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2005-05-16


[情報社会論]これは確かにフィクションだ、だが……

これは とある かぞくが のこした blog で ある。

とりあえず、読んでください。読んでから、まだ立っていられる気力があるなら、もう一度ここの記事に戻ってください。

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……読みましたね?

確かにこのページは一応フィクションです。そりゃ幾ら何でも子供があんなブログをやっていて、それを見て容認している親なんて居ないでしょう。けど、僕は敢えて言います、このページは、その様な些末なリアル性を無視して、戯画化することにより、却ってそこら辺にある並のフィクションよりは余程現実の輪郭を捉えていると。

「お陰様で十億アクセスを達成しました。」

まず、この三人のBLOGの文を目にしたときに気付くのは、そのアクセス数とコメント・Trackback数への執着です。父は実に7記事中6記事で自らのBLOG、また子供のBLOGのアクセス数またはTrackback数について言及していますし、その様な父の行動を見て覚えたのかどうか分かりませんが、子供も

P.S

わー! たくさんのコメント! 超カンゲキです! まだトラックバックって意味わかんないけどありがとうございます! カンシャカンシャ!

それと、私もお父さんとお母さんのblogは見ていません。お母さんがそのほうが良いんだって言うので。とりあえず言うこと聞いとこ。。。って感じで。

 

P.S-2

ゆーみから「アクセス数とかコメントとか多すぎ。くやしー」ってメールが来ました。ちょっとだけ優越感を感じる私は悪い子でしょーかvv。

という風に書いています。しかしここで重要なのは、別にこの家族の一員ではないゆーみからも、アクセス数とかコメントとか多すぎ。くやしーというメールを送っているのです。つまり、このBLOGが日常の物と化した2016年においては、アクセス数向上というのはそんなに特殊なものではなく、かなり普遍性を持つ願いとなっているのです。

これは果たして夢物語でしょうか?僕はそうは思いません。例えば女子高生の持つ携帯電話帳の登録件数の異常な多さを思い出しましょう。そこに存在するのは「自分に電話してくれた=アクセスしてくれた人数」への執着であり、また彼女たちの送るメールの多さも、またコメント・Trackback数の多さと同じです(Trackbackには、例え中身などあったとしても無いに等しいのですから、その点でも、内容より送った事実を重要視する女子高生の携帯メールと類似していると言えます">*1)。つまり、このような人数への執着(*2)は現代においてもかなり普遍的なものなのです。

そしてまた、資本主義社会で有る限り技術革新は続くのですから、携帯のデータ容量はきっとどんどん増えていき、またそれにより携帯メールとBLOGの違いは無くなっていきます。もちろん形式的に言えばBLOGは公に公開されているものであり、携帯メールは私信ですから全く異なるのですが、しかしBLOGにしたって結局はどんなに「公の空間」を強調したって、どうせ見るのは自分と同じ島宇宙に居る人間なのですから、余程何か「例えそれが形式的であっても、公に開かれたコミュニケーションをする場合には、例えそれが実質的には私的な人達によってのみ行われていても、公的に進めなければならない」というイデオロギーを信仰していない限り(*3)私的なコミュニケーションと同じ水準のものになるでしょう。新しいBLOGサービスになれば成る程―つまりより大衆的に成れば成る程―画像による顔文字などのいわば携帯メール的機能が入ってきます(*4)し、最新記事欄も私的な記事ばかりになっている(*5)ことからもそれは明らかです。

つまり、現在のBLOGの向かってる道というのは「過去のメールが永久に保存される携帯メール」なのです。そこにおいては、「コンテンツの質の向上」とか「ブログ・ジャーナリズム」とかそんな建前的倫理(*6)は、「公の空間」(*7)が認知できなくなっている以上、通用しません。そこに存在するのは「コミュニケーション」そのもの―しかしそれは直接的には目に見えないものですから、結局それの一つの現れとしての「アクセス数」や「コメント・Trackback数」の執着として現れる―を最終目的とする、つまりは島宇宙(*8)の集まりです。そしてその群衆は、常にコミュニケーションの相手をより多くしようと求めますから、必然的に膨張していき(*9)、やがて日本を全て覆うのです。

「わたしはいったい何なんですか。」

そしてこのような島宇宙化によってイデオロギーが無効化し、手段ではなく目的としてのコミュニケーションが行われるBLOG空間においては、二つの潮流が生まれます。一つはこのBLOGで何回も言っている「私という嘘の崩壊」であり、そしてもう一つの潮流は「キャラ立ち」です。この二つは相反するものとして多くの人は捉えるかも知れませんが、しかし実はこの二つは密接に関係し、同じ目的、つまり「コミュニケーション」へと向かう手段なんです。

まず最初に「私という嘘の崩壊」について紹介しましょう。これについてはもうここNWatch ver.4のメインコンテンツと言っても良い様なもので、詳しくは過去記事(*10)を見て貰いたいのですが、このページの文を例に出しながら説明しましょう。

 わたしは今日、禁を破って母親と父親のブログを見ました。卒倒するかと思った。わたしと家族しか知らないはずのことが、詳細に記載されている。ていうか、知らないこともたくさんかかれている。

 わたしの誕生はもちろん、幼少時の恥ずかしいエピソードなどが懇切丁寧にかかれていて、とくに初潮を迎えた日など、まるで、国民の祝日にでもなりそうな勢いでかかれている。卒倒するなという方が無理だ。

 もう止まらなくなったわたしは、更に遡って読み続けた。両親の結婚(入籍)の日はもちろん、二人がまだつきあっていた頃のブログなんて読んでいるだけで顔から火が出る。わたしが浴びせられた悪口雑言の中で、意味不明だったものの大半が、この時期の、わたしが産まれる以前に書かれたブログを材料にしていることも判った。なにしろ結婚前のブログでは、二人が競い合うようにして、アクセス数ほしさにこれまでの性体験をどんどん書きつづったりしていて、なんだか、両親への尊敬の思いがいっぺんに消えてしまった気がした。わたしが産まれた後も、浮気や離婚の危機を事細かに書いたりしている。これが同級生の親のブログだったら、わたしだってその子をからかいたくなるだろう。

つまり、この夫婦のような使い方(*11)においては、BLOGは永久に消される事のない日記帳と成るのですね。しかもそこにおいてはオーディエンスが居る(*12)為、余程自分の筆に自信があって、嘘を真実の様に書けると思っているので無い以上、より赤裸々に詳細に日常を暗部(*13)まで語ってしまう訳です。

しかしそれは子供にとっては絶望以外の何物でもありません。何故なら、そのような日常の暗部は絶対に「親」という他者の「私」には適合しないからです。親というものは、例え実際には「獣」であっても、子供の前では少なくとも「人間」で居なくてはならないのです。そして、この親は一応娘の幸せを願う「人間」で居ようとしています。しかしそれは無理です。だって自分が獣だったときのことをBLOGにありのままに書いているんですら。幾ら今「人間」であろうとしたって、いや、今「人間」であろうとすればするほど、過去の親と現在の親に整合性が取れなくなり、結果「親」そのものが一つの人格として成立し得なくなるのです。

そしてこれは子供においても同じ事です。例えば子供はBLOGでこんなことを書いています

全世界の人たちが、わたしとわたしの両親について、本来知るはずのないことまで知っているのだ。

しかしそれを嫌がってるのなら何故自分がそのBLOGを止めようとしないのか?親に幾ら止めろと言っても出来ないということは分かります。しかし自分がBLOGを書いている、その行為すら彼女は止めることが出来ないのです。一体何故か?これこそまさに「利己的行動の崩壊(*14)」なのです。つまり、BLOGに自分のことが書かれたことを嫌だと思う自分と、それすらもBLOGに書く自分の間に何の特殊な関連―つまりは「自己同一性」―も無いのです。

「なぜ、自分たちの生活を、ブログの材料になるか否か、でしか判断できなくなってしまったのですか。」

しかしその様な「私という嘘の崩壊」は、逆説的に「私」というものの利用価値を向上させるのです。何故なら、「私という嘘」があった時は、「私」がまだ超越性を持っていた(*15)が故に、それは絶対に尊重されねばならぬものであって、BLOGのネタにするなど持っての他だった訳です。しかし「私という嘘の崩壊」は、「私」の超越性を奪ってしまいますから、それによって「私」がそこら辺にあるペーパーナイフとかと同じ水準に置かれる―つまり、意味が剥奪される―のです。

例えばこのページのトップにはこんな文が書かれています。

これは とある かぞくが のこした blog で ある。

いまや にちじょう に ねざした ネット かつどう の

さいたるもの で あるところの

blog。

その かのうせい と ゆくさき を

おもいながら みて いだだければ さいわい です。

うえの メニュー から できれば

2004.11.25付の Dad's blog から

ごらん ください。

漢字というものはその文字自体で意味を表します。しかしひらがなは違います。「川」という漢字はその図から川を連想できますが、しかし「かわ」という文字の外見からは川がどんなものかは分かりません。つまり、ここでひらがなが用いられている理由は、この作品においては言葉がもはや意味を持たなくなっているということのメタファーなのです(*16)。

意味がない以上、どんなにいじくったって自由になりますから、自分の車をチューンナップしてそこら辺を走るのと同じ感覚で「私」をチューンナップしてBLOGに晒すのです。何故か?そうすればより多くのアクセスが確保できるからです。そしてそこにおいては他者と違う特別な私が必要になりますから、さらに日常の暗部が詳細に語られ、それが更に「私という嘘の崩壊」を加速させ……という風に悪循環に陥るのです。

そしてこれは親側の話だけには留まりません。子供の側にしたってそうです。そりゃあ確かに彼女はBLOG上でそのような潮流に異議を唱えています。しかしじゃあその異議は一体何によって提出されているのか?やっぱりこれもBLOG上なんですね。大体そのBLOGのデザインは、こりゃ突っ込むのは野暮ってものかも知れませんが物凄く凝ってます。そして凝ってあるが故に、そこに存在するのは「いじめられる私」の戯画化なんですね。そこに存在するのは、ヌエの様に、それを拒絶する相手にさえも寄生しようとする「存在」です。

「もう、どこへも逃げられない。」

実はこのページが一番伝えたい言葉はこれなんじゃないかと僕は思います。確かに外面的に見れば彼女は自分のプライバシーの権利を侵害されてきたことに絶望しているように見えます。しかしそれは今までの論証を考えれば余りに皮相的な見方でしょう。彼女は何に苦しんでいるのか?親が自分のことを今までBLOGに書いてきたこと?しかしそれは全て嘘の無い事実です。親がそんな酷い人間だったということ?しかしそれだって当たり前のことです。いじめを受けているから?しかし彼女は

これが同級生の親のブログだったら、わたしだってその子をからかいたくなるだろう。

ということを言ってます。違うのです。問題はそんな単純な領域には無い……だって全て事実であり、正当なことなんですから。「隠し事をしない」これは極めて正当なこと。「自分がやりそうな事を相手に言われたって文句を言わない」これも極めて正当なこと。しかしその正当なことに彼女は苦しんでいる。これはつまり、彼女は正当なこと自体に苦しんでいると考えて良いでしょう。そして、「私という嘘」が崩壊した時代において唯一正当性を持つもの。これはつまり「存在」なのです。そして存在は、それが全てを含有するものであるが故に、逃げることは出来ないのです。

この観点から見ると目的としての「コミュニケーション」が蔓延るのも理解できます。物が存在するということ、それはつまり分子が結びついており、しかもそれが完全に一体化(*17)せず隙間が存在しているということなのです。ということは、もし物に目的があるとすれば、それはその結びつきを保ち続けることです。そしてこれを人間に応用すれば、結びつきは即ちコミュニケーションになります。もちろん今までは人間と物は違うという考え方ですから、何とかみんなコミュニケーションを手段たらしめようとする為にそのコミュニケーションが達成する目的を探していた訳ですが、しかし何かを探すということすらもはや不可能(*18)なのですから、私達はもはや「物」として永劫に存在するしか無くなっているのです。例え彼女がどんなにその「存在」を嫌っても!

そう、死すらも逃れる手段とは足り得ない

 たとえ、この世の外に逃げたところで、わたしの両親は、それすらもブログの材料にしてしまうだろう。そして、世界中に散在するわたしたちのブログを知る人たちが、悲しみのコメントやトラックバックを寄せるのだろう。

「2019.4.5」の向こう

ではこの「存在」に対し彼女はもはや何も出来ず、ただ緩慢に自己が終わるのを待つだけなのか?彼女の人生は、逃げられない。という記事で終わりを迎えてしまうのでしょうか?

これだけ悲観的な事をつらつら述べてきて言うのも何ですが、僕は違うと思います。むしろ、このページはプロローグに過ぎないのです。

彼女は2019.4.5まで本当に自らの不幸が何処からやってくるのか分からないで居ました。だから自分が遠い学校に行くことによって自分の不幸が解決するというような甘い妄想を抱いていたのです。自分の苦しみは本当に特殊な物なんだ。だから新しい学校に行けば全ては解決する。世界はきっと優しいんだと。しかしそのような妄想を抱いている内は、決して何も始まらないのです。

しかし2019.4.5、遂に彼女は自らを苦しめる真の正体を知ったのです。彼女を今まで苦しめてきたもの、それは過去の自分をも含むこの世界そのものだったのです。そう、どこにも逃げ場なんて無い。だけどそれは一方で、逃げるという選択肢が消滅し、それによって前進するしかなくなるということなのです。では彼女にとって前進とは一体どの様な行為を指すのか?自分がもう存在を認めることが出来ないことが分かった以上、取るべき道は一つしか有りません。【憎しみ】(*19)です。その様なことをしてきた親を憎み、それを見てきた世間を憎み、そして、それすらもBLOGのネタにしようとする自分を憎み、そして、全ての存在そのものを憎むのです。もちろんそれを行動に移したって誰もあなたのことを批判など出来ません。彼女は親を殺したって良いし、無差別殺人を起こしたって良い、自分が憎しむ感情の為ならあらゆることをして良いのです。もちろんそんなことをやっても全ての存在を否定出来る訳がありませんから、どんなにやったって満足しません。しかしそれでも何もせずに緩慢な自己の終わりを待つよりはずっと良いはずです。

そして、それはこの彼女と同じ境遇において苦しんでいる全ての人に言えることなのです。実際、ここまで戯画化された例は少ないでしょうが、しかしこれと似た様な境遇に居る人はきっと居るだろうし、またこれから確実に増えていくでしょう。(*20)しかしそういう人達の多くは【憎しみ】を知ることなく、自らを正当化出来ないまま苦しんでいるのです。だけどもし【憎しみ】を持てたなら、きっと世界は変わり始める筈なのです!


*1: あんな大量のコメント・Trackbackには、例え中身などあったとしても無いに等しいのですから、その点でも、内容より送った事実を重要視する女子高生の携帯メールと類似していると言えます

*2: ISBN:4000093339:title参照

*3: そしてそれは不可能

*4: まぁ、外国のBLOGツールだと割とスマイリーマークとかは当たり前なんだけどさ

*5: それが悪いと言うわけじゃないよ

*6: 要するに「イデオロギー」だ

*7: 何か「公」って書くとよしりんみたいでいやーんな感じなんだけど、よく考えたら公共とかそういうものを一番強調したのって、極端な思想を除けば左翼の側だったりするんだよね。

*8: 島宇宙は何か社会全体を包む様な強靱なイデオロギーを持ち得ない以上、コミュニケーションによる求心力に依存するしかないのだ

*9: しかしここで重要なのが、決して彼らは一丸となって膨張するという訳ではないということです。彼らはそれぞれの島宇宙の中から、まだどこの島宇宙にも入っていない人を自らの島宇宙に引きずり込もうとするのです。

*10: id:rir6:20050206:1113766677・id:rir6:20050209:1113809653・id:rir6:20050425:1114379319

*11: きっとこれから大多数の人々のスタンダードに成るであろう使い方

*12: 少なくとも書く側は居ると思っている

*13: 要するに性体験のこととか

*14: id:rir6:20050425:1114379319

*15: 主体主義

*16: だから僕はこのページを「言葉を無くした人達のコトバ」という風に最初評したのです。まぁ、誰も知ったこっちゃ無いことでしょうが……

*17: 完全に一体化してたら一つの分子になる

*18: 「悩み続ける」という戯れ(id:rir6:20050208:1113809554)を参照

*19: 「大声で叫べ『これは僕の望んだ世界じゃない!』と(id:rir6:20050511:1115756563)」参照

*20: 何度も言いますが、これはフィクションでありながら現実を描いているページなのです