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2004-08-23


[異論]差別の裏にあるものは

「異質さの発見」ではなく「同質さの発見」である。

被害者には重さは変わらないGoing My Way

犯罪や事故が起きたとき、そこには加害者と被害者が存在します。被害者はいろんな場合があるけれども必ず損害を受けています。交通事故のようにお互い過失があるような場合は過失相殺するのはいいと思いますが、犯罪などの場合に責任能力の有無で被害者に補償がされないというのはおかしいと思います。
悪徳不動産屋の独り言: 障害者の明と暗
裁かれるのは「犯した行為」であって、やったことが犯罪なら、責任能力の有無に関係なく有罪とすべきで、その後に情状を酌量するなり保護処分にすべきもの、と常々考えている。
交通事故なんかでは被害者保護の観点から、加害者となる運転者がお酒を飲んで運転していても保険金が被害者に支払われます。それでも補償というのは金銭でするしかないので被害者としては納得できない点もたくさんあると思います。

普通の犯罪とかの場合、刑事と民事が違うというのはあるでしょうけれど、責任能力の有無で犯したことを重さが変わるわけではないと思います。被害者にとってなんの違いがあるでしょう?責任を取れない人に襲われたらあきらめろというのでしょうか。なんかおかしい気がします。民事で損害賠償の裁判を起こせばいいのでしょうけれど、刑事の方で不起訴とかになるとなんとなく変な感じがします。差別をしてはいけない世の中ならば、やった事の責任に関しても差別をしてはいけないような気がします。
障害者の明と暗悪徳不動産屋の独り言
うちのお店にも一般的に言う「障害」をお持ちのお客様がよくいらっしゃるようになった。
障害者の方はお話していてハッキリと二つのパターンに分かれる。「障害を現実のものとして受け止め前向きに人生を歩むタイプ」と、「陰に篭るタイプ」である。中間は無い。

数年前、重度の脳性小児麻痺で、電動車椅子に乗って、介助者と共に来店なさった30代半ばのOさんは前者のタイプだった。自分の意思を必死で伝えようとする様子は痛々しかったが、どうにか会話をすることができた。ボランティアの介助者も、必要最低限の助け舟しか出さず、「極力本人に任せている」とのことだった。傍からすれば、「これ以上の不幸は無い」、というような障害をお持ちなのに、前向きに生きているのが伝わってきて、私はとても感動した。介助の方が仰るには、「両親は病気になった我が子(Oさん)を捨ててしまって、今までずっと施設のお世話になっていましたが、本人の希望で独立することになりました。24時間体制で介助が付きますので家主さんにご迷惑をお掛けすることはありません」、とのこと。実の親に捨てられた、という想像を絶する体験と重度の障害を持ちながら、Oさんは必死になって全身の力を込めて私にこう言い切った。
「こんな身体になったことも、自分を捨てた親も、何も恨んでいない」、と。
いろんな不幸をお持ちのお客様に接してきた私も、しばらくは言葉が出なかった。

以前、Oさんと逆の意味で同じようなことを仰った障害者の方を思い出した。
もし、あなたが、「今、とても不幸で死ぬほど辛い」、と思っているなら、中村久子さんの「こころの手足」という本を是非読んで頂けたら、と思う。そうすれば、今の自分が抱えている悩みがどれ程チッポケなものか良く分かるだろう。あの三重苦のヘレン・ケラー女史をして、「私より不幸な人がいた」、と言わしめた女性である。私は読んで号泣した。
(中村久子さんに関してはこちらの補足説明が分かり易いかと思う)

一方で、「自分は障害者なのだから、これくらい許されて当然」、「周りが配慮して当たり前」、という人にも出会う。こちらは心底悲しいタイプである。たいていは、「健常者には障害者の気持ちなんて分かりっこない」、と決め付けてくる。そう言われてしまえば、健常者は「いえ分かります」とは言えないものだから、そういう発言は極めて卑怯である。文字通り、本当の「障害者」である。

以前も述べたことだが、刑事事件の裁判で、責任能力の有無を判断するための「精神鑑定」が取り沙汰されることがあるが、私は全くナンセンスだと思っている。裁かれるのは「犯した行為」であって、やったことが犯罪なら、責任能力の有無に関係なく有罪とすべきで、その後に情状を酌量するなり保護処分にすべきもの、と常々考えている。だから私は仕事の上でも、障害者であっても健常者であっても全く同じ対応をする。ただ部屋探しの条件が少しだけ変わってくるだけの話である。むしろこちらが、「障害者だから」、と何か特別な対応をすることは障害者の方に失礼になる、とさえ思っている。障害があることを逆手に取る障害者には、丁重に他の店に行かれることをお勧めしている。

私が相手をしたくないのは、「障害者」の人ではなく、「自分は障害者だから」という人である。実は私は、「体が不自由でいらっしゃる方」を障害者とは思っていない。障害者かどうかは、外観や身体の不具ではなく、「心の在り方」で決まると思う。言い換えるなら、五体満足な身体を持ち合わせている健常者の中にも「障害者」は5マンといるのだ。
そういう意味で言えば、私自身もまた、ある意味「障害者」なのかも知れない。

私は、国籍や、肌の色や、障害の有無でお客さんを差別したことは決して無いし平等に接してもいるが、「陰に篭るタイプ」の人が来店すると相手にはしない。そもそも「感謝する気持ち」が無い訳で、下手をすると責任転嫁されることも有って、そういう人を相手にしても仕事の達成感が得られないからだ。これは、私にとっては収入より大切なものだ。

その後、Oさんとは街でよくすれ違う。自分で電動車椅子を操作するのに手一杯のご様子なのでお声は掛けないが、今も元気でいらっしゃるようで、会う度にホッとしている。
実に「正しい」意見である。このような意見が世の中で共通認識となれば社会は僕以外にとってはとても生き易くなるでしょうね・・・

最初に言っておくと僕は悪徳不動産屋の独り言の言うところのチッポケな悩みを持っている人間です。だから多分僕の言うことは全く意味不明でしょうし、それこそ相手にしなくても僕は一向にかまいません。ただ世の中にはこんな気狂いで馬鹿らしい意見を持つ人も居るんだなと、怖がってくれれば良いです。

さて、上記の文章では「健常者には障害者の気持ちなんて分かりっこない」という言葉が出てくる。これを悪徳不動産屋の独り言は卑怯であるとして、そのような事を言う人とは仕事をしたくないと言っている。僕は別に「お客様は神様だ」みたいな思想を持ってないから、一緒に仕事をするのが嫌だったら例え客であろうと断っても良いと思う。

だがしかし、だからといってそのような事が間違っているかというと、僕は違うと思うのだ。健常者には障害者の気持ちなんて分かりっこないという言葉は真実であり、だからこそ人々から忌み嫌われてしまうのが分かっているのにも関わらず、ごく一部の誠実な人はそのような事を口走ってしまうのだ。

もちろんだからといって障害者が障害者の事が分かるということでもない。障害者も他の障害者の気持ちは分からないし、さらに言えば健常者も他の健常者の気持ちは分からないのだ。つまり分かりやすく言ってしまうと人は他人の気持ちは分からないというごく当たり前の結論となる。では何故、ごく当たり前の結論にも関わらずそれを言う人は忌み嫌われるのだろうか?

ここでちょっと差別ということについて考えてみよう。差別というものは差別をする人の視点に立って考えると「世の中の人をある特徴(例えば「身長」とか「美貌」とか「病気」とかの事。)によって二つに分け、自分と同じ特徴を持つ人を優遇し、違う特徴を持つ人を蔑視する」ということだろう。そして多くの人は差別を生み出す原因として「自分と異なる者への恐怖・不理解」と考えている。

しかし本当にそうだろうか?例えば「民族による差別」について考えてもらいたい。例えば―生まれたばかりの朝鮮の赤ん坊と日本の赤ん坊を比べたとき、どちらが朝鮮民族でどちらが日本民族か見分けられるだろうか?殆どの場合見分けられないだろう。民族というものは生まれたときの性質ではない、教育によって作られるものなのだ。

けどそうなると疑問が一つ生まれる。何故民族などという差別の温床となるものが教育によって作られるのか?答えは明白だ、国家という組織の維持のためである。組織というものは対外的にはとても強いシステムだが、内部の反乱に対してはとても弱い。民族という差別が作られた理由、それは人の内部反乱を恐れる心だったのだ。

そしてこれは民族だけではなく他の差別にも言える。差別というのは「自分と異なる者への恐怖・不理解」から生まれるのではない。「自分と他人の同一性を確かめたい」、「他人が自分たちに歯向かわないようにしたい」という同一性に対する欲求から生まれるのだ。

さて、ここで再び上記の引用文を見てみよう。私は、国籍や、肌の色や、障害の有無でお客さんを差別したことは決して無いし平等に接してもいるが、「陰に篭るタイプ」の人が来店すると相手にはしない。そもそも「感謝する気持ち」が無い訳で、下手をすると責任転嫁されることも有って、そういう人を相手にしても仕事の達成感が得られないからだ。これは、私にとっては収入より大切なものだ。と書いてある。だがしかし、感謝する気持ちを持っていることと「感謝する気持ちを持っている」風な態度をとる事はイコールではない、感謝する気持ちを持っていても感謝していることを示さない人も居るし、(こちらの方が重要なことだが)感謝する気持ちを持っていないにも関わらず感謝している態度を示す事もある。さらにもっともっと深く考えれば、その客と自分との間で「感謝」の意味そのものが違うことだって十分あり得るのだ。

だがそのような事が分かっていたとしても、多分彼は「感謝する気持ち」を他人に表してくれるよう望むのを止めはしないだろう。何故ならそれは同一ではないにも関わらず同一で有ることを幻想する為に絶対不可欠な物だからだ。そしてそれ故に「健常者には障害者の気持ちなんて分かりっこない」という言葉は忌み嫌われる。何故ならそれは真実であるが故に、幻想を暴いてしまうからだ。

しかしそうなると(「またかい」とお思いかも知れないが)更に疑問が出てくる。何故そのような幻想を暴く真実を悪徳不動産屋の独り言が言う陰に篭るタイプは言ってしまうのか?それこそ単純に考えたらその様な言葉を言わずに幻想の中で上手に前向きに人生を歩く方が楽に見える。だが陰に篭るタイプ(と他人事の様に言うが僕だってどちらかと言えば陰に篭るタイプだ、別に障害者では無いが・・・)は何故そちらの方に進めないのだろうか?

この問いに対する答はよく分からない。だがこの文についてどう考えるかが1つの手がかりになると思う。「もし、あなたが、「今、とても不幸で死ぬほど辛い」、と思っているなら、中村久子さんの「こころの手足」という本を是非読んで頂けたら、と思う。そうすれば、今の自分が抱えている悩みがどれ程チッポケなものか良く分かるだろう。あの三重苦のヘレン・ケラー女史をして、「私より不幸な人がいた」、と言わしめた女性である。私は読んで号泣した。」この文を見て「ああそうだなぁ、こんなに酷い境遇に遭ってまで前向きに生きていこうとする人が居るんだから、私も頑張らなくちゃ!」と思うのが正しい反応なのだろう。だが陰に篭るタイプは絶対にそんな反応は出来ない。この言説に対して(形而上か形而下に関わらず)何か違和感や反発を覚えてしまうのが陰に篭るタイプなのだ。

この違和感はつまりこういう事だ―確かにその中村久子とやらは凄い辛い境遇に居たにも関わらず前向きに進みましたね、でもそれが何だって言うんです?僕は中村久子ではないし、中村久子は僕では無いのだから、2つを比較することなど不可能だ。大体中村久子の様な生き方が正しくて、陰に篭る生き方が間違っているなんて事はあなたの価値観であり、僕の価値観では無いのだから―と、僕の言葉で表せばこうなる。

しかしこのような考えは社会ではタブーとされている。何故ならこの社会を流れる基本的ルールとしての平等は、「私がもしかしたらあなたにになるかも知れないし、あなたがもしかしたら私になるかも知れない」という神話を元に成り立っているからだ。もちろん最初からこの神話があった訳ではない、最初は平等とは絶え間なき闘争によって被差別者から差別者に突きつけられる「俺達をおまえら以上の待遇にしろ!」という要求だった。だがしかしその要求をそのまま認める訳にはいかない、何故ならそれを行えば差別者が被差別者に転落し、また同じ事が繰り返されてしまうからだ(僕なんかは何回も同じ事繰り返してる方が、神話の捏造より良いと思うのだが)。その為に「私がもしかしたらあなたにになるかも知れないし、あなたがもしかしたら私になるかも知れない」という神話が作られ、そしてそれを元に社会的な政策や思想が決定されるようになったのだ。

それ故陰に篭るタイプは社会から認識外とされた。以前NWatchの方で障害者観という物についてちょっと考えてみた事があるのですが、障害者観(そもそも障害者観という物自体おかしな物なのですが)というのは色々あれど、陰に篭るタイプはどの障害者観でも否定されてきた。僕なんかはやっぱりそれはおかしいと思うんですけどねぇ、何か酷い扱い(それが社会的に「酷い扱い」と定義される・されないに関わらず)を受けたなら、その酷い扱いをした人を憎むのは極めて当たり前の事だし、むしろ憎まない人の方が僕は気持ち悪い。自分でそういう風に生きるのは勝手だけど、その事を人に押しつけるのは絶対止めるべきだと思うのです・・・

さて、ここでちょっと話を変えて責任能力について考えてみましょう。上記で引用した文では責任能力について以下の様な形で疑問を投げかけています。「裁かれるのは「犯した行為」であって、やったことが犯罪なら、責任能力の有無に関係なく有罪とすべきで、その後に情状を酌量するなり保護処分にすべきもの、と常々考えている。」、「普通の犯罪とかの場合、刑事と民事が違うというのはあるでしょうけれど、責任能力の有無で犯したことを重さが変わるわけではないと思います。被害者にとってなんの違いがあるでしょう?責任を取れない人に襲われたらあきらめろというのでしょうか。なんかおかしい気がします。民事で損害賠償の裁判を起こせばいいのでしょうけれど、刑事の方で不起訴とかになるとなんとなく変な感じがします。差別をしてはいけない世の中ならば、やった事の責任に関しても差別をしてはいけないような気がします。」と。

この文は確かにメディアの情報操作によって殊更に精神障害者の犯罪がクローズアップされ、それにより恐怖が煽り立てられたイッパンシミンには絶大な支持を受ける文でしょう。しかし冷静になって考えてみればこれほどおかしな文もないのですけどねぇ・・・

例えば責任能力の有無で犯したことを重さが変わるわけではないと思います。被害者にとってなんの違いがあるでしょう?という文。これを単純に解釈すれば「加害者に関係なく、被害者の気持ちで罪を決めるべき」という、、、言ってみれば仇討ちと同じ事を述べてるんですね、いや別に僕は仇討ち自体を否定して居るんじゃありませんよ?僕は呉智英氏のファンですし、ただそれを近代民主主義国家のシステムとしてやろうとしている所に、無知の怖さを感じてしまうんですなぁ。

まず近代民主主義国家というのは自由意志という物を前提においているんですね。自由意志というのは簡単に言えば「他から制約されず自発的な決定に基づく意志。」の事です。ま、その様な意志が本当に存在しているかは大いに疑わしい所なんですが、とにかく司法の世界はその様な意志が存在するという前提で動いています。

で、その自由意志がどのように働いているかというと、簡単に言うと犯罪時に自由意志で動いていたもしくは自由意志によって自由意志を停止させた(と裁判長が認識した)人間に対しては責任能力有りとみなして有罪とし、犯罪時に自由意志以外の何かによって自由意志を停止され、自由意志で動いていなかった人間を責任能力無しとして無罪とするのです。

何故このような判別を行うのか?それは先ほども出てきた「私がもしかしたらあなたにになるかも知れないし、あなたがもしかしたら私になるかも知れない」という平等テーゼの為です。もしかしたら自分が何かによって自由意志を停止させられるかも知れない、そんなとき自分が自由意志で行ったわけじゃないのに罰せられるのはおかしい!だから責任能力無し、つまり犯罪時に自由意志以外の何かによって自由意志を停止され、自由意志で動いていなかった人間を無罪にするのです。そしてこの責任能力による判別を否定するためには「私がもしかしたらあなたにになるかも知れないし、あなたがもしかしたら私になるかも知れない」という平等テーゼの否定と、自由意志の否定、そして近代国家の否定へと進まなければならないんです。それをすっ飛ばしてただ「精神障害者もきちんと罰しろ!」と言ったってそれは無理なことなのですよ。

ちょっと蛇足を挟むと、現在の精神障害診断には上記に掲げた意味の他に別の意味も潜んでいます。それは「異常な人々と我々の違いを作り上げる」というものです。最近の殺人事件の傾向として犯罪者がごく普通の市民であるという特徴があります。これだけ普通の市民が増えればそれはそれで当たり前の事だと僕は思うのですが、しかし多くの良識ある人びとはそれを認めたくありませんでした。何故なら、1975年位までの日本には階級があったため、例え殺人事件が百件あったとしても自分と同じ階級(=自分ももしかしたら被害者が加害者になるかもしれなかった件数)の人の犯罪は単純計算で三十三件と、とても少ないと錯覚できたんです。。しかし国民総中流化が進むと、例えば殺人事件が百件起こったら自分ももしかしたら被害者か加害者になるかもしれなかった件数も百件となる。三十三件だったらまあまあ無視出来たかも知れませんが百件となると「自分ももしかしたら被害者か加害者になるかもしれない」という恐怖が現実味を持ってくる。そしてその恐怖に対応するために精神障害の診断、つまり精神鑑定が利用されるようになったのです。

何故なら精神鑑定によって犯罪者を病人とすれば、そこで一応犯罪者と自分の間で線引きが引けるからです(自分が病人で無いというのは根拠のない神話の中でも結構強固な物ですからね)。自分は多重人格ではないし分裂症でも無い普通の人間だ、だから大丈夫という根拠がないにしろ結構強度がある神話を作るために、精神鑑定は利用されてるという側面もあるのです。引用先の記事のコメント欄に
無差別殺人なんかは、たしかに、弱い所や人ばかり襲っていますよね。それでいて、「責任能力なし」は無いものです。
というコメントがありますが、しかし実際は無差別殺人のような犯罪ほど精神鑑定が必要とされていたりもするのです。

確かに、憎しみや恨みや嫉妬みたいな「」の感情というのは、その定義上世間から忌み嫌われなければいけない物なのでしょう。しかしそれを受け入れるかはねつけるかを考えるのはその感情の持ち主に委ねるべきことなのです。そしてもしその持ち主が陰の感情を受け入れたとしても、それを矯正することなど出来やしません。確かに別にその持ち主を拒否することは自由です。しかし一方で、その拒否はまた一方で新しい憎しみを作っているかも知れないのです・・・

そしてその陰の感情はやがて爆発し、凶行へと至るのかもしれない。そして優しい平等主義者はその優しさで異質な物に対し我々の同質性を守るために罰を与えるのでしょう。「差別をしてはいけない世の中ならば、やった事の責任に関しても差別をしてはいけない」という言葉の元にね。 http://kengo.preston-net.com/archives/001487.shtml