http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20071224/p1
「自分で檻を作って自分で檻に入った奇妙な獣」ってのは、悪いですが女性のことです。大嫌いな思想を自分で作って自分で強化してしまっているようなものなんです、これ。恋愛と結婚という制度が、さらにこれを助長します。
「ひとは女性を搾取する。そして女性は愛の名において搾取されるがままになる」
シモ-ヌ・ド・ヴォ-ボワール
ヴォ-ボワールの名言の一つですが、彼女が言いたかったのはそういう事なんです。
ヴォ-ボワールが愛だとか結婚だとかいう価値観を激しく攻撃したのは、そういう事なんです。この歪みを彼女が知っていたからに他ならんのです。
男性を愛し、それに依存してしまう事が、マクロなレベルでの男性優位女性蔑視に結びついている、とね。
世間一般で言われている「恋愛」、「結婚」、「家族」というものが、結局女性を従属下におく社会装置でしかない、というのはまさにその通りだと思う。思うのだけれど、でもそれを女性の「自立心」の問題として考えるのは、どーなのかと。id:pal-9999氏は、
男性優位主義は糞だという意見には女性は総論賛成。
ところが、自分の恋人とか夫とかの話になると、女性は一斉に、自分より優れた男性に飛びつくんです。依存心とか保護への渇望とか、自信のなさとか金銭上の問題とかからね。
そんな事をすれば、結果的に、男性優位主義を助長しかねません。だって、そうでしょう?そういう男性を選ぶってことは、身も蓋も無く、男性に保護者として役割を期待しているって事にもなるんですから。
これは、男性が保護者であり、女性は被保護者であるという男性優位主義の基本部分を上書き強化してしまうんです。
しかし、それでも女性は、ミクロなレベル(恋人とか夫婦間)では、これを決してやめない。
つまり、結果的にですけど、各論反対になるんですよ。
「女性は男性より劣ってなんかいないが、うちの恋人は私より優れている。」
っていう歪みが生まれるんです。
と書き、http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20071222/p1でも
それから、これが問題なのだが、男性に依存することについて、女性の側が、「そんなに悪い事ではない」って考えていることがあるって事だ。無論、これには、男性側が作った社会制度などが悪い、それで洗脳されているって考え方もあるんだけど、それを女性側があまりに依存的すぎるんで、それを助長してしまうことがある。
僕が問題にしているのは、そこなわけ。
(略)
つまり、自分は弱者であり、強者は自分のことを助ける「べき」だという考え方だ。
弱者利権というのは、コレで、自分達に自信がない人は、しばしばこういった歪んだ考え方に至ってしまうことがあるのだ。
(略)
無論、女性だけでは食っていけないという現実があるのも確かだろうが、女性に内在する恐怖、つまり、一人では生きていけないという恐怖、自活する恐怖、自信の無さ、依存への渇望が、自由と保護のトレードオフに簡単に飛びついてしまう原因の一つなのも、僕は確かだと思っているわけだ。
そしてなんだけど、この保護と自由のトレードオフは、基本的に有害なことが多いのだ。全部が全部とは言わないけれど。
この点について、女性の側は、ここ半世紀ぐらい進歩がない。そこが俺が問題だと思っている場所なわけ。
と書いている。つまり、女性は男性に依存せず、きちんと「自立心」を持てと、そう言う訳だ。
だけど、じゃあそうやって女性が「男並み」になって、きちんと自分の食い扶持を稼ぐようになること、それが本当に女性全てを幸福に導くのかというと、僕は疑問なんですね。何故かといえば、そもそも僕は今の男性だって別に幸福ではないと、そう思うからです。つまり、上記の議論では、男性はきちんと経済的には自立しているから自由を持てていて幸福だ。ということが暗黙の内に前提になっているけど、僕はそうやって経済的に自立している男性が、幸福であるとはとても思えない訳です。
例えばid:pal-9999氏は「保護と自由のトレードオフ」ということを言い、次のような例を出しながら、「保護はよくない!やっぱり自由が良い!」と言います。
長い目でみると、残念ながら、弱者を救済する銀の弾丸はないのだ。社会主義は労働者を救ってくれなかった。そして女性もだ。結局、ソ連やキューバがそうであるように、個人の保護は、全体の損失をもたらし、国全体を貧乏にする結果となった。
ただ、一つだけいえるのは、残酷な現実だ。
政府は経済全体を豊かにして全体のパイを増やす。そして、人々は努力して自分の生活水準をあげようとする。保護は役に立たない。
それ以外に、貧乏人が救われる方法はないのだ。保護は、彼らが貧乏から脱出するのを助ける銀の弾丸にはならない。池田勇人や、アラン・グリーンスパンは、両方とも同じ考え方をしていた。そして、両方とも、その旨の発言をして、袋叩きにされたことがある。池田は、日本を経済成長させ、日本人を豊かにした。グリーンスパンは、アメリカに活力を蘇えらせた功績があるのだが。
なかなか、これを理解されないのかもしれない。弱者切り捨てという言葉で、簡単に悪役にされてしまうからだ。現実的には、弱者を救う銀の弾丸はないというのにだ。
でも、じゃあそうやってid:pal-9999氏が幸せの象徴として挙げた「経済成長」が本当に日本人を幸福にしたのか?
それこそ働きバチの様に、朝早くに出勤し満員電車にぎゅうぎゅう詰めになって会社に向かい、そして一旦会社に着いたら夜遅くまで拘束され、そして再び満員電車に乗って家に帰り、後は寝るだけ。休日も「つき合い」やら何やらで、自分の時間なんか殆ど持てない。そんな生き方を日本人の大半に強いた、「高度成長」が本当に幸せだったのかって、やっぱり僕は疑問なんですね。
ここで僕はふと「働きマン」というマンガを思い出します。といっても、僕はせいぜい第一巻をパラパラと立ち読みしてきただけなんですが、僕にはあのマンガの主人公の様な生き方―こそが、多分id:pal-9999氏にとっては理想なんでしょうが―が、人を幸せにするとはどうも思えない。もし、女性が抑圧から自由になるのが、あのような方法でしかなし得ないとするならば、「そんなことまでして自由にはなりたくない!」と言うのではないかと、そう思います。
つまり何が問題なのかと言えば、id:pal-9999氏は、「保護と自由のトレードオフ」ということを述べて、完全に何か強者に従属するか、もしくは弱者も強者同様に振る舞うか、という二者択一を述べますが、真に問題とされるべきなのは、その様な二者択一でしか生きられない構造にあります。断言しますが、そのような構造の元では、女性どころか、男性すら幸福にはなれないでしょう。そもそも、その様に経済構造の中で常に「稼げ、稼がなきゃ自由にはなれないぞ」と責め立てられながら得る自由の、何処に本当の意味での「自由」があるのか?
id:pal-9999氏は、「保護されている限り自由はない」ということの証左として、次のようなモデルケースを提示します。
そして、この事が酷く厄介な問題を生み出すんです。情けない男、くだらない男を弾き、強い男性、自分のことを保護してくれそうな男性を受け入れることで、家庭内や恋人間では、基本的に、女性は、夫>妻となる土台を作ってしまうってことになるんです。従属してしまうんですよ。何故って、自分より強い相手しか選ばないんだから。恋人として。少なくとも、自分より優れた男性だと思える相手としかつきあわないわけですからね。
そして、自分より相手が優れていると考えている人間には、必然的に、人間ってのは相手に対する服従心が育ってしまう。
自分の保護者となるような男性を探しているわけですから、必然的にそうなってしまうんです。力関係で、最初から自分が弱い関係の中に入っていってしまうんですからね。
この結果、何が起こるかと言うと、自分を男に従属させて、男に依存し、世界に存在する恐怖から自分を守ってくれるような愛を求めて全精力を傾けるような女性が次々と生み出されることになる。
しかし僕が思うに、ここにある真の問題は、「女性が何か保護を求める」ということではなく、むしろ「保護を求めた時に、そこにある選択肢が『家庭』という従属しかありえない」ということではないかと、そう思うんです。別に保護を求めること自体が悪いとは思わない。もちろん、経済学的議論で言うならば、保護というものが国民全体の富を減らすものであることは承知しています。ですが、じゃあ今の日本はそんなに富が乏しいのかと。むしろ今の状況というのは、そうやって保護を切りつめ自由競争を推進した結果、富は限りなく大きくなったが、その代わりに人々に常に競争することが強いられ、「降りる自由」、「弱くある自由」というようなものが存在しなくなっている。そんな状況なのではないかと。
何故そのような状況が生まれてしまったのか。その原因は、「女性に自立心がない」などという女性の思想などでは決してありません。むしろ逆に「全ての面で保護から脱して自立しない限り、その人の自由は保障されるべきではない」というような、強者の思想、それが広く一般の人々の染み渡ってしまった、そんな状況です。つまり、id:pal-9999氏のような言説こそが、まさに女性、というか弱者を従属下においているのです。
「弱いから保護を求める」、良いじゃないですか。例えば障害者の例を出して考えてみましょう。障害者の中には、もちろん働ける障害者も居ますが、働けない状態の障害者という方も居ます。しかし、じゃあ働けない障害者に対しては、自由は保障しなくて良いのか?違うでしょう。働けない、働くことにハンディキャップを持っているからこそ、社会はその様な人に保護を与え、そしてその保護によって障害者の自由を保障しなければならないのです。「保護」と「自由」はトレードオフの関係なのではない。むしろ、ある人への保護というものは、須くその人の自由を保障するものだし、また、そうでなければならないものなのです。その意味で言うならば、「家族」という従属形態は、自由を保障していないんですから、そもそも「保護」の名にも値していないのです。だから、女性はそれを主張すればいい。つまり、「自由を保障する保護を女性に!」と、堂々と主張すれば良いんです。
そして、それはもちろん女性だけの特権ではありません。男性であったとしても、もし保護が必要ならば、堂々と主張すればいいんです。一部の弱者男性の中には、「保護を求めるなんて恥ずかしい」と思い、無理に自分の自由に生きたい欲望を抑え込んで、そしてそのルサンチマンを女性運動などの要求に対するバックラッシュとしてぶつける人が居ます。はっきり言って馬鹿ですね。見事に強者の思想の罠にはまってしまっています。もし自分が社会から保護されないが故に、自分の自由に生きる権利が抑圧されているならば、同じ抑圧されている人達と一緒に、堂々とそれを主張すれば良いんです。
id:pal-9999氏は、女性を「自分で檻を作って自分で檻に入った奇妙な獣」という風に例えています。なるほど、確かに今女性の周りにあるものは檻としか言いようがないでしょう。しかしじゃあそれこそどんな建物にも入らずに、夜になろうが、雨が降ろうが、寒くなろうが、雪が降ろうが、ただひたすら外でじっと耐える、そんな存在が、果たして「人間」と呼べるか。いいえ呼べません。そんな存在は、まさに単なる「獣」です。id:pal-9999氏の言い分は、人々にまさにその様な「獣」になれと進めるものです。そうではなく、今必要なのは「より自由な建物」です。きちんとドアが付いて自由に出入りでき、窓があって外の空気も取り込め、暑さ寒さもきちんと緩和できる、そんな家=保護を作ってこそ、初めて文明人となれるのではないかと、僕は考えます。
今回述べたように、僕は必ずしも全ての人が一生懸命経済活動に参加して、頑張って金を稼ぐべきであるとか、そういう規範には懐疑的です。世の中には色々な人が居て、ばりばり働きたい人も居れば、そこそこ働きたい人、のんびり働きたい人、そもそも働きたくない人も居るんですから。しかし現在の世の中は、「ばりばり働く」ことのみが、真っ当な生き方であるとされているわけで、実は既存の「貧困」とか「差別」とか、また「若年層バッシング」とかと戦う運動も、その基本線は外していません。それは確かに「ばりばり働く人」には良いことなのかも知れないけれど、やっぱりそうでない人のことを考えず、そうした人々を不幸にしているのではないかと、そう僕は考えています。
では、その様な社会に対し、どの様に対抗運動を立ち上げるのか。そこで僕が重要だと思うのが、現在ネットでは割とネガティブな概念として扱われている、「ゆとり世代」という概念なんですね。その概念の可能性について述べた文章が、ゆとり世代部の同人誌『ゆと部報とりあえずねむい』に「「ゆとり世代」というレッテルをあえて背負う」というタイトルで載っています。
↑のバナーにも書いてありますが、同人誌は2007年12月30日に、コミックマーケット73西し-33a「古い夢」で、400円で頒布します。冬コミに行く方で、今回の文章や、id:sjs7:20071230:yotobuhouで紹介した僕の過去記事にちょっとでも興味を持った方などは、是非立ち読みだけでも構いませんので、寄って読んでいただければ幸いです。僕の文章に興味が持てなかった方も、同人誌「ゆと部報とりあえずねむい」にはhttp://enfant-terrible.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%86%e3%81%a8%e9%83%a8%e5%a0%b1%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%9a%e3%81%ad%e3%82%80%e3%81%84にも書いてあるとおり、様々なゆとり世代部のメンバーが様々な文章を書いておりますので、12月30日に冬コミに行かれる方は、是非西し-33a「古い夢」へお立ち寄りください。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10057529259.html
なんだかなぁ。そりゃさ、誰かに殺されるより交通事故で死んだりする方が確率は高いなんてことは、幾らニュースとかに影響されやすい無知で愚かな大衆(もちろん
皮肉ですよ)でも知ってるでしょうよ。でもさ、誰かに殺されて死ぬのと、交通事故で死ぬのじゃあ、確かに冷徹に言えばどちらも同じ「死」なんだけど、それでもやっぱり「意味」が違うでしょう。僕らはロボットじゃないんだから。
もちろん別に、誰かに殺されても死ぬのも交通事故によって死ぬのも同じ一つの「死」でしかないんだから、その二つの死は平等に扱い、より確率が高い方に重点的な支援をするべきという立場も存在することは理解します。しかしそれは、あくまで「誰かに殺されても死ぬのも交通事故によって死ぬのも同じ一つの『死』でしかない」という思想に基づく立場な訳で、当然そうでない立場も存在するわけ。つまり、やっぱり交通事故で死ぬよりは、誰かに殺されて死ぬ方が恐ろしいし、その「誰か」も、身内によってならまだ納得できるけど、全く見ず知らずの人間だったら絶対納得できない。だから、例え「見ず知らずの誰かに殺されて死ぬ確率」が、「身内に殺される確率」や「交通事故で死ぬ確率」より明らかに高かったとしても、「見ず知らずの誰かに殺されて死ぬ確率」の方を重要視し、その様な確率をより低くすることに、より多くの資源を用いるべきという、そういう立場。そして、別にどちらの立場もどっちかが劣っていてどっちかが優れているということはないんです(だって考え方の違いなんですから)から、幾らあなた達が「死は全て同じである」という立場に立つとしても、別の立場があることを、認めなければならないはずです。つまり、そういう『死は全て同じである』という風に考えない立場の人も世の中には居るし、むしろそういうあなた達の立場と対立する人の方が多いんだから、「スタットウォーズ」とかそういう仲間内だけのジャーゴンを使って、自分たちの立場・論理だけで物事を考えるのではなく、きちんとそういう人の立場に立って、そういう人でも納得できる論拠を考えなきゃ駄目なんじゃないのと、そう僕は思うのです。
もちろん、別にそういう「見ず知らずの人に殺されるよりは、身内に殺されたり、交通事故に遭う確率の方が遙かに高い。だから見ず知らずの人に殺される確率なんか無視した方がいい」という様な宣伝が、全く何の効果もないとは言いませんよ。多分そういう宣伝を大量にすれば、一時的に「そうだよなぁ、そんな通り魔なんかよりもっと他のことに気を配るべきだよなぁ」という空気が醸成されるかもしれません。でも、そんなことしたって何か強烈な通り魔事件とかが一件起こればそんな空気すぐ吹っ飛んでしまうでしょう。そういう状況を、治安悪化論批判者は「大衆は短絡的だからそういう目先の事件にすぐだまされる」と言う訳です。ですが、考えてもみてください、「見ず知らずの人に殺されるよりは、身内に殺されたり、交通事故に遭う確率の方が遙かに高い。」というのも、「○○県××町で通り魔殺人が起きたらしい」というのも、自分の目で見ることが出来ず、メディアを通じてしか知ることが出来ないという点では、全く同じなわけです。もちろん、こういう言い方をすると治安悪化論批判者は
「私たちは何も本当のことを知ることはできない、あらゆる視点を受け入れ、権威とされているどんなものにも懐疑の念をいだくべきだと示唆するポストモダンの理論家たちだ」
という風に皮肉るわけですが、しかし僕が言っているのは、「どんな事実も全て嘘だ」ではなく、「どんな事実も全て事実だ」ということなのです。つまり、「見ず知らずの人に殺されるよりは、身内に殺されたり、交通事故に遭う確率の方が遙かに高い。」ということを幾ら完璧に証明しても、「○○県××町で通り魔殺人が起きたらしい」という事実は決して消えません。そして、「見ず知らずの人に殺されるよりは、身内に殺されたり、交通事故に遭う確率の方が遙かに高い。」という判断材料と「○○県××町で通り魔殺人が起きたらしい」という判断材料、どちらをより重要視し、どちらを軽視するかは、もはや「事実」の水準の問題ではないわけです。それは「思想」の問題なのです。
でも、そうはいっても昔は今みたいに「通り魔殺人」にピリピリしていなかったではないか、という議論もあります。所謂「戦前・高度経済成長期の方が凶悪犯罪・少年犯罪は多かった」論です。もちろん、事実の水準でそうであることは僕も否定しません。しかしここでも治安悪化論批判者は、「その事実が何を意味するか」ということは、一概に事実だけでは決まらないということを無視します。言い方が難しければ、もっと簡単にこう言いましょう。「昔はメディアが発達していなかったから、例え何処かで『通り魔殺人』があったとしても、それが全国規模で知れ渡ることはなかった。しかし現在はメディアが発達したから、一端日本の何処かで『通り魔殺人』が起これば、それが即全国に伝わり、『日本の何処かで通り魔殺人があった』という事実が『自分も通り魔殺人に出くわす"かも"しれない』という風な認識を構築するのだ」と。
もちろん、「通り魔殺人が"増えている"」という認識があるからこそ、通り魔殺人を恐れるのであって、通り魔殺人が減っていると分かれば、そんなに通り魔殺人を恐れることはない、という人も居るかもしれません。しかしそういう人はごく少数でしょう。だって、別に通り魔殺人みたいな事件が多かった戦前にあっても、そういう事件に出くわして死ぬよりは、他の原因で死ぬ確率の方が明らかに多かったんですから。
大部分の人は、通り魔殺人が増えているとか、減っているとかは関係なく、とにかくそういう類の事件が世界にはあって、そしてその様な事件に自分が遭ってしまう可能性も存在するという、可能性が存在してしまうことにこそ怯えているのです。そして、例えどんなに統計などを駆使して客観的に見ても、そういう可能性、つまり自分の近くの赤の他人がいきなり刃物を出して襲いかかってくる可能性を消すことは出来ない。メディアの報道に何か規制でもかけて、そういう通り魔殺人に関する報道を一切禁止すれば、少なくとも認知の上で、そういう通り魔殺人の可能性というものを想像させないことは可能かもしれない。でも、そんな規制容認されるわけがないわけでで、やっぱり問題とされるべきは、「自分の近くの赤の他人がいきなり刃物を出して襲いかかってくる可能性を消すことは出来ない」という事実と向き合いながら、それでもそれを恐れない、そんな「考え方」を如何に見いだすかにあるのです。そして、そのような考え方、思想は、決して統計などによって導き出せるものではないのです。
それこそが、治安悪化不安に対抗するために、真に求められていることなのです。
実は今回の記事を書いた理由の一つには、12月30日にコミックマーケット73の西し-33a「古い夢」で400円で頒布される、ゆとり世代部の同人誌『ゆと部報とりあえずねむい』に載せた、僕の原稿「「ゆとり世代」というレッテルをあえて背負う」という文章の宣伝があります。
上記の同人誌では、今回取り上げた安原氏や、後藤和智氏などの俗流若者論批判論者を批判しているんですが、その批判の焦点も、今回の記事で述べた仲間内だけのジャーゴンを使って、自分たちの立場・論理だけで物事を考えるのではなく、きちんとそういう人の立場に立って、そういう人でも納得できる論拠を考えなきゃ駄目なんじゃないということだったりします。
更に同人誌の文章では、その様に自分と異質な他者、この記事でも自分を殺すかもしれない他者という風に述べた、そんな他者と出会える思想をどのように形成するか、というテーマにもちょこっと触れています。ですから、今回の僕の文章や、あとid:sjs7:20071230:yotobuhouで紹介した僕の過去記事に興味を持った方で、12月30日に冬コミに行く方は、是非立ち読みでも良いんで、読んでもらえればなーと、思います。また、今回の文章に興味が持てなかった方も、『ゆと部報とりあえずねむい』にはhttp://enfant-terrible.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%86%e3%81%a8%e9%83%a8%e5%a0%b1%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%9a%e3%81%ad%e3%82%80%e3%81%84にも書いてあるとおり、様々なゆとり世代部のメンバーが様々な文章を書いておりますので、12月30日に冬コミに行かれる方は、是非西し-33a「古い夢」へお立ち寄りください。