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2005-05-11


[思想]大声で叫べ「これは僕の望んだ世界じゃない!」と

もー嫌だ、言葉が何の意味も持たない空間で苦しむのは。そりゃあんた達は島宇宙内でコミュニケーションをしたり、何か恋愛ゲームに真剣になれたり(*1)、何かマンガとかゲームに出てくる女の子・男の子に「萌えー」とか叫んだりしてさ(*2)、感覚によって存在理由だか社会性だか(*3)を獲得出来るかもしれないよ。いやいや、僕は別にそれを批判はしませんよ?(馬鹿らしいなぁとは思うけど)そういうことで自分の足場を確保出来るんだったら多分それしか方法は無いんだろうし、そしてその足場を補強する為に言葉をツールとして使うのも、まぁ仕方ないなぁと思います。

だけどね、世界はそんな心を持った人ばっかじゃない。

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緩慢な自己の終わり

あんたらにとってはまるで動作のないことに見える島宇宙内での濃密なコミュニケーション(*4)が出来ない人が居る(オフラインどころかオンライン(*5)でさえも!)。それじゃあ何か自分の中で閉じた仮想現実を作れるかと思ったら、それすらも出来ずコミケ会場の真ん中で一人周りと比べた自分の無力さを噛みしめる(*6)。でもじゃあ昔から延々と繋がれてきた古典的な哲学テクニックによって、自分だけで得ることが出来る自分の自信、つまり「自分は神に選ばれている」という実感を得ることさえもはや出来ない。なんてったって自分が居ないんだから(*7)。結局自分が居なくなって、それによって歴史すら消滅した私達(*8)は感覚に頼るしか無いんだけど、でも私達には感覚なんて無い!のだ。そりゃまぁ極限状態に行けば感覚が生まれるかもしれないが、しかしそもそもその極限状態に行く為に必要な動機が無い。(僕は思うけど。">*9)だから何もせず、ただ部屋にうずくまって緩慢にこの自分の人生が終わり、物質へと自分が変化するのを待つ。ここでもしまだ「死」が幻想性・不明性(*10)を持ってたなら僕もそれを考えぬくこと、そしてそれにより自分の存在証明をして生きていくことが出来るだろう。(*11)しかし何度も僕は言うが、現代においてはもはや未知と既知の区別など無いのだ(*12)。だから全てが未知になり、そして全てが既知になる以上、そんな「考え続ける」なんてのは通用しない。大体自分というものに特別の意味を見いだせない、つまり自分に魂が無いことが分かっているのに、何で死に特別な意味が持てるのか?死というのは、ただ単にこの個体の生命活動が停止することに過ぎないのだ。だから例えそれが起きたって世界は存在し続ける。何も変わりはしない。何の意味もないものがいつか自分に訪れる。いや今も訪れている。しかしそれに抵抗することは出来ない。ずっとこの怠惰な消滅の歩みが、自分がやがて朽ち果てるまで続くのだ。

「言葉」と「コトバ」

だが、本当に私達は何も感覚を持ち得ないのだろうか?成る程、確かに心の底からわき上がる様な感覚は、私達はあいつらとは違って持っていない。よしんば、持っていたとしても、その感覚は決して「言葉」―つまり島宇宙内コミュニケーションで消費されるような、感覚以外何の裏付けを持たない「コトバ」ではなく、それ自体が自律性を持ち(*13)、何か超越的なもの(*14)に奉仕する「言葉」―を用いることは出来ないのだ。そんな感覚の元では絶対に私達は生きてはいけない。つまり、もし私達が感覚を持つとしたら、それは「言葉」より生じなければならないのだ。何故ならそうでない限り言葉は常に感覚の支配下に置かれ、「コトバ」と化してしまうからだ。

しかしその条件は私達にとっては何の苦でもなく、むしろ助けだと言っても良い。何故なら感覚が「言葉」の支配下に置かれるということは、逆に言えば心の底からわき上がる様な感覚を持ち得ない私達も、「言葉」を形成する超越的なものさえ持てば、それに応じた感覚を持ち得るかもしれないということなのですから。しかしではどのような超越性があるというのか?ここで私達は、1960年代に流行り、そして滅び去った思想。実存主義を再検討する必要があるのです。

実存主義の二つの側面

さて、ここでいきなり実存主義なんてものを出されて戸惑っている方も多々いると思われます。しかし私達はここでどうしても実存主義を振り返らなければならないのです。何故なら、まさに実存主義こそが、延々と続いていた哲学―つまりその時の「言葉」―に止めを刺し、そしてその結果自らも死んでしまったまさに最後の哲学だからです。一般的には実存主義は構造主義によって殺されたということになっていますが、しかしそんなの全くの嘘です。実存主義は、その哲学を徹底的に突き詰めてきた結果、それまでの哲学もろとも自殺してしまったのです。構造主義なんてものは、それが死んだ後からやってきて、死体の上で踊って死体解剖をしたに過ぎません(*15)。 では実存主義はどの様に死んだのか?それを知るには、まず実存主義がどんな哲学だったかを知る必要が有ります。

実存主義とは簡単に言ってしまえば(*16)「世界は定義不可能な実存である。」ということです。「これだけじゃ何のこっちゃ分からないよ?」とお思いのあなた、それは当たり前のことです。何故ならこの文章は分からないことを目的として書かれているのですから。つまり、実存主義とは世界がどんな形なのかとか、どんな性質なのかとか、どんな方向に向かっているかとか、そんなことは分からないということを主張する哲学なのです。

これを聞いてソクラテスの「無知の知」を思い出す人も居るでしょう。ですがそれは表層的には正解ですが、しかし根元的には全くの誤解です。ソクラテスっていう人はソフィスト達を批判していました。ソフィスト達ってのは簡単に言えば「人間は万物の尺度である」ということを語った人達ですね。これに対してソクラテスは真理の絶対性を言い、そしてそのものは絶対物として存在するが、しかしそれ故に人間はそれについて知ることはできない、だけど人々はそれを知ろうと欲すると、そういうことを語った訳です。その思想を貫いているのは、真理と人間の絶対的な分離です。そしてそれが人々を煽り立て、多くの人々を哲学へと引きずり込んだのですから、ソクラテスはいわば哲学の創始者と言えるでしょう。

しかしこれに対して実存主義は決して真理と人間の絶対的な分離などは説きません。何故なら人間こそが真理=実存なのですから、知ることが出来ない訳がないし、それ故そもそも知ろうと欲する必要もないのです(*17)。確かに実存主義は実存を定義不可能なものとして扱いますが、しかしそれは決して知ることが出来ないということではないのですね。むしろ実存主義的視点から言えば定義可能=知ることが出来ない、なのです。どういうことか?例えば私達は普段身の回りにあるものを「言葉」で示します(「言葉」で示す事は即ち「定義づけ」です。)例えば僕がそこにあるものが扇風機、つまり「小型のモーターで数枚の羽根を回して風を起こし、涼をとる電気器具。」(*18)として示したとします。しかしその瞬間、扇風機から色々な可能性が消えてしまうのです。例えばいきなりかき氷削り機になる可能性とか、イカになって空を飛ぶ可能性とか、そのようなものが「決して無いもの」として消えてしまう訳です。しかしそれは即ち知識の消失に他なりません。扇風機のことが書いてある知識の項目に「小型のモーターで数枚の羽根を回して風を起こし、涼をとる電気器具。」という「言葉」が加えられることよって、<イカになって空を飛ぶ可能性>や<かき氷削り機になる可能性>が消えるのです。つまり、扇風機が<イカになって空を飛ぶ可能性>や<かき氷削り機になる可能性>について知ることが出来なくなるのです。これはやはり知ることが出来ないということに全く等しいでしょう。

以上のことから、実存主義は「言葉」というものが実は否定的様相―つまり「無」へと導くということ―しか持ち得ないということを明らかにします。ここ重要だから覚えておいて下さい。そして当たり前ですが、実存と無は全く対立する概念となり、そして実存は限りなく肯定的―何せ全てを認めるんですから―が故に無は限りなく否定的なものとなり、ここで無と「言葉」の結託関係が暴露されるのです。

しかしここで人々はとんでも無いことに気付きます。確かに実存主義は、これまで散々隠蔽してきた実存を表面化しました。しかしどうやってそれを行ったのか?やっぱり「言葉」によってなんですよ。「世界は定義不可能な実存である。」という「言葉」なんです。つまり、僕は先ほど実存と無は全く対立する概念と言いましたが、しかしそれはつまり実存主義が自らと対立するものとして無を存続させたということでもあるのです。本当に実存しかないならそもそも「世界は定義不可能な実存である。」という「言葉」(*19)さえ必要が無いはずなのです(*20)。ここに実存主義の死亡要因があるのです(*21)。

そして死んだ実存主義は私達に子供達を残しました。一人はこの記事の最初の文や「利己的行動の崩壊(id:rir6:20050425:1114379319)」で示した様な生き方です。これはつまり、実存主義から無や「言葉」を抜かしたものだと言えるでしょう。しかし私達はここで、その様な生き方には決してくみ取られないけど、しかし実存主義の中に確かに存在したもう一つの子供を、私達の為に救い出さなければならないのです!その子供とは、つまりです。

「無」と憎しみ

そう。言葉を支配する超越性、それ「無だったのです。ここであなたは「でも実存主義は最終的に死んだんでしょ?」と言うかもしれません。しかしもう片方の生き方が「実存」という実存主義の死骸の一部を利用するならば、こちら側が残りの死骸、つまり無を利用してどんな不具合があるのでしょうか?そもそも実存主義が死んだ理由は、「実存」にあるのでも無にあるのでもございません。その二つを結合させようとした所にあるのです。この二つが分離した以上、決して実存主義と同じ轍は踏まないはずです。第一、もう一方の生き方(感覚最高位主義と名付けてみる)は十分通用しているじゃないですか?もしあの感覚最高位主義が滅びたなら確かにこちらも滅びるかも知れません。しかし今問題なのはその感覚最高位主義に対し、私達はどのような対抗軸を打ち出せるか?ということなのです。そして、この無の超越性はあの感覚最高位主義に対し十分対抗できるものであると存じます。

さて、では無によって生まれた言葉はどのような感覚を作り出せるのか?「ISBN:4409130196:title」ではまさに【気持ち悪い】という感覚が使われていましたが、しかし僕はどうも「気持ち悪い」という言葉には苦い思い出(*22)があるので余り使いたく無いんですね。それに【気持ち悪い】というのは身体性を基礎においている(*23)ものでから、かなりそれを使う人の身体に引きずられやすいし、身体性となると実存に絡め取られる可能性もある、というかその様な結末しかありえないでしょう(*24)。では何が無ともっとも整合性を持つのか?

それはこの記事の最初に隠されています。

もー嫌だ、言葉が何の意味も持たない空間で苦しむのは。そりゃあんた達は島宇宙内でコミュニケーションをしたり、何か恋愛ゲームに真剣になれたり(*25)、何かマンガとかゲームに出てくる女の子・男の子に「萌えー」とか叫んだりしてさ(*26)、感覚によって存在理由だか社会性だか(*27)を獲得出来るかもしれないよ。いやいや、僕は別にそれを批判はしませんよ?(馬鹿らしいなぁとは思うけど)そういうことで自分の足場を確保出来るんだったら多分それしか方法は無いんだろうし、そしてその足場を補強する為に言葉をツールとして使うのも、まぁ仕方ないなぁと思います。

だけどね、世界はそんな心を持った人ばっかじゃない。

ここには一体何の感覚が隠されているでしょうか?そうです。【憎しみ】です。憎しみこそが、無と最も整合性がある感覚なのです!

考えてみれば当たり前でしょう。だって無を志向するということは、つまり「全ての物が消えて無くなれば良い!」と望むことなんですから。それは【憎しみ】以外の何ものでもありません。そして、この感覚は感覚最高位主義には全く無いものなのです。(*28)確かに彼らは特定の対象物に対する「憎しみ」は沢山持っています。しかしそれらは全てある特定の物への愛の裏返しであり、また、だからこそあそこまで残虐と成り得るのです(*29)。しかし【憎しみ】は違います。【憎しみ】は全てのものを均等に憎むのであり、そうである以上戦略的に他のものと組むことはあっても、決して心情的に誰かの味方となることはありえないのです。そして、その誰かの中にはもちろん「自己」も含むのです。そう、【憎しみ】は他者に対するもので有ると同様に、自分に対するものでもあるのです。ですからそれは決して容易いものではありません。

確かに一般に【憎しみ】とは唾棄すべきものとして扱われます。【憎しみ】は人を殺し戦争を引き起こす、【憎しみ】で救われる人は居ないと……ですが、じゃあ憎しみを持たない人は人を殺したり戦争を引き起こしたりしないのか?実際はむしろ逆です。五角形の建物の中にいて、コーラを飲んで同僚と談笑しながら発射するミサイルによって一体何人の人が死んだのか?彼らはテロリストみたいに憎悪で目をぎらぎらさせながらミサイルを打った訳ではない。だが犠牲者の数はテロリストによって殺された数より圧倒的に多いだろう。また、もっと言うならば今この記事を見てる人だって人を殺しているのだ。今世界では五秒で一人餓死者が出ている(*30)、私達が消費するものが一割でも彼らの元に届けば一体どれだけの人間が助かるのか?成る程、確かに私達の目は食べ物が無い為に強盗をして人を殺す人みたいにぎらぎらしてはいない。だが殺した人間の数は、私達「善良な先進国の人々」の方が圧倒的に多いのだ(*31)。また、【憎しみ】によって救われる人は居ないと言うが、しかしじゃあ何でいじめによって自殺者が出るのか?彼らがいじめっ子を憎むなら、いじめっ子を殺す(*32)ことはあっても、決して自殺することは無いはずです。結局、憎しみを封じ込めたが為にただ苦しさのみが体に貯まることになるのです。いじめ問題を真剣に考えるのなら、まず【憎しみ】を容認するべきなのです!

それでは実際にどのような仕方でもって【憎しみ】を扱えばいいのか?本当に【憎しみ】というものは全てを拒絶しますから、逆説的に全ての事象に対しても適用出来ることなんですね。ですから僕が今から指し示す一例はあくまで例であり、これ以外にも【憎しみ】を用いることの出来ることは一杯あります。というか、私達はどれを行うときにも【憎しみ】以外のものに頼ってはいけないのです。

ケーススタディ:【憎しみ】を持ってあいつらを叩け!

今の社会というのは常に何処かの島宇宙内で濃密なコミュニケーションをして社会性を獲得することを人々に要求します。そしてそれにより私達は常に苦しめれてきました。確かに大部分の人々はそんな所でも、いやむしろそんな所の方が楽に生きていけるのかも知れません。しかし私達には無理なのです。確かに外面的には無理矢理とり繕って、本当に何の意味も無い話をすることは可能かも知れません。でも、例えそんなことしたって結局心の中では「何でこんな話しなきゃならないのか?」という疑問が浮かんでしまうのです。それじゃあ駄目なのです。

しかも例えその話の話題に興味があったとしても、彼らは決して一つの話題について深く話すことはしないのです。極めて浅い話しかしないのです。そんな会話の方法では例え興味のある話であっても(というか"興味があるからこそ")満足できる訳がない。結局、彼らは別に何かしら知識を得たり、自分の考えを広めたりする為に「言葉」を使っているのではなくて、ただ馴れ合い的なコミュニケーションをして自分たちの関係を維持する。そんなしょうもなく、どうでも良い目的の為に「コトバ」をどぶに捨てているのです。しかし私達はそのどぶに捨てられる「言葉」によって生かされているのですから、そんな無意味なコミュニケーションに参加できる訳がないのです。

しかしじゃあそういう人達の話に参加しない様にすればそれで良いかといえば、彼らはそれすらも許さない。そこら辺にいる人と話をせずに一人で何もしないで居ると、彼らはそれすらも邪魔する。まぁ彼らにとっては話をしないでいるなんてことは苦痛以外の何物でもないんでしょうから、きっと善意でそういうことをやってくるのでしょう。しかし例え善意だろうが悪意だろうが、僕は望んで一人で居るんです。あんた達とはそりゃあこの空間では一緒にいるけど、それが一体どうしたというのか?あんたらはそこで話をする、僕はここで本を読む。それで良いじゃないか。。。だが彼らはけっしてその様な「善意」による行動を止めようとはしない。しかしそれに僕が「悪意」を持って「邪魔だよ」とか言うと、彼らはあたかも自分たちに全く罪がなくて、僕が一方的な罪人かの様に僕を非難するのです。

でもじゃあそれに対し私達は何か反駁出来たか?否、何も出来なかった。だって私達には正当性がありませんでしたから。何度も言いますが現代に於いては「人は利己的行動をしなければならない」なんて正当性は既に崩壊しているんてす。(id:rir6:20050425:1114379319)ですからもし正当性がこの世にあるとするならば、それは他人とのコミュニケーションによって生じる社会性にしか存在しえなかった。そして、彼らはその正当性を使っているからこそ、あそこまで自信を持って僕らを非難できる訳ですが、しかし僕達には何もない。そもそもその様なコミュニケーションが出来ないから、正当性を得る術もなく、正当性の無い行為なんてものは心が承認出来ませんから、私達には何も出来なかったのです。

だが、もはや違います。私達には【憎しみ】があります。全てを否定するその感情によって、私達は自らが持つ否定的な欲求(「○○したくない」とか「○○出来ない」とか(*33)、そういう、これまでは感覚最高位主義によって否定されてきた欲求)の正当性を確保できる様になるのです。つまり、全てを否定することによって、コミュニケーションによって正当性を得ている彼らを否定することが初めて可能になるのです。もちろんそれは一方ではその【憎しみ】によって自分自身すら否定しなければならなくなるということでもあります。しかし、もはや私達は自分という存在を肯定的に信じることは出来ないのですから、それが否定されようが何とも無いのです。結局自分なんてものは存在しなく、ただ存在だけがあるのです。ならば、そこには存在否定があったしても、自己否定は存在しようがありません。

しかしもちろん彼らコミュニケーションによって正当性を得ている人々だって馬鹿ではありませんから、彼らも彼らなりの論法で反論してくるでしょう。例えば「あんたは『存在を否定すべきだ!』とか言うけど、でもあなたは存在しているじゃない?」という風に、まぁ実際はここまで論理的に洗練されて言われることは少なく、「あんた死にたい死にたい言ってるけど、でも生きてるじゃない!」というような形で示される(*34)ことが殆どです。しかしそれに対しては次の様に答えられるのです。「確かに生きてる、でも死にたいとも思っている!」と。願望と現実の境目なんて存在しないのです。そもそも生きるということは死へと向かうという意味なのです。もっと論理的に洗練していえば、存在すると認識する。それ即ち存在を無へと向かせることなのです。

また彼らは「あなたの居る世界はあなたの望んだ世界なんだよ。だから世界を認めなさい」という風なことも言うかも知れません。しかしそれは何の根拠も無い。無いんです。だって世界が一つである以上、それが望んだか望んでないか何て客観的に示せる訳がない。だからこの言葉は彼ら感覚最高位主義者の信条表明な訳ですが、しかしそんなもの感覚最高位主義者では無い私達にとっては何の意味も持ち得ません。だからこんな言葉のことなど真剣に考える必要はない。私達はもはや【憎しみ】を手に入れた以上、こんなもの恐れる必要はないのです。ですからこのような事を言われたら大声でこう返しましょう。「この世界は僕の望んだ世界じゃない!」と。これこそがまさに【憎しみ】の信条表明なのです。

最後に

これは、自分で言うのもなんですが革命宣言です。だって今までどんな方法を用いても勝つことが出来ず、感覚最高位主義社会によって生きることを禁じられ、もし生きようと欲するならば、感覚最高位主義社会においては唯一、「生きている」というレッテルを貼ることが出来る感覚最高位主義者のご機嫌取りの為に同じ仲間同士で傷つけ合うしかなかった私達が、やっと自分たちの仲間以外にも使うことの出来る武器を見つけたのですから。感覚最高位主義者は恐れ、そして言うでしょう。「僕達は別に貴方達を憎んでいなかったんだよ。だから貴方達も私達を憎むべきではない」と。そしてその言葉についほだされ、自らの持つ【憎しみ】を捨てようかと思うときもあるかも知れません。しかし騙されてはいけない。もしあなたが【憎しみ】を捨てるなら、その瞬間再び感覚最高位主義者はあなたを生きることの出来ず、不幸に遭いながら自らの生命活動が消滅するのを待つ牢獄へと引きずり戻されるか、さもなくばその感覚最高位主義者のご機嫌取りの為に、自分と同じ人達と何の意味もなく傷つけ遭うしかならなくなるのです。もし【憎しみ】を捨てたい様な気分になったら、【憎しみ】を得る前私達がどんなに傷つけられてきたか、そしてどれ程の悲しみを生みだしたか思い出しましょう。大丈夫、もう私達は武器を手に入れたのだから。その悲しみはきっと過去のものになるでしょう。


*1: id:rir6:20040922:1113913547

*2: ISBN:4861990025。何か「恋愛資本主義」を打破するとか言ってるが、萌えという感覚が理解出来ない僕としては何の手助けにもなりませんでした

*3: 敢えて実存とは言わない

*4: ISBN:4000093339参照

*5: それが現実にどのような力を持つかどうかはともかく(それは社会システムを考える偉い大人達にとっては重要なことかもしれないが)、形式的には今のネット上では、思想とか哲学(一体ネット上に置いてマイ哲学を唱える人の中に一体どれだけ本当にその哲学に殉ずる度胸のある人間が居るのか?エロゲーを賛美したりする人や、2ちゃんねるの哲学板に自分のスレを持ってたりする人に是非聞きたい)とか政治(嫌韓/親韓とか。結局日本のネット上での政治談義が島宇宙内コミュニケーションに過ぎないことは、人権擁護法案騒動での各BLOGの行動を見て嫌というほど分かりました……)なんてものはというのは島宇宙内コミュニケーションのネタに過ぎないのだ(ISBN:4140910240参照)

*6: 当たり前だが全て実話だ!

*7: id:rir6:20050425:1114379319参照

*8: 当たり前だが、自己が居なくなったんだから「私」なんて使える訳がない。

*9: ここで当然賢明な人なら「じゃあ『僕ら』はダメ人間なのか?」という疑問が生まれるだろう。有る意味ではそうだ。だが、そもそもその言葉を使うときは「ダメ」という定義を行う確固たる大文字の人間(別に他者でも神でも自分でも良い)が存在しなゃならないだろう。それも見つけられずに安易に「自分は駄目人間だ!」などというのは自己欺瞞でしかない。そんな低レベルな自己欺瞞で自分を騙せるなら勝手にそうしてれば良いと僕は思うけど。

*10: 要するに「どういうものなのか分からない」ということ

*11: ここら辺はISBN:4166600052あたりに、それを行っている例がある。僕も一度はこれに期待したんだが……

*12: id:rir6:20050208:1113809554参照

*13: =それぞれが矛盾することのない。これを実現する為には、超越性によって裏付けられた時間軸が必要な訳です

*14: それはかつては神であったり人間性であったり資本であったりした

*15: 「実存主義は自殺し、構造主義が死体解剖を行った」という言葉をどっかで聞いた事があるのだが、何処で聞いたかは忘れた。もしかしたら全くの自分の妄想かもしれないし

*16: というか簡単にしか言えないんだけど

*17: そしてそれによってそれまでの哲学は殺された

*18: 大辞林より

*19: 実はそれは嘔吐であったりもする。id:rir6:20050329:1113813528参照

*20: 実はid:rir6:20050427#20050427f4で言ったのはここの文の予告だったりする

*21: 余談ですが、実存主義がやけに個人の輪郭を強固に持っている理由も、実はこれで説明できる気がします。つまり、表面的には「言葉」を捨て去ったかにみえても、実は裏ではかくまっていた為に、それがちょこちょこ顔を出していたのです。

*22: asin:B0000DJ299だったり、実生活だったり……

*23: 「ムカつく」とかと一緒ですな

*24: もともと「実存主義」によって作られたものだからね

*25: id:rir6:20040922:1113913547

*26: ISBN:4861990025。何か「恋愛資本主義」を打破するとか言ってるが、萌えという感覚が理解出来ない僕としては何の手助けにもなりませんでした

*27: 敢えて実存とは言わない

*28: 彼らが一番大事にしてるものを知ってる?偽善だよ。id:rir6:20030817:1113913251参照

*29: その一例が差別だろう。差別ってのは結局同質さの確認だからね。id:rir6:20040823:1113823104参照

*30: id:rir6:20041124:1113764820参照

*31: 別にだからといって寄付しろということではありません。ただ、純粋に私達はこの事実を直視すべきなのです

*32: 僕はそのような殺人は絶対に第三者には裁けないと思っています

*33: 例:id:rir6:20040823:1113823104における陰に篭るタイプの障害者

*34: 苦い記憶