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2004-06-07


[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(1)

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。

この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎(とが)のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
  わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
  主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

旧約聖書イザヤ書53
この事件については書かないつもりだったけど、やっぱり書く。

とりあえず最初に言っておくと、これから先僕が書く長崎の事件についての記事について、もし反論コメントやTrackBackがあってもそれに対して応えることはまず出来ないと思って下さい。それを承知の上ならどうぞ反論でもなんでも続々お寄せ下さい。

私は被害者の女性に感謝し、そして・・・

加害者の女性に対し共感し、感謝します。

これはネタでも挑発でもありません。僕は彼女に礼を言い、もしかしたら許しを請わなければならないかも知れないのです。これは決して2ちゃんねらー達が行っているような「ネバダ萌え〓」等という甘ったるい物ではありません、そもそも本当に彼女を尊んでいるのなら、何でわざわざ二次元の絵にしなければならないのでしょうか?汝自己のために何の偶像をも彫むべからず又上は天にある者下は地にある者ならびに地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず。(旧約聖書・出エジプト記 20:4)。二次元の絵にするという事は結局彼女の上っ面だけを見つめているという事、彼らはあくまで彼女と、彼女が起こした事件を戯画化(ネタ化)しているだけなのです。

何故彼らがそんな事をするのか?おそらく彼らは恐いんでしょうな、自分の心の何処かに彼女をヒーロー視する自分が居ることが、だから必死で彼らはその自分を戯画化し、そんな「彼女をヒーロー視する自分」はあくまでネタを楽しむための仮面の自分に過ぎなくて、もちろん本当の自分はそんな彼女をヒーロー視するなんて考えてもいない、ごく普通の人だと示したがるのです。

おっと話が逸れました、別に僕は彼女の事件に対する社会の反応を分析したいのではありません。僕がしたいのは彼女と彼女の事件と、そして僕の位置関係をはっきりする事なのです。

そもそもこの事件は世間では「異常な事件ですわね奥様ほほほほ」等と言われていますが、実は全く異常なんかではない、彼女は極めて頭の良いお方です、殺害現場に十数分居た事がさも異常そうに書かれていますが、よく考えれば殺害した後すぐ逃げ出すって方が、もしかしたらその後すぐ発見されて一命を取り留めたりして相手を確実に殺せないかも知れないと考えたら、おかしな物です(だってあれだけ苦労して相手を殺傷したのに何でその苦労を無にするような行動をするのか?)、論理的な思考が出来るという事から考えるとこの少女は精神障害者ではないのでしょう(弁護士さんもそんな考えのようで)。

人が行動を起こす時は理知的な人なら、それによって起こる作用と副作用について考えます。殺人というのはそういう観点から見ると極めて副作用が巨大なためそう簡単には起きないのですが、しかしその副作用とは決して無限大の大きさではないのです。確かに人間は行動するとき作用と副作用について考えます。しかしその「作用」とは、何に対しての「作用」なのか?答えは簡単、「自我」に対しての作用なのです。では自我というのはどのようにして構成されるか?それは僕も良く分かりませんが、とりあえず自我の集合Aが存在すると言うことは、自我が全てを含む(そうなったらそもそも作用という概念はなくなるから作用を何で求めるか説明する方法が無くなる)のではない限りAc(集合Aの否定)が存在するはずなのです。

さて、ここまでの説明でAとAcは違うというのは分かったと思います。実はその違いがそのAの人の「尊厳」なのです。ちょっと話が飛んだ気がしますのでまとめますと、作用というのは自我の存続の為に存在し、自我の存続の為に絶対必要な物に「尊厳」がある、という事なのです。

で、こういう訳の分からない話を長々としたところでもう一回事件のことについて考えましょう。ここで一つ知ってもらいたいのが、「尊厳」というのは他人からは全く分からないという事です。彼女はホームページの掲示板で「ぶりっこ」、「重い」等と言われ、深く尊厳を傷つけられました。言った側からしたらそれはごくありふれたからかいだったのでしょう、別にその事で被害者を攻める気は毛頭ありません。だってそういうからかいというのは「社会生活」においては絶対不可欠な物なのです、もしそれを怠ったら自分は疎外されてしまう。疎外なんて事は絶対避けたい・・・そう考えてみると被害者も自我を守るために必死で闘っていたのです。しかしそれは加害者だって同じ事、尊厳という物は先に述べたように自我の存続の為に絶対必要な物です。尊厳という物が最大限に傷つけられ、遂に無くなってしまった時は、多分人は自殺する以外に何も出来ることは無くなります・・・

しかし恐らく彼女が尊厳を傷つけられたのはこれは最初では無いでしょう、というか人は社会生活を営む限り、誰かに尊厳を傷つけられ、誰かの尊厳を傷つけるのです。彼女はここまでの行動を考える限りかなり頭の良い、早熟な女の子だったのでしょう。早熟ということは(感受性が他の子より発達しているというのもあれば)社会と外れているという事でもあるのです、そこから考えれば彼女は最も手っ取り早いからかいの対象になってたと考えるのが自然でしょう(もう一回言っておくと、「からかい」というのは社会生活に置いては絶対必要不可欠なことなのです)。彼女はその事にずっととても苦しんでいた、被害者の書き込みは、その苦しみを臨界点の一歩手前から臨界点に押し上げただけの事なのかも知れません。もしこれ以上尊厳を傷つけられれば尊厳は完全に破壊されてしまう、例え被害者の書き込みを取り除いたりしたってまた別のからかいが待っている、こんな状況(それはつまり「社会生活を営む」という事なんだけど)から抜け出すには一体何をすればいいのか・・・あなたは今回の事件の方法以外に「社会生活から抜け出す」方法を見つけられますか!俺は見つけられません!

さて、唐突ですがここで僕の私史を話させていただきます。皆さんもうお分かりの事でしょうが、僕も小さい頃「手っ取り早いからかいの対象」だったのです。ただ僕の場合は少女の年代より幼い時だったために、(自分で言うのも何ですが)早熟だったけれどそんな臨界点に達するまで尊厳は傷つけられませんでしたが、しかしそれにしたってかなり打ちのめされていたようです。親には「相手の親にきちんと言った方が良い」と言われたのですがそれをやるとさらに尊厳が傷つけられそうなのでそれは止めてもらい、先生に言ったって所詮「いじめ」ではなく「からかい」ですからそんな真剣に受け取って貰えず、更に言うとその頃僕はかなり(比喩ではない意味で)"汚く"、先生からは「やっぱりお前にも原因があるよな」と言われてました。確かにそれは事実だけれど、でも!

さてと、まぁここまでなら良くある話なのですが、実はこの話、僕はつい最近までまったく違う形で認識してました、それは「からかわれているんだけどそれを屁とも思わず買い言葉で刃向かい、親にもきちんと『からかわれてるんだから相手の親に相談するなり何とかして!』と主張する格好いい僕」という認識の仕方だったのです。そして親と思い出話をしてる時にふとその頃に話が行き、そこで僕が持っていた認識でその頃の思い出を話すと、親から「それは違うよ」と言われ、教えられた真実が上記のアレだったのです。

これがどういう事を示しているのかお分かりでしょうか?私はそれが「生きる」為に必須だったのかどうかは分かりませんが、一度その頃の記憶を持つ自我を殺し、新しい記憶による、新しい自我を作ってしまったのです!これは全くのルール違反で、僕は肉体の保護のために精神の自殺させたのです、それをやってしまったらもう「自我の存続」に意味は無くなります。私は無意味な生をする事になるのです(まぁ、無意味故に自殺する事も無くなるんだけど←生に意味が無くなったら死にも意味が無くなる。)。

しかし、おそらくこの種の事は誰でも無自覚に行うのでしょう、おそらくそれが行われるのは多くの人の場合青年期であり、その期を境に子供時代の記憶は「物語」になり、生は無意味となるのでしょう。多くの人はこれを「成長」と言います、しかしこれは明らかに自我への裏切りなのです。

そして、さらにこの自我への裏切りを皮切りに人は自分が社会生活をする上で犯す罪に無自覚になります、何せ自我は一回死んだのです、一回死んだ自我を今更他人が殺したってどうでも良い事じゃないか、そういう意識が、尊厳を傷つける行為が罪であることを隠すのです。

しかし、例え何回死んだとしても、「自我」を殺すことは罪なのです。例え一回死んだとしても次の一回を何とか長く生かそうとする、それが人が生きる上でのルールなのです。

ここまで言えばもうお分かりでしょう、あの事件の加害者の少女は贖罪を行ったのです。我々が自覚的にせよ無自覚的にせよ社会で生きている以上必ず行っている罪を、彼女は一手に背負い、罰(もちろん法律上の意味ではない)を受けたのです。

おそらく彼女はこの事を自覚していないでしょう、彼女はただ自我に誠実であらんとし、そのために罪を犯したので罰を受けた、それぐらいの認識でしょう。しかし、彼女の事件は確実に救いを我々にもたらしたのです!

P.S.この記事を書いているときにちょうど日本テレビで「名探偵コ○ン」がやっていて、「人を殺すなんて絶対にやっちゃけいないんだよ!」とか何とかガキ(年齢と言うより精神的に)がぎゃーぎゃー喚いていた。アニメに本気で殺気を抱いたのは久しぶりだ。

追記:2004/6/7-20:42
「1人で悩み、考えた」 加害女児、弁護士に
「悪口」再掲載で殺意 小6同級生殺害 補導女児 掲示板消去後に
 女児は、付添人弁護士との三日の面会でも「掲示板にいやなことを書かれ、やめてほしいと言ったが、やめてもらえなかった」と話した。
血まみれ、給食の教室に=加害女児、事件直後〓「わたしの血じゃない」許してくれ、それは本当はあなただけに押しつけてはいけない仕事の筈なんだ。なのに・・・ http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/sasebo_murder/

[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(2)「すまなかった」について

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
小6女児、切られ死亡=同級生少女、校舎内で〓涙ぐみ「すまなかった」・佐世保署時事通信社

同日夕、加害少女を補導し、佐世保児童相談所に通告した。女児は涙ぐみ「すまなかった」と話している。
■交換日記でもトラブル 加害女児 「会って謝りたい」 弁護士面会「精神鑑定は不要」 西日本新聞
加害女児が「御手洗さんには会って謝りたい。自分のお父さん、お母さんに迷惑をかけたことも謝りたい」と話している
これらの発言に対し「何で『済まない』と思うなら殺したんだ!」とか「会えるわけねーだろ、お前が殺したんだから(w」とかいう反応があったのでちょっと説明(というより「解釈」な気も。。。)してみる。

まず最初に聞いておきたいことがある。

「あなたは人を許したことがありますか?」

どうだろう?確かに僕は責任問題的な意味で人を許したことはあるが、心の中で、つまり心情的に人を許すという事は少なくとも僕の記憶の中にはない(ま、僕の記憶が信用できないのは前回の記事で述べたんだけど)。そりゃまぁそうだろう、責任問題的に人を許すならともかく、心情的に人を許したって憎しみを無くすエネルギーを浪費するだけで、得になることは(通常の場合は)何一つ無いのだから。

憎しみというのは確かに持っていたって気持ちの良い物ではないが、しかし憎しみを無くすのに費やすエネルギーから考えると気持ちの悪さもまぁ我慢できたりする(それに憎しみのエネルギーは上手く使えば結構良い結果を残すし)。何故なら憎しみを無くすというのはその憎しみの相手によって受けた自己の心理的損失(物理的損失は責任問題的な物だから除く)を諦めるという事ですからね、そしてその心理的損失の部分に代わりに入っていた憎しみを消し、そこを一時的にせよぽっかり穴が開いた状態にするという事、もちろんこれはとてもながーい歳月を掛ければ埋まる事は埋まるんだけど、それまでは常に自己の一部が欠けているという恐怖に耐えなければならない、そんな恐怖通常の状態じゃあ耐えられません。

しかし・・・もしこれが通常の状態じゃなけりゃどうだろう?つまり、自己が何らかのショックでボロボロになり、心の一部の喪失なんて物が気にならなくなったりしたら、その時初めて人は人を許せるのではないだろうか?逆に言えば、人は本当はとても激しいショックを受けた後以後でないと、人を許す事なんて出来ないのではないか?と思ったりするのだ。

この様な考えでいくと僕は彼女の気持ちが分かる気がする。彼女は(それが例え仕方が無かったことだとしても)殺人という自己の行為によって親友を失った。その行為の後の十数分間、彼女は何を考えたか。まずは安堵感だろう、これでやっとあの地獄のような「ニチジュウセイカツ」から逃れられるという安堵感。そしてそのちょっと経った後、彼女の頭の中にあった被害者からの「からかい」の思い出は消え、そして楽しかった思い出が蘇る、その途端彼女は大きなショックを受ける(何度も言うが、彼女は殺人を楽しむようなサイコな人間ではない、ただちょっと人より早熟なだけだったのだ、彼女は自我を守る為に事件を起こしたのであって、本当は殺人なんかしたくなかったのだ!)、彼女はその時になってやっと被害者を許すことが出来、そして「すまなかった」という言葉を発することが出来るようになったのだ。

以上のことから考えるとやはり僕はこのエントリーの冒頭に挙げた反応は当を得ていないと思う。彼女が被害者を許し、謝ることが出来たのはこの事件が起きたからなのだ、もしこの事件が起きなかったら彼女は一生被害者を許すことは出来なかっただろうし、もしかしたら遺書に被害者への恨みをつらつらと書いて自殺することになっていたのかも知れないのだ。(どちらが良いと考えるかは人によって違うと思うが、それを決めるのは加害者の少女であり、僕らでは絶対に無い) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040602-00000300-jij-soci