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2004-11-15


[思想]リアルの反芻とアンリアルとの戯れと無としての自己

現実的な恋愛ストーリーが人気の秘訣!?10代はこんな「マンガ」を読んでいるシブヤ経済新聞より

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今も昔も、マンガは10代にとって日常的でメジャーなエンタテインメントだ。ただ、早くから社会のいろいろな局面と対峙し、圧倒的な情報量の中で暮らす現代の10代には、どんなストーリーが受け容れられているのだろうか。渋谷の高校生を中心に人気の傾向を追った。

(略)

マンガを購入する10代の動向について「以前のマンガファンと言えば、人気作品は発売日をチェックして当日に購入する人がほとんどだった。しかし現在は、発売日から1週間~10日間は多くて50~100冊が売れ続けるという傾向にある」と横須賀さん。昔は発売日を心待ちにして来店する客が多かったのに比べ、現在は「行き当たりばったり」的に購入する子が多いそうだ。こうした現象の背景について、横須賀さんは「現代の女子高生は特に、口コミ効果による行動が目立つ。誰かが読んで面白かったと話すと、連鎖反応で購入客が続くという現象が起こりやすいのでは」と推察する。どうやらマンガを購入する10代には、それほど一生懸命なファンじゃないけれども「話題になっているから読んでおこう」という意識が強いようだ。

(略)

中には少年マンガを好む女子高生もいるが、アイ・エヌ・ジーが調査対象とするギャル系の女子高生は圧倒的に「少女マンガ派」が多い。その理由について、中山さんは「設定が架空の世界であることが目立つ少年マンガに比べて、少女マンガは非常に現実的。『ありそう』な設定こそ、ギャル系の女子高生に人気を集める要因ではないか」と推察する。高校生の男女を比べると、一般的に女子の方が現実的で精神年齢が高いと言われている。マンガの好みから言っても、 10代は男子より女子の方が「現実的」と言えそうだ。

(略)

マンガは今も昔も変わらず、10代にとっての娯楽としてウエイトを大きい。しかし、今の10代は昔に比べてサクセスストーリーやシンデレラストーリーよりも、主人公が困難な状況で苦悩する現実的なストーリーに共感するようだ。マンガにも「リアリティ」を求め、ありそうにないストーリーには共感できないなど、現実的な10代の性質がマンガの嗜好性にも反映されているようだ。

という訳で、最近の若者ははそんな感じらしいです。ただ↓はちょっと・・・
マンガを好きな理由については、男女共に「小説よりも簡単に読める」「絵と文字と両方楽しめる」「感動したり(マンガの世界に)引き込まれたりする」といった意見が多かった。手軽に楽しめる娯楽性がメリットだということだろう。しかし中には「出てくる言葉とか、ためになる知識が得られる」「想像力を働かせるし、漢字が読めるようになる」といったメリットを挙げる子もいた。
それは小学生の意見だろう・・・

共感と「共感」

で、今回話したいのはそんな事じゃないんです。上のページでは、少女たちの間で「リアル」な少女漫画が流行っているということを言っていて、その理由として「共感」という動機を指摘している訳ですが、しかし僕はそこにある「共感」という気持ちがどうも僕の中の共感とは違う意味なんじゃ無いかと感じる訳なんです。

確かに僕だって漫画を楽しむとき共感というのは重要なファクターになっています。まぁ中には全く共感出来ないキャラクターばかりなのに何故か好きな漫画というのももちろんありますが、それは極少数と言って良いでしょう。

しかし、そこで僕が思う共感というのはつまり「もしその漫画のキャラクターと同じ状況に自分が置かれたとして、自分はそのキャラクターと同じ行動をとるかどうか?」という意味での共感な訳です。ですから状況設定に於けるリアリティは必ずしも共感出来るかどうかに関係しない、例えどんなに突飛な状況であってもそこに於けるキャラクターの動きが僕の中の道理(*1)と合致していれば、僕は共感する訳です。

ところが彼女らの言う「共感」とはつまりそういう事ではなく、単純に「自分の経験と同じ行動(*2)をしているかどうか?」という考えをし、そして自分の経験内にその漫画の登場人物の行動もしくはそれに似たものが有った場合に「共感」が生じ、無かった場合には共感は生じない。「もしも・・・」というのを考えない訳です。

この理由を考える前にちょっと寄り道をして、渋谷にいる様な若者と双璧をなすもう一つの若者たち、所謂オタクについて考えてみましょう。

「引き込まれない」誇り?

逆にマンガのデメリットについて聞いてみると、「続きが気になって授業中に読んじゃう」(マイカちゃん・高1)、「マンガにはまってしまうと根暗になりそう」(ミヅキちゃん・高2)、「マンガで起こっているような出来事を自分でもできると勘違いする奴がいる」(ヨウタくん・高3)などという意見が聞かれた。
多分「根暗」というのはオタクを暗に指しているのでしょう。しかし実際のところはオタクには明るい人もかなり居る、むしろ最近は「明るいオタク」の方が多いんですがね(*3)。ま、それはともかく、オタクというのは普通の人と比べてマンガにはまっているというのは確かに正しいでしょう。

しかし「マンガをたくさん読む」=「マンガにはまる」というのは実は成り立ちません。渋谷にいる様な若者が幾らマンガを読んでもそれは多分「マンガ好きな人」で終わり、オタクになることはありません。何故ならそもそもオタクと渋谷の若者では、マンガの楽しみ方の方向が違うからです。

どういう事か?そもそもオタクは共感(もしくは「共感」)する為にマンガを読む訳では無いのです。というか彼らはマンガを「読む」というより「観察」します。その作品を分解し、それぞれの要素及びその要素の組み合わせ方を見て、そして頭の中にある今までの記憶と照合し、似た様なものがあれば楽しい(*4)と思い、違うものが有れば(*5)驚き自分の記憶の中に入れる訳です。(これが種本です。すみませんねぇ頭の引き出しが小さくて・・・">*6)

その様な方法でマンガを楽しむ為、彼らは共感はしません。むしろまる作品のキャラクターに共感することは、冷静に「観察」が出来なくなる為、「オタク的ではない」=「恥」と見なされるのです。例えば2ちゃんねるのマンガのスレッドにおいては、そのスレッドで話題になっているマンガに登場するキャラクターの熱狂的なファンはアンチと同じくらい嫌われ、その作品の良いところ悪いところを「冷静に」批評できる人が好まれます。つまり、彼らオタクはマンガというジャンルにはまることはあれど、作品については「引き込まれない」ということにある種の誇りを持っていたりするのです。

記憶幻想

さて、ここまで僕は渋谷の若者たちとオタク、それぞれのマンガの楽しみ方についてかなーり強引に考えてきた訳なのですが、もう分かっている人も居るでしょう(*7)。実はこの二つの種族(*8)の楽しみ方は、確かにかなり異なった楽しみ方なのですが、しかし「記憶(経験)」によってマンガの面白さを規定するという所では共通しているのです。そしてそれこそが、僕と彼らの間の違いを一番表していると思うのです。

人間のアイデンティティ形成に於いて記憶というのはとても重要な組成材料です、確かに他にも肉体能力や性格などでもアイデンティティは形成されますが、しかし現代社会は一部のスポーツ選手や技能労働者を除けば殆どが特殊な肉体能力を必要としない(*9)仕事・趣味をしており、肉体能力によるアイデンティティ形成はあまりされませんし(*10)、そもそも肉体能力や性格というのはそんなに多様性はありません。だからもし肉体能力や性格だけがあっても記憶が無ければ他者との差別化が図れず、「わたしが死んでも代わりはいるもの」なーんて事になってしまうでしょう((ここの種本はこれAmazon

)だ!(わ))。

だから人は記憶によってアイデンティティを形成する。しかし実際、私たちの記憶ってそんなに多様性があるものなのでしょうか?

そりゃまぁそれぞれ生きた場所は違いますし、違う学校に進学し、違う会社に就職しています。だけれど、それによって何か違いはあるのか?例えば埼玉のさいたま小学校で小学校生活を送り、さいたま中学校、さいたま高校に行ったAさんと、茨城県のつくば小学校に行って、つくば中学校、つくば高校に行ったBさんの記憶に本質的な違いはあるのか?(*11)何処に行っても同じ番組が見れ、同じゲームを買い、同じ教育課程を受けているのに、そんな大きな違いがあるのでしょうか?

無いとしか言えないでしょう。(*12)つまり現代に於いては記憶すらもアイデンティティの組成材料とはなりえず、ただ自己をいたずらに満たすだけのものでしかないのです。

リアルの反芻とアンリアルとの戯れ

自己をいたずらに満たすだけのものとしての「記憶」、それは確かに自己を満たすという機能だけは持っていますが、アイデンティティになり得ない限り決してそれ以上の機能は望めず、それ故その記憶は「そこに存在する」という、今にも消えてしまいそうな極めて希薄な意味しか持つ事が出来ないのです。しかしもしその記憶が消えてしまったら自己が満たされなくなる。その為現代に生きる私たちはその「そこに存在する」という限りなく希薄な意味を絶えず補強しなければならないのです。そしてその為のツールとして、今マンガは使われているのでは無いでしょうか?

先に僕は「リアルな少女マンガ」に渋谷の若者は何を求めているのか、そして、オタク達はマンガに何を求めているのかについて「自分の『経験』、『記憶』に合致するもの(*13)」を求めているという事を言いました。では何故彼らはその様なものを求めるのか?その理由は、実は大変希薄なものでしかない「経験」、「記憶」を、そこに存在する事を何度も何度も確かめる事によってかろうじて存立させる為だったのです。

もちろんここで言うオタクの「記憶」というのは仮想的な記憶な訳なのですが、しかし仮想的で有る事は確かにそれでアイデンティティを形成しようとすればオウムみたいな悲惨な目に遭いますが、しかしアイデンティティさえ形成しなければ、つまり「ただ存在する」という意味に於いてのみ作動するならば、仮想と現実の記憶の差なんかそんな有意なものではなくなるでしょう。

で、おまいはどうなのよ?

さて、ここまで随分とえらそーな事を言ってきましたが、この文をごらんのみなさんはこう思っていられる事でしょう。「じゃあお前はどうなんだ?お前は自己のアイデンティティを存立させられる程他の人と違う『記憶』を持っているのか?」と。もちろんそんな事はありません。僕は本当にごく普通の少年・青年時代をこれまで送ってきた・・・らしいのです。別に「全く多様性の無い若者はこれだから・・・ま、僕は関係ないけど」なんて思ってません。本当だってば!しかし自分の場合はちょっと話が特殊になってくるのです。

僕は確かにマンガを読んでいるとき「もしもそのキャラクターと同じ状況だったら・・・」という事を推測して読んでいる訳なのですが、しかしその推測を本当に突き詰めて考えてみると、じつはどうもおかしな事になるのです。つまり簡単に言うと「推測の根拠がない」。

例えば「巨大ロボットに乗らなくてはならなくて葛藤する青年」(*14)なんてキャラクターに僕は共感する訳なのですが、しかし実際のところ、そんなキャラクターに共感する根拠は何処にも無い訳なのです。「もしもそんな状況に置かれたらどうする?」と聞かれれば迷い無く「葛藤する!」(*15)と答えるでしょうが、「じゃあその根拠は?」と聞かれると答えに窮してしまう訳なのです。

しかし例え根拠が無かったとしても僕はその様なキャラクターに共感し、そのキャラクターが出てくる作品の熱狂的なファンなのです。その作品への批判は例え正当なものでは嫌なのです、これは一体何なのか?

「おめーが幼稚なんだよ」。おっしゃる通りです、しかし例え幼稚と言われようが僕はどうしてもこうしたいのです。これは僕が自己分析するに、「何もない自己の周りに壁が存在し、その壁が記憶を含めたあらゆる物の侵入を拒んでいる」という事では無いでしょうか。

無としての自己、有としての世界

以前から僕のBLOGを見てる人なら分かると思いますが、僕は割と一貫して「自我」の大切さを訴えてきました。「自我を侵略されたら命を掛けて守れ!」、「自我を侵略する世界なんて糞くらえ!」と。しかし実際自我という物について聞かれれば、何かごまくらかす様な発言しか出てこなかったのもまた事なのです。当たり前でしょう、そもそも「自我」なんてものは無いんですから。(*16)

僕がこのような事に気付いた経緯は省略しますが(ここを見て勝手に妄想して下さい">*17)、とにかく気付いた。しかし気付いた途端僕はまた重要な問題を見つけてしまうのです。「じゃあ僕は今まで何をしてきたんだ?」と。何故なら僕は今まで自分の行動を全て自我というイデオローグによって正当化してきたからです。もし自我が無いことを認めれば、私は今までの行動を殆ど否定しなければならない。もしそれが本当に正しい事なら僕はそうしたでしょう。だけれど僕はそれは出来なかった。ならば何か考えなければならない。しかし何も思い浮かばない・・・その繰り返しをずっとしていたのです。

そこで僕はふと気付きました。「確かに私という存在には何も無い。だけれど、その『何もない』という事を守るという使命を、実は何処かの世界とは違う、本当の自我を持った第三者が与えているのではないか!」と。

いやぁ、宗教ってこういう風に生まれるんだなと思いました。実際その考えを思いついたのはゾンビ映画を見ている時だったし(*18)、「本当の自我を持った第三者」って結局は神の事(*19)じゃないのか!?とも思うし。何より自分を無として捉えるなんて、自分を「透明な存在」と捉えたアイツと限りなく近いじゃねーか、何年遅れてんだ・・・

しかしとりあえず今の僕のよりどころとしてはこの思想、というか宗教しか拠り所が無いんですな・・・で、その宗教に基づいて僕はマンガのキャラクターに根拠もなく共感したりする訳なのです。

しかし思索の結果が結局アイツと同じというのはちょっとショックだなぁ・・・よく考えるとアイツと僕の主張ってそんなに変わらないんだよな、ただ僕は言行不一致で彼は言行一致な訳で。しかし何とかならねぇかなぁ。。。


*1: なおここにおける「僕の中の道理」とは認知下の道理ではないのでご注意を。つまり神様の目から僕の行動・心理を分析して導き出した僕の行動原理です。だからその視点に置いては「道理に合わない行為」は存在しない訳ですね。

*2: マンガ内の吹き出しとかで表現される心の動きも行動に含めます。

*3: ただ僕は割とそういう人は苦手なんだけど・・・

*4: その時の楽しみは「萌え」とかで表現される

*5: ま、最近はそういう体験は殆ど無いらしいが

*6: 分かる人には分かるだろうがこの辺の文はもちろんこれが種本です。すみませんねぇ頭の引き出しが小さくて・・・

*7: 別に分かってなくても良いですよ

*8: これ以外の言い方が思いつかなかった・・・ボキャブラリーが貧困だなぁ

*9: =使わない

*10: 一部禿とかデブしか負の肉体能力によるアイデンティティ形成も残っているには残っているけど

*11: 「さいたま」とか「つくば」とかっていうのは特に意味はありません、というか意味がない地名だからこそ選んだんですけどね

*12: そもそも経験=リアルが多様性を持つなら「渋谷の若者で大人気のリアルな少女マンガ」という文は生まれないですし

*13: オタクの場合は一方で「経験に無いもの」も求めているんだけど、それはつまり「経験があるもの」の裏返しなわけで、経験がアイデンティティとならない限りは結局「経験」の補強としかならないでしょう。

*14: 古典的だなぁ・・・

*15: "迷い無く「葛藤する!」"って何かおかしい気がするが・・・

*16: ここの発言、昔からの読者には注目して欲しい・・・

*17: どうしても知りたい人はここを見て勝手に妄想して下さい

*18: 本当に発想が貧困だなぁ・・・

*19: こらそこっ、「バイオモドキ」とか言うな!