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2004-11-19


[物語について]悲劇の処方箋

悲劇には2種類ある、「偶有的悲劇」と「必然的悲劇」だ。さて、人間の人生とは、一体どちらに入るのだろう?

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あなたは「悲劇」好きですか?僕はどうも小さい頃から悲劇は苦手です。だから僕は悲劇を見たら、それを何とか悲劇にならないで済む方法を考え、そしてそれが作品世界に上手く適合する様に色々と考えてしまうんです。

もちろんそこで悲劇は苦手だが敢えて受け入れ、そしてそれを悲劇として悲しむというのが正しい作品の鑑賞方法でしょう。しかし一言言い訳を言わせていただけば、その様な正しい鑑賞方法をする為には「作者の意志」を尊重するという倫理が必要な訳ですが、果たしてその倫理は現在においてどれほどの根拠を保て得るか?僕は疑問に思えてなりません。

どういう事なのか?確かに近代的な自我あると仮定して考えれば、作家が表す個々の作品というのは自我の表出であるからして、それを鑑賞者の都合で勝手に変えるというのはその作家の自我否定に繋がってしまう。だから駄目という倫理が成り立つでしょう。しかし前回の記事でも言った様にそもそも私たちは自我を構成できるほどの材料を心の内に持って居ないのです。そしてそれ故自分の自我が認知出来ない限り他者の自我もまた認知不可能であるのです。よって前項の倫理はその根拠を失ってしまうでしょう。

具体例を挙げて説明しましょう。例えば現代の一人の作家が小説でも詩でもマンガでもアニメでも何でも良いです。何か作品を作ろうとしたとき、果たしてそこに自我と呼べるほど個別性が有る物を入れる事が出来るのか?これは別の言葉で言えば「何も他の物からパクらずに、作品を作る事が出来るか?」という問題です。もちろん熱烈な近代自我論者だったら「出来る」と答えるでしょう、現にその考え方から近代日本では「私小説」というものが作り出されたそうです。しかし僕はそう答える事は出来ません。どんな作品だって結局は過去の物の組み合わせであり、そこに個別性は、突き詰めて考えていくと「無い」でしょう。

でもまぁここには一つ逃げ道があって、「自我はある、だが作品には表せない!何故ならそもそも作品という物自体自我と対立している世界のツールを使って描かれるものだからだ。」という、「自我はあるが、それを表層する事は出来ない」という論理も有る事にはあります。現に僕は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(12)借り物の言葉という記事でそんな事を話しました。しかしこれもよく考えてみるとおかしな話で、例え自我があったとしてもそれが現れる段階で全て自我とは別の物となってしまうのなら、果たしてどのような影響を自我は現実に及ぼし得るのか?もし及ぼし得ないとしたら、その様な自我の存在理由は消滅してしまい、そして理由の消滅により存在自体も消滅してしまうのではないか?という、また新たな疑問、というより反論が残ります。(*1)

話がずれました、元に戻しましょう。以上の様な理由から、私は「作者の意志を尊重して、悲劇を悲劇として受け入れる」という倫理は既に根拠を失ったと考えます。そしてそれ故に、僕は悲劇の悲劇性を中和するのです。しかしそこで作者から提示された作品の内容と矛盾する様な改変を行えば、幾らそれが悲劇性を消滅させるとしても僕はそれを採用する事は出来ないでしょう。何故なら矛盾を矛盾として受け入れるには矛盾を許さない論理世界以外の別の、論理に匹敵するほど超越的な物を見出さなければなりませんが、現在の所それはまだ痕跡は見つかるものの、発見は出来てはいないと思うからです。

よって僕は矛盾を無くしながら作品を中和していきます。その場合重要なのは作品の表と裏を把握する事です。表とはまさに作品に描かれている部分で、作品の裏とはつまり作者の「こういう事があれば絶対にこうなんだろうから、それは描かなくても大丈夫だろう」という作者の思いこみの部分(*2)です。そして悲劇が悲劇たる所以は、実は裏にあるのです。

何故ならこの「裏」の部分には、作品の根幹の部分をなす様々な思想が流れている訳なのですが(*3)、ここに作品を悲劇作品として成立させている所以の思想があるからです。

その思想には二つのタイプがありまして、一つは「偶有的悲劇」という思想であり、そしてもう一つは「必然的悲劇」という思想です。この二つの特徴をそれぞれ理解しておかないと、「何でこの作品は悲しいのか?」という理由の根本を捕まえる事はできませんから、何も目印もないまま当てずっぽうに中和作業を行う事になり、大変面倒なことになります。

それでは一つ目の思想、「偶有的悲劇」について説明しましょう。これは「世界には沢山の選択肢があり、それのどれを選ぶかは変えられる(*4)」という思想です。要するにマルチエンディングのゲームを思い浮かべれば良いでしょう、選択肢を選ぶ事によって全く別のエンディングを見る事も可能であるという風に世界を認識するのです。その為悲劇も偶有的になります、つまり「悲しい結末では無い結末」が可能性として提示され、何故その可能性を選べなかったかはひとえにその世界の中で変える力を持った人の気まぐれということになるのです。

しかもその場合その変える力を持った人の気まぐれは、気まぐれで有るが故に決して「表」には現れないのです。何故ならその気まぐれは表に現れた途端、それ以外の可能性は考えられない「必然」となってしまうからです。何故なら表というのはメディアの表層に存在する、所謂「物」ですから、そこには「AはBである」とか「AにBが加わりBとなった」等の、明確な論理の世界に属しているのです(*5)。そしてそこには不確定性は存在しないのです。

よってこのような「偶有的悲劇」を中和する方法は簡単で、何が世界を変える力を持っているかを把握し、そしてその変える力を持っている人・物を最終回以降に利用して裏の部分を都合の良い様に改変しちゃえば良いわけです。

具体例を出しましょう。例えば「幽霊」の存在を扱うマンガがあった場合、多くの場合そういうマンガでは死んだ人が一度は幽霊になって戻ってくるんだけど、結局「一度しかない命の大切さ」とかなんとか訳の分からない事を言って(*6)幽霊を成仏させる訳です。その様な作品の場合「変える力」を持つ物は天界ですから、最終回後に「しかし天界はその後気まぐれで再び彼・彼女を地上に戻した」とか付け加えれば悲劇はあっという間にその悲劇性を失う訳です。(色々批判もある種村有菜の作品を肯定してるんです。って誰もそんな事聞いてないか">*7)

で、次は2つ目の思想、「必然的悲劇」について考えてみたいのですが、実はこちらの方が1つ目の思想より遙かに中和するのが難しいです(*8)。というか実際には「作品」を中和するのでなく「自分」を中和しなければならないのです。何故か?説明しましょう。

必然的悲劇とはつまり「誰がどんなに何をしようがそれは全てシステムの規範内であり、結局は最終の悲劇的結末になってしまうのだ。」という考え、つまり悲劇を絶対的、必然的な物として捉える訳です。

この場合気まぐれを起こす物は何一つとしてありません。またややこしい事に、一応便宜上私はこの思想が裏に属するものとして紹介しましたが、しかし実際は"この思想に則って考えると"裏は存在せず、また「誰がどんなに何をしようがそれは全てシステムの規範内であり、結局は最終の悲劇的結末になってしまうのだ。」というのも思想として捉えられるのではなく、単なる「事実」として捉えられるわけです。何故ならこの思想に立てば他の思想を認められませんから、この思想と他の思想と同じレベルに置く事は出来ないからです。

よってこの思想に直面した場合は作品を中和することはまず不可能といって良いでしょう。偶有的なものが存在しませんから、例え作品後においても今までの作品内容に反する事は何も出来ないからです。よってこの場合は、それを「悲劇」だと思わない様に自分を何とかするしかありません。ではそれはどのように行えば良いのか?

まず「自分には力や権利は持っていない故に責任も持ち得ない」という事を自覚しなければなりません。「力には責任が伴う」という言葉がありますが、しかしこれは一方では「力が無ければ何も責任は無い」という事でもあるわけで、もし世界に何の偶有的なものが存在しないとしたら、そこには自らの力もまた存在する余地も無いのですから、責任もまた無い訳です。

さらに言えば、それが悲劇であると分かるにはそれを悲劇だと認知する利己的客体=自我が必要な訳ですが、このような思想の場合は「結局全てのものは結末の為にある」がために、それの存在すら認められません。しかし一方でそのことを自覚さえすれば、悲劇を悲劇とするものが無くなる訳ですから、その物語の悲劇性は無くなる訳です。

さて、この文を見て何か思い出さないでしょうか?そう、最初の方に出した物語中和の言い訳もまた、自我の喪失を別の方面から取り上げています。ここから僕は「実はこの世界自体の思想が『必然的悲劇』になっているのでないか?」という推測をしてしまいます。そう考えると、結構この世界で起きている頃と、自分に起きている事に、納得がいく様な気がしてなりません・・・


*1: かといって僕は彼女の擁護をやめる気はありません、むしろ、この理解によって今まで無策で自我の消滅を眺めてきた私たちの偽善性がますます明らかになったと言えるでしょう。

*2: ここには「心の動き」も含む

*3: そもそも思想自体は表現できないしね、それによって生じる結果しか小説・詩・マンガ・アニメに限らず全てのメディアは表現できない

*4: 何者が変えるのかはまた作品によって違う

*5: 何か実存主義者から物凄い批判をくらいそうだなこの文・・・

*6: 大体幽霊を存在させた時点で天界・死の超越性は崩れているわけなんですから、「命の大切さ」なんて物は存在しなくなるんだけど、何でそこに気付かないんだろうなぁあいつは・・・

*7: その点から僕は色々批判もある種村有菜の作品を肯定してるんです。って誰もそんな事聞いてないか

*8: その分、数は少ないけどね