優勝劣敗適者生存、決断主義

そして、そのようなセカイ系の説明をした後に、宇野氏は「しかしそれでは生き残れない」のであり、それ故セカイ系は時代遅れの考えであるという。

進化論が帝国主義の現実を優勝劣敗適者生存というまことに殺風景な論理で合理化し・・・かつて中江兆民は「吾人が斯く言へば、世の通人的政治家は必ず得々として言はん、其れは十五年以前の陳腐なる民権論なりと、欧米諸国には盛に帝国主義の行はれつつある今日、猶ほ民権論を担ぎ出すとは、世界の風潮に通ぜざる、流行遅れの理論なりと。・・・」とのべたが・・・

ただ、実はセカイ系=実感信仰が、何故そのようなサバイブ感=帝国主義の擁護につながるかは、その二つが繋がっているという点では、同じなのだが、その道順が、『ゼロ年代の想像力』と『日本の思想』では微妙に違う。(*6)

『ゼロ年代の想像力』の場合は、これはもう簡潔に『ひきこもっていたら、殺されてしまう』ということを挙げている。しかしそれに対し『日本の思想』では、まず決断主義を次のように定義し(この時点では『ゼロ年代の想像力』との差違はない。これはまぁ、当然だろう)、

どのような歴史法則も、どんなに精密な現状分析も、行動に向かって決断する立場に立った人間にたいして、完全に計測可能な形で次に来るものをさし示すことはできない。理論はいかに「具体的」な理論でも一般的=概括的性格をもつからして、理論と個別的状況との間にはつねにギャップがあり、このギャップをとびこえる最後のところにはまさに「絶体絶命」の決断しか残されていない

・・・

こうした政治における「直観」と「賭け」の要素を絶対化し、自己目的化したのがファシズムのイデオロギーである。「例外状態における決断」(カール・シュミット)をば規範と論理に優越させるのがまさにその「論理」であり、ここにファシズムが原理的に政治至上主義になる所以がある。

(もちろん、ここでベタに「決断主義」ってファシズムなのか!ううむ、許せん、トリガーが軽いなどと言って吹き上がるのも可能だが、はっきりいってhttp://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/zero_memo.htmlにも書かれているように

「決断主義」という言葉は、そもそもネガティブな意味あいを内包している

「宇野常寛は決断主義を正当化している。これは許せん!」というような批判(あるいはそれの裏返しとしての「自分は決断主義的世界観の中で以前から生きてきているよ」という申し開き)を見かけることもあるが、そのような批判や申し開きこそが罠に嵌った想定済みの応答である。というのも、そもそも「決断主義」という言葉自体がネガティブな意味合いで使われてきた文脈を持つものであり、著者には「決断主義なんて言葉を本気で肯定的に使うわけがないじゃないですか?」というアイロニカルな言い逃れが用意されているからである。

というわけで、正直あんまり効果はないだろう。第一、一番最初に述べたが、宇野氏は少なくとも建前上は、別に決断主義が善であると言ってはいない。)

決断主義への道筋のも、微妙な、差違

そして、実感信仰者が「社会」とか「歴史」とかに対する信用をなくしたという側面から、以下のような決断主義への道筋を描いている。

普遍者のない国で、普遍の「意匠」を次々とはがしおわったとき、彼の前に姿をあらわしたのは「解釈」や「異見」でびくともしない事実の絶対性であった(そはただ物に行く道こそありけれー宣長)。小林の強烈な個性はこの事物(物)のまえにただ黙して頭を垂れるよりほかなかった・・・・・・・。

「一切が疑はしい。さふいふ時になつても、何故疑へば疑へる様な概念の端くれや、イデオロギーのぼろ屑を信ずる様な信じない様な顔をしているのであらうか。疑はしいものは一切疑つて見よ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだらう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心といふものが見えるだらう。その二つだけが残るであらう。そこから立直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。」(「神風といふ言葉について」昭和十四年)・・・「戦争の渦中にあつてはたつた一つの態度しか取ることが出来ない。戦では勝たねば成らぬ。」(「戦争について」『改造』昭和十二年十一月)

僕は、「戦争の渦中にあつてはたつた一つの態度しか取ることが出来ない。戦では勝たねば成らぬ。」という言葉が、まさに決断主義の正体だと考えるが、それはともかく、この『日本の思想』における小林秀雄の決断主義と、『ゼロ年代の想像力』の決断主義は、確かに何も考えずにサバイブするという点では同じかもしれないが、しかし微妙に違う気もする。

むしろ、ここでの小林秀雄の発言は、先に引用した、野ブタに対する宇野氏の文

この世界には「入れ替え可能」なものの方が実は少ない。「終わり」がある限り、「いま・ここ」は基本的に「入れ替え不可能」な唯一無二の時間なのだ。

に近いものを感じる。とするならば、小林秀雄の決断主義は、むしろ00年代のものというより10年代のものなのではないか。しかし、そうだとしたら、結局10年代の想像力も、「戦争」にあがなうことは出来ないのではないか・・・(*7)

ここで、一気に議論を進めたい所だが、それは3回目に話すことなので、ここでは「何故かセカイ系から決断主義への道筋においては、それまで絶妙なシンクロを保っていた『ゼロ年代の想像力』と『日本の思想』が、微妙に別れる」という所で止めておく。ただそれにしても、社会不安→セカイ系→決断主義という流れが、そんなに新しいものではなく、むしろ近代日本においては何度も繰り返されてきたことであるということが、分かっていただけたと思う。

問題の本質は昔と変わらない、だが・・・

さて、今まで僕は『ゼロ年代の想像力』本文の流れを、『日本の思想』における諸概念に割り当て、それにより、別に『ゼロ年代の想像力』の問題の本質はそんなに新しいものではないということを示してきた。世界はいつも弱肉強食だったし、社会はいつもあいまいだったし、人々はいつも「決断すること」自体を格好いいと思っていた。

でも、だからといって僕は、そのように問題の本質が普遍的だったからと言って、例えば杉田俊介氏がsugitasyunsuke/20070614/p2で述べているように「そんなの昔からあった問題なんだから、別に新しくともなんともないよ」と言うつもりは全くない。もちろん、問題の本質自体は昔からあったことは上記で散々述べたように明らかだ。だが、そうであるとしても、僕は宇野氏の『ゼロ年代の想像力』は、新しいことを、そのような文を発表することによって、提示していると思う。それは一体何か?

近代的な主体

・・・丸山眞男は、上記のようなことを書いた章の最後に、こう述べている。

多様な争点をもった、多様な次元(階級別、性別、世代別、地域別等々)での組織化が縦横に交錯することも、価値関心の単純な集中による思惟の懶惰(*8)(福沢諭吉のいわゆる惑溺)を防ぎ、自主的思考を高めるうえに役立つかもしれない。けれどもそうした社会的条件は、他面において同時にますます認識の整序を困難にするばかりか断片的「実感」に固着し、あるいはそれを新たな思想形態と錯覚する傾向を甚だしくする条件でもある。雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としてもやはり強靭な自己制御力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である。

要するに、実感信仰=セカイ系や決断主義を乗り越えるためには、近代的な「主体」を打ち立てるべきだというわけで、まぁ今これと同じようなことを述べている人としては、大塚英志氏(asin:4047041793:titleを参照)などが挙げられると思うのですが、しかし確かにこのような処方箋で救われる人も居るし、昔はそれで十分だったと思うのですが、今の僕も含んだ「若者」に、このような処方箋が効果を持つとは、考えにくい。

問題の問題こそが、真の新しい問題である

それは一体何故かということなのですが、何度も繰り返すように問題の本質は昔と殆ど同じです。では何が違うのかというと、このような問題が、昔は「問題」として認知しなかったであろう人にまで、認知されるようになった、つまり、問題が大衆化したということ、それがーややこしい言い方なのですが必要なので敢えてするとー『ゼロ年代の想像力』という文章が提示した「問題の問題」なのです。

そして、その「問題の問題」を、宇野氏はSFマガジンに『ゼロ年代の想像力』という連載を書くことによって、提示しているのです。『ゼロ年代の想像力』が提示する問題自体はそんなに新しいわけではない、普遍的な問題だろう。しかし、そのような普遍的な問題を、『SFマガジン』という雑誌を通じて、しかもハイカルチャーではなくサブカルチャーから提示することによって、彼は「問題の問題」を、明記しないまでも同時に提示している。僕はそれが『ゼロ年代の想像力』の新しさであると、考える。

では、その新しさ、つまり僕が問題の大衆化と述べたような、「問題の問題」とは一体何なのか?それを、次回は教養主義とサブカルチャーという概念を使用しながら、述べたいと思う。

補論:『日本の思想』を使用することについて

さて、僕は『日本の思想』を使用しながら、『ゼロ年代の想像力』が提示する、問題の本質自体は、そんなに新しい問題ではないということを、書いてきた。

しかし読者の中には、この記事の文体が揶揄的に感じられた人もいると思う。要するに僕が言っているっていうことは、「x年前に通過した場所だっッッッ」というレトリックと同じなのではないかと。

その指摘はある点では当たっている。もちろん、通過したのは僕ではなく丸山眞男なわけだが。しかし『ゼロ年代の想像力』のような問題は、既に批評の場で散々議論されてきたということは、やはり注釈しておかなければ駄目だと思う。

ただ、別に僕はそれを紹介して、この『ゼロ年代の想像力』を論議するのが無意味だと言うつもりは、毛頭ない。先ほど述べたように、この『ゼロ年代の想像力』は、確かに「新しいこと」を示している。その「新しいこと」について論ずるのは、決して無意味ではない(だから僕もこうやって記事を書いている)。

ただ、やっぱりその「新しいこと」というのは、この『ゼロ年代の想像力』の提示する問題=解決策の本質の中には無いだろう。そしてそうである以上、『ゼロ年代の想像力』の問題の「本質」にばかり目を向けして、ムキになって反論を書くことは、それこそ冒頭に丸山眞男の文から引用したように、

同じような問題の立て方がある時間的間隔をおいて、くりかえし論壇のテーマになっている

のではないかと思い、それは生産的ではないと考えるから、少々露悪的に、この文を書いたのである。

*1: 読んだこと無いなぁ。『http://www.geocities.jp/wakusei2nd/lily.html』みたいなのかな

*2: Wikipediaなどによれば、「http://www.geocities.jp/wakusei2nd/haruhi.html」とか「ほしのこえ」とかのことらしい。あと、ポスト・エヴァというのなら、多分「機動戦艦ナデシコ」とか「エウレカセブン」も含む

*3: 僕から見るとそれは自然主義的誤謬に思えるが、それについて詳細は3回目に述べる予定

*4: 乙木氏の記事を読んだ人の中には、よしながふみが「ゼロ年代の想像力」であると読み込んで(id:ichinics:20070608:p1)、混乱している人がいるが、僕はよしながふみはゼロ年代の次にくる物として提示されたと読み込んでいる。

*5: ぶっちゃけ気持ち悪い

*6: というか、良く考えたら同じである方が・・・

*7: もちろん、そこでは「そもそもあらがうべきなのか」というひとも問題となる

*8: 読めない・・・id:zaikabouのタイトルでしか見たことないよこんな漢字

この日へのコメント

ichinics 2007/06/24 01:22
はじめまして。私の書いたものを見てくださったようでうれしく思います。ただ、私のあの文は、確かに混乱してるんですけれども、それは、ゼロ年代に続くものとして、よしながふみをあげることに対する違和感です。その理由については私の個人的な感想でしかないのですが、でも「ゼロ年代」に続くものとしてよしながふみが挙げられる「気分」というものが、少女漫画と少年漫画の壁がうすれていることの結果ならば面白いなと思ってかきました。