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2007-09-24

[言及][いじめ][少年少女]「逃げ場所」を作るのがもはや子供じゃないものの責務である

http://d.hatena.ne.jp/geeker/20070922/1190472844

を読んで考えたこと。

まず僕は、このように学校でのいじめについて、そのいじめの当事者たちが意見を発表するということはとても良いことだと思う。だからまずそのことについて、id:geekerさんに敬意を表したい。

そして内容面に関しても、いじめに対して「闘う」のではなく、いじめから「逃げる」ということを奨励している点で、とても的を射ていると言える。

しかし真に問題なのは、この様な文章を読んで、大人たちは、じゃあそのように必死でいじめから「逃げる」子供たちに、逃げ場所を提供しているのか?ということだと、思う。

そもそもこういう文が発表されるのは、大人たちが子供たちにきちんと「逃げる」ことを教えてこなかったから

id:geekerさんは、こう書きます。

いじめられっこは追いつめられがちです。

自分以外の生徒は全員敵、両親にも突き放される、教師にも誤解される。味方がいるなら別ですが、そんな崖っぷちの状況で立ち向かえなんて無理な話。無理して立ち向かって精神を病み、その後の人生に影響が出るなんてことになったら大変なことになりますね。

そんなときは学校以外の世界に逃げればいいのです。

でも、こういうことをいじめに遭った人がわざわざネットに書くということは、裏を返せば、このような知識が子供たちの間で共有されていないということを示しています。

つまり、子供の周りにいる大人たちが、誰もこういうことを言って来なかったんですね。だからわざわざ当事者自身たちがこういう知識を自らの手で共有していかなければならなかったのです。

言っておきますがね、これは恥ずべきことですよ!だって散々子供たちを教室という部屋に長時間押し込め、そこで「将来のためだ」と言いながら何役立つか分からない勉強を強制しながら、今現在の自分を守る術すら教えてこなかったんですから。本末転倒にも程があると言わざるを得ません。

「子供たちが逃げなきゃならないような状況そのものを生み出さないようにすれば良い」と言う人も居るかもしれません。要するにいじめをさせないよう、子供をきっちり教育すると。id:geekerさんのブログにトラックバックしているid:kazunosuke:20070923#p1の文を見ても

geekerさんの考えには僕は賛同できない.だってそれはいじめに耐えろってことでしょう.そう考えるしかなかった彼女のまわりのアホ教師が憎いわ.見て見ぬフリとか,そんなのするようになったら教師なんて辞めるべきだよ.どんな些細な問題も,嫌だと感じる生徒がいるなら,どうにかして見つけてウンザリするぐらい話し合いをして改善したい.無理かもしれない.でもいじめを無くすことは無理だからいじめはあってもしょうがないなんて絶対に言いたくない.世の中から殺人はなくならないから殺人はあってもしょうがないなんて思わないもの.程度なんて関係ない.ダメなものはダメ.人を傷付けることなんて,どんな理由があったにしても許されていいわけないよ.

そういう考え方をする人が居ることがはっきり分かります。要するに、いじめがあること自体を決して許しては駄目だと。

ですが、問題は「許される。許されない」ではないのです。今そこにいじめがある時、どう対処すればそこで被害に遭っている子供を「生き延びさせる」ことができるのか。それが問題なのです。いじめをする子とねばり強く話し合いをして、彼らに改心を迫る。それは良いことでしょう。しかしじゃあその間(*1)どうするのか?やっぱりどう考えたって「逃がす」しかないんですよ。いじめに耐えるのでもなく、いじめっ子と闘う(話し合いも闘いであり、そしてそうである以上そこでは「正義」が通用するとは限らない)のでもなく、「逃げる」んです。

そして、更に言うなら、大人たちはそのような生きる術としての「逃走」を教えてこなかったどころか、それでも何とか自分たちで「逃げることこそが生きるために必要なことだ」と気づいた子供たちにさえ、逃げ場所を与えてこなかったのです。

むしろ大人たちは「逃げ場所」を塞いできた

例えばid:geekerさんはいじめ・学校からの「逃げ場所」として↓のようなものを挙げています。

たとえば、習い事を始める。ちょっと離れた教室に通うとよいかもしれません。同じ習い事をしている仲間たちというのには、私もずいぶん救われてきました。それに、上達すれば自信がつきます。自信というのは文字通り自分を信じるもので、意外と重要なのです。人は信じるものがないと生きていけないとよく言われますが、まさにその通りで人は心のなかに根を張った何か大きいものを信じて生きていくのです。その根を太くすることが、自信をつけること。

ほかに、楽しみを持ってみる。日に一度の犬の散歩でも、週に一度の好きなアニメでも、もうすぐやってくる好きなアーティストのCDの発売日でもいい。楽しみは信じるものと同じように、生きるためのプラスになると思います。私も、「○○があるまでは死ねない!」と学校生活を持ちこたえることができました。

少しアレですが、ネットの世界に逃げる。のめりこんで思考が偏屈にならない程度に。自分を客観的に見つめられたり、いじめっこの器のちっちゃさがわかるかもしれませんよ。頼れる人を作ってみたり。

しかし、例えば習い事に関して言うならば、習い事の目的はあくまで「習い事」にあります。もちろん、習い事が上達することによって、自身あるいは自尊心というものが養われるというのもあるでしょう。しかしじゃあ何も得意なことが無い、あるいは見つからない人はどうすれば良いのか?例えば僕はエレクトーン教室に大体3年間ぐらい通っていたけど、はっきり言って何も弾けないまま終わりました。正直何も弾けないで周りからどんどん取り残されていくという経験は、逆にトラウマ(*2)です。

また、「○○を楽しむ」と言うのに関しても、本来「楽しみ」というのは、何かを見たり聞いたり感じたりしているうちに自然と心の内にわき上がってくるものであって、無理矢理「○○を楽しむようにしよう」というのは、なかなか難しいでしょう。もちろん、「○○を好きな私」というように自らのアイデンティティを形作って、それを認めるのは、個人のノウハウとしてかなり有用ですが。

ネットに関しても言いたいことはありますが、何か無駄な炎上を招きそうなので避けます(w(*3)。ただ一つ言えるのは、今の「有用/無用」で全てを判断する価値観が大勢を占めるネット社会は、必ずしも逃げ場所になり得るとは限らないということです(だからこそそれを改革するために努力が必要なんだけど)。

言っておきますが、僕はだからといって「id:geekerさんのノウハウは役に立たない」ということを言いたいのではありません。繰り返しますが、僕は、id:geekerさんの書いたノウハウは、それが一人の人間が学校やいじめから逃れて生き延びるためのノウハウとしては、取りうる最善の道だと思っています。

ですが問題は、一人の個人が取りうる最善の道を取ったとしても、上記のようなことが生じかねないということなんです。では、一体何故そうなってしまうか?

答えは簡単です。別に習い事も「楽しみなこと」も、逃げ場所として作られた訳じゃないからです。本来は逃げ場所ではない場所が、人が逃げてくることによって逃げ場所になったわけです。ですが別に元は逃げ場所じゃなかったんですから、当然そこでは条件が付きます。塾では「しっかり勉強を頑張ること」という条件が付き、趣味では「しっかりそれを楽しむこと」という条件が付く。

ですが、そもそもそこに居る為には条件が必要となる「逃げ場所」とは、逃げ場所と言えるのか?言えないでしょう。本当に必要なのは、何も条件などなく、ただそこに居るだけで存在を認められる、そんな場所なはずです。しかし大人たちは今までそのような場所を作ってこなかったばかりか、むしろそのような「逃げ場所」を求めて逃げてくる人を「若者がぶらぶら用もなくたむろしている」と言って排除してきたのです。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-02/2006030204_01_0.htmlなどを参照">*4)

大人たちは、まずこの様な状況を生みだした責任を取らなければならないと、僕は考えます。

「逃げ場所」を作る4つの具体策

では、一体大人たちはどうやってそのずっと取らなかった責任を取ればいいのか。

学級、あるいは学校をなくすというのももちろん中長期的には目指すべきなのかもしれません。しかしそのような政治的な解決策の前に、まず今すぐ個人が出来る具体策を考えてみました。(http://www.futoko.org/top/news/070720.htmlなどを参照">*5)

策は次の4つです。

  1. 学校に行かないことを「仕方がないこと」(条件付き許容)ではなく「当然のこと」(無条件許容)として認める
  2. 知識をインターネットなどでフリーにアクセスできるようにする
  3. 「平日町中をぶらぶらすること」を非行ではなく当然のことと考える
  4. 自らの土地・空間(パーソナルスペースも含む)をそのような子供に無条件で開放する

まず1番目について。これは僕が割とそういう進歩的な環境に育ったからかもしれませんが、「学校がいやだったら行かなくても良い」ということは、人々の中でも割と認められてきました。しかし問題は、それらが往々にして「学校がそんなに嫌なら……」という風に、留保付きの容認であることです。つまり、「学校に行きたい」と言う子供に対しては、まず「学校でそんなに嫌なことがあったの!?」という風に尋問される訳です。

ですが、そこで「そうだよ凄い嫌なことがあったんだよ!」という風に自己主張できる子は極僅かでしょう。いじめの大多数において、子供は親にさえ自分がいじめられていることを知られたくないのですから。

だから、そもそも「学校に行かない」ことに正当な理由が必要とされる、そういう状況を変えなければならないのです。具体的には、例えば「今日なんかだりぃーから学校休むよ」というようなことでも学校に行かないことを認める。そういう態度を取ることです。

2番目について。確かに今まで「学校に行かなくても良いよ!」というようなことを言う人は一杯居ました。しかし問題は、そのような人たちが往々にして「勉強なんかもしなくて良い!」という風に言い、そしてそれ故に「学校に行って勉強する」か「学校に行かなくてまともな勉強もしないか」という風に二分されてしまうことです。

もちろん、「本当に学校の勉強なんか役立つのか?」というのは極めて疑わしいです。というか、僕はどっちかというと「学校の勉強なんか役に立たないだろう常考……」という考えの持ち主なわけですが、しかし世の中で「学校で勉強しなきゃまともな大人になれない」という価値観が以前大勢を占め、学校に行きたくない子供の間にも「でも勉強する場所がなくなっちゃうし……」と思う子供が居る以上。そのような子供でも、安心して学校に行かなくて済む、そのような環境を構築しなければなりません。具体的に言うなら、学校に行かなくてもネットに勉強するための教科書・ノウハウなどがフリーで転がっているという環境です。

だから、大人たち、また、大人までいかなくても暇な学生たちには是非、自分の持っている知識・ノウハウなどをウェブ上で公開してもらいたい。「こんなこと大人なら誰でも知っているよな」という様な情報こそが今ネットに公開すべき情報なのです。

しかし一方でそのような傾向が暗に、そのような勉強を逆にしたくない不登校児に対して「勉強もしない、学校も行かないなんて……」という様な圧力を与えることも僕は危惧します。ですから、知識を公開するのは結構ですが、「この知識を知らなければ駄目だ」みたいな脅しはすべきではないです。

3番目について。これは分かるでしょう。というかはっきり言って何で平日ぶらぶらするだけで何で誰にも迷惑かけてないのに補導とかされなきゃいけないのかも訳分かりません(少年補導に法的根拠はないので、建前的には同行を求められても拒否すれば良いはずだけど、そこら辺はよく覚えていない。[isbn:4480041621:title]という本に補導されたときの対処法が載っていたと思うので、知りたい人は図書館とかで探してください)が、まぁそこら辺は政治的な課題といえるでしょう。今すぐ出来る具体策としては、別に平日子供をみかけても注意したり顔をしかめたり、あるいは警察に連絡したりせず、普通にそこに居ることを認めることです。

最後に4番目について。ここで言う「自分の空間」とは、現実世界で言うなら自分の店であったり、家の軒下だったり、自分の周りの空間だったりのこと。ネット空間で言うなら、自分の運営する掲示板、自分のブログのコメント欄などのことです。そのような場所に子供が居たとしても、追い出したり、文句を言ったりしないでほしい。そこにたむろすることを普通のこととして認める。

もちろんこれはかなり難しいことでしょう。ですが、僕はこれこそ最も重要だと考えています。何故なら、「逃げ場所」を作るということの本質はこれだからです。「逃げ場所」を作るとは、逃げてきた子供たちに、自分が占有する空間を分け与えることなのですから。

まとめ

*1: いじめとは何かの「間」に起きる問題である。

*2: そんな大げさなものでもないけど

*3: 何が書きたかったか知りたい人は、id:Rir6:20050626:childrenでもどうぞ

*4: id:lever_building:20070922#p1、http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-02/2006030204_01_0.htmlなどを参照

*5: もちろん、上記の政治的な解決策を推し進めてくれるような人を応援するというのも重要です。そこら辺はhttp://www.futoko.org/top/news/070720.htmlなどを参照