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2004-06-10


[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(4)"宗教教育"の崩壊

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
「命の重み」どう伝える 模索する教育現場神戸新聞

 長崎県佐世保市の小六女児事件は、日常で「死」が希薄な存在になる中、子どもたちに命の重みを伝えることの難しさを改めて社会に示した。兵庫県内の教育現場では、一九九七年の連続児童殺傷事件以後、子どもたちに命の重みを伝えようと模索が続く。現場の声に耳を傾けた。

(略)

 兵庫県教委は児童殺傷事件を受け、九八年から「生と死の教育」についての教員研修を始めた。毎年、約二十人の教師が参加。研修への参加動機を語り合い、子どもたちの死生観や指導方法について、議論を重ねた。問題意識は深まったものの、何をどう教えるか、明解な処方せんは見つからない。

 「死を突き詰めていくと宗教に至る。公教育は宗教に触れられない。教育行政で死の問題を取り扱うのは難しい」。研修プログラムの作製にあたった岡野幸弘・県教委高校教育課長はいう。
はっきり言おう、彼らの行為は無駄である。

そもそも彼らは一体どのような子供を"作り"たいと思っているのだろうか?僕は上記の文を見る限り「(精神的にせよ肉体的にせよ)自殺する子供」を作ろうとしているとしか思えない。

彼らは言う、「命の重みが伝われば、殺人事件なんて起こるはずが無い!」と、だがそれは全くの妄想であり、本当は「命の重さが分かるからこそ、人を殺す」のだ。

命の価値というのは(宗教などを除けば)結局の所「自我」を支えているという事の価値なのだ。つまり、まず最初に自我があり、そしてそれを支える物として自己の命があり、そしてその自己の命を手助けする物として、他者の命があるのだ。だから自己の命・自我を支えない他者の命に価値はなく*1、自己の命・自我を脅かす物には負の価値が与えられるのだ。

しかし彼ら教育者はそのような事を認めるわけにはいかない、だから今までの道徳は「宗教教育」に逃げてきた*2、宗教教育というのは簡単に言うと「価値観の押しつけ」である。「伝道師が『命には価値がある』と言ってるんだから命には価値があるんだよ!」という教育方法である。今の日本の「道徳」教育とはまさにこれである。そもそももし本当に「生徒に自主的に考えさせる」タイプの授業を行っているとすれば、最低でも十回に一回ぐらいは(教師から見て)「間違った結論」が出る道徳の時間があっても良いはずではないか。だが、少なくとも僕の記憶では「(教師から見て)間違ってるであろう結論」が出た道徳の授業は一回も無かった。何故ならもしそういう「間違った結論」が出そうになったら、必ず最後の5〓10分になると教師の演説が始まるからだ。「確かにみんなの話では○○という結論が出たけど、実際はこのような理由で××の結論なんだよ」こんな事を最後に演説して終わって、一体何が「生徒に自主的に考えさせる」授業だというのだろうか!?

しかしそのような宗教教育はもう崩壊した、何故なら宗教教育という物に必ず必要な条件が今の社会には無いからである。それは、、、情報隔離だ。

情報隔離とは文字の通り「情報から子供を隔離」する事だ、宗教教育というのはつまり自分で考えたわけではない単一の価値観を押しつける事であるから、自我を持ってる人間は皆当然嫌がります、しかし問題はそこで嫌がる人を情報的に閉じこめることが出来るかなのです。高度経済成長と共に子供は"気違い"に遭わなくなりました。気違いとはつまり世間とは別の価値観に生きる人の事、つまり子供はどこにいっても同じ価値観による情報しか受けられなくなってしまったのです。しょうがないから子供達は逃げることを諦め、宗教教育をおとなしく受け入れてきたのです。

しかしインターネットはその状況を一変しました。子供達は自宅の机に座っていながら気違いと接することが出来るようになったのです。そうなった時に、宗教教育から逃げ出さない理由が一体何処にあるのか?全く無いのである。

つまり、この高度情報化社会において子供に「平等な命の重さ」などを伝えることは全く不可能なのである。インターネットにより宗教教育は崩壊したのである。その後に残っているのは痛みを伴った、しかし何よりも尊い自我の苦悩なのです!

*1)ここで注意して欲しいのが、価値がないという事が即その人を殺すという行為に繋がらないという事だ。何故なら「生」に価値がないという事はつまり「死」にも価値がないという事、つまり生きてようが死んでようがどうでも良いという事なのである。殺人という行為に結びつくのは「負の価値」、なのであって「価値がない」事は殺人という行為に結びつかない。
*2)僕は別に宗教自体を批判しているのではなく、宗教教育を批判しているのであしからず。世の中には教育を伴わない宗教だって一杯あるのだから。。。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/0607ke32120.html