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2005-07-10


[情報社会論]「リンクは絶対に自由だ」のもとで迫害される人々

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さて、そうは行っても、「無断リンク禁止」なる身勝手な主張はしばしば見受けられる。ジャンルとして多いのは、メンタルヘルス系の個人ページと、いわゆる同人系のイラストサイトなどが多いようだ。前者は「安全な語りの場を侵害されたくない」、後者は「イラストが勝手に使われると困る」というあたりが理由だろうか。

しかし、インターネットは特定の当事者達だけのためにあるわけではない。みんなが素通りする広場で独演会をやっておいて、それを見るな、それについて語りもするなというのは、はっきり言って言論の自由の侵害である。

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via.http://mohican.g.hatena.ne.jp/bbs/1/6

はっきり言います。この文章に対して無条件に賛同する様な人は僕はクソだと思います。しかし多分この様な意見は今のインターネット界においては「まさにインターネットの自由を守るものだ!」として礼賛するでしょう。このような乱暴な主張を行う人々を近頃はモヒカン族と呼ぶらしいのですが、はっきり言って彼らに逆らえる勢力など今のネット界には居ないでしょう。それ程までにこの様な意見はインターネット上で支配権を持っている。そしてその支配のもとで今日も↑のような「人に晒されものにされたくない」という切実な願いが握りつぶされるのです。何故か?それは「自由を害するもの」だからです。

しかしその自由は一体誰を救うのか!?

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法は倫理を内包し得ない

このBLOGでは次の様な論理を持って自らの行為(メンタルヘルス系の個人ページを晒し者にするということ)を法律的に正当化します

「無断リンク禁止」「ホームページからの引用禁止」などはナンセンスである。

公開された情報は誰がどう閲覧するのも自由という精神で、勝手にリンクを張って結びついていった多数のサイトの集大成がインターネットである。

ホームページは「公開された著作物」と解釈するべきである。「著作物は利用してはならない」というのは間違ったイメージであり、むしろ法律は「公開された著作物は、著作者の許可なく、引用などの形で利用することが出来る」ことを認めている。

著作権法第三十二条

>公表された著作物は、引用して利用することができる。

リンク問題については、後藤先生のページが最強であると思う:

http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/webpolicy.html

人様のリンクに文句がある人は、まずこの↑サイトに有効な反論を準備してからにしてもらいたい。

この文章では「無断リンク禁止」をナンセンスと言いますが、しかし僕にはこの文章の方がよっぽどナンセンスに見えて仕方ありません。成る程、確かに無断リンクは法的には許可されている。それは事実でしょう。もし裁判に訴え出ればrahiem氏の方が勝つでしょう。

ですがじゃあ法で許されれば何をしても良いのか?答えはNOです。私達の社会は法のみで動いている訳ではありません。法とそれを強制する政府というのはあくまで社会システムの一部であり、決して全てではないのですから、当然法は規制しなくても、自らの信条や他者とコミュニケーションによって作られる倫理によって規制される行為はあるのです。

倫理は柔軟性を持ち得る

そして法の様に固定化(明文化)されないが故に倫理は柔軟性を持ちます。例えば今回の無断リンクの問題に関して言えば○○の場合は無断リンクが許されるが、しかし△△の場合は無断リンクが許されないという風なことがあり得ます。

さて、そうは行っても、「無断リンク禁止」なる身勝手な主張はしばしば見受けられる。ジャンルとして多いのは、メンタルヘルス系の個人ページと、いわゆる同人系のイラストサイトなどが多いようだ。前者は「安全な語りの場を侵害されたくない」、後者は「イラストが勝手に使われると困る」というあたりが理由だろうか。

しかし、インターネットは特定の当事者達だけのためにあるわけではない。みんなが素通りする広場で独演会をやっておいて、それを見るな、それについて語りもするなというのは、はっきり言って言論の自由の侵害である。

AC(アダルト・チルドレン)ブームも過ぎ去った感があるので、現在ではメンタルヘルス系の個人サイト自体が激減したが(なんせ、パンフレット的な企業サイトと、匿名掲示板に2極化してきてますし)、それでも、ちょっと探したら、そのような主張が依然としてしばしば見受けられることが判明。

(略)

そうならば、パスワード認証制の会員制サイトにすべきである。

と言いますが、rahiem氏は全くこの社会の複雑性を分かっていない!そうならば、パスワード認証制の会員制サイトにすべきであると言うが、しかしパスワード制にしたら本当に見て貰いたい・書き込んで貰いたい人すら制限してしまうのだから、それが代替手段にはならないことは明確です。

大体、みんなが素通りする広場というが、果たして誰かが「このホームページを見ろ」と強制をしたのだろうか?広場の独演会というのは明らかにプッシュ型のメディアな訳だが、ホームページはプル型のメディアだ。その二つを同列に並べるなんていうのは議論の錯乱以外の何物でもない。

言論の自由は確かに法的には「公共の福祉」の範囲ならば無条件に認められる訳ですが、しかし法は倫理を内包し得ない以上、法に於ける尊重されるべき「言論の自由」の内容と、倫理的に尊重される「言論の自由」の内容は当然違うものなのです。

そしてはっきり言いましょう。「安全な語りの場を侵害されたくない」と考えるメンタルヘルス系の個人ページに対し、ただ研究の材料にするなんてしょうもない目的の為に許可も取らずに晒し者にするなんてことは、決して倫理的に尊重されるべき「言論の自由」の範囲内には入らないのです。

何の為の学問か

学生や研究者には、学問の自由がある。質が低い研究も多いが、それが世の中だ。繰り返すが、引用に許可は要らない。

学問の自由というものはその学問によって救われる人が居るからこそ倫理的にも尊重されるべきなんであって、人を傷つける様な学問にをただそれが学問だからという理由だけで尊重しろ何ていうのは全くの全くの本末転倒です。ましてや、人が苦しむことが分かっていながら「それが世の中だ」なんていう理由(*1)で、その人の苦しみを無視して良いなんて考える人には、そもそも学問をやる資格は無いと言っても過言ではありません。

許可を取るというのは倫理的な要請なのです。何故なら、その「許可を取る」という行為によって、現在研究していることについての他者とのコミュニケーションがとれ、その研究が本当に有益なのかが分かってくるのですから。それもせずにただ「俺はこの研究は有益だと信じる!(他人の意見などどうでも良い)」なんて考えて無許可でリンクを貼ったりするのは単なる独り善がりです。

(もちろん例外はある。例えばその行おうとする研究がそのコミュニティの閉鎖性などを批判するものであり、そしてそれ故にそのコミュニティから研究に引用することが断られてしまう場合には、限定的に無許可でのリンク・引用は認められるべきな場合もあるでしょう。しかしそれは極めて微妙なラインに属することなんです。例えば最近『不登校は終わらない』論争id:nopiko:10000000なんてのがありましたが、この様に論争が起こるまでにこのラインに属する研究というものは微妙な訳で、決してrahiem氏が書いた様に「無断引用・リンク禁止は言論の自由に反する認められない」なんて言葉で解決出来る様な問題ではないのです)

自分に味方しない者はすべて敵である、という態度は、ブッシュの帝国主義やイスラム原理主義テロリズムを思い起こしてしまう。

成る程、確かに「自分に味方しない者はすべて敵である」というその態度に現在のアメリカやイスラム教原理主義過激派の恐れを重ね合わせるのはおそらく間違ってないでしょう。しかし僕はここで聞きたい。「ありがたいことに、私の狂気は君たちの神が保証してくれるわけだ。 よろしい、ならば私も問おう。君らの神の正気は一体何処の誰が保障してくれるのだね?」(*2)と。何の為になるのかも分からない研究を何かに取り憑かれたかの様に遂行し、その為に他者の「安らかに他人と語りたい」という切実な願いを踏みにじる、僕はそちらの方にこそ、今の「正義を世界に広める」アメリカの傲慢さと、その裏に忍ぶ他者への恐れを感じるのですがねぇ。

今私達に本当に必要なのは、法律の力によって相手を強引に説き伏せるあなたのようなやり方ではなく、むしろメンタルヘルス系のホームページに象徴される様な、まず他者の願いを聞き、一対一で話すやり方です。何故ならその方法でしか、僕やあなたを含む「他者への恐れ」を持った人々は治せないのですから、その点では、研究し学問によって彼らメンヘル系を救うというよりは、むしろメンヘル系に学ばなければならないのです。「彼らを救う為だ」とか言ってメンヘル系のページを晒し者にするなど言語道断なのです。

気に入った人にだけ見てもらいたい、というのは公共意識の欠如ではないだろうか?

はっきり言うと僕にはあなたの言う公共意識とやらがどんなものなのか全く分かりません。そもそもメンヘル系の人々の多くはその「公共」とやらのせいで苦しむことになったのですから、その公共が更にメンヘル系の人々に「公共意識を守れ!」なんて言うのは、僕には悪い冗談にしか思えないのです。

まとめ

はっきり言って僕はこんな人が研究・教育職なんかやっているということに絶望しました。まぁ僕はこれでも人並みに学問に対しては幻想を持っていたのですが、しかしこの様なのを見ると……全く既存の社会常識に疑いを持たず、それでいて他者を恐れ、「研究」の為ならばどんな犠牲が払われても良いと思っている、そんな信条を持つことが学問の条件だというなら、学問など犬に喰われてしまえば良いんです。そんな学問やる位なら、普通に生活しながらコミュニティ運営なり運動なりやっていた方がよっぽど良い。

でも一方でこのようなやり方ではない学問も存在します。常にその時抑圧されている者の側に立ち、今までの知的資源を活用しながらも時にはそれを捨て去ることを厭わず、人々に対し教えるのではなく人々と共に対話することによって、色々な手法(もちろんその方法の中には「研究」も含まれるでしょう。ですがそれ以外の方法もあるし、もしその「研究」という方法が益ではなくむしろ害をもたらすのなら、何の未練もなくその方法を捨て去ります)を使いながらより有益な方向を探そうとする、そんな「学問」もあるのです。そして、その様な学問こそ、真に目指すべき方向ではないのでしょうか?

補論:モヒカン族と文言単独主義

さて、しかし何でこういう「法律(勧告)で決められているんだからそれに従ってさえいれば良い」なんて人、つまりモヒカン族が増えてしまったのでしょう。彼らは言います。「今までの日本はムラ社会によって『言わなくても察せ』という圧力によって言葉を抑圧してきた。だがインターネット社会によってそのような言葉を軽視するようなムラ社会は消えて、文言のみで判断する時代がやってきたのだ。これは好ましい変化であり、決して避けることは出来ないのだ!」と。確かに今までの日本のムラ社会というのはかなりそれに適応できない人間にとっては辛いものであったのは事実でしょうし、それに対する指さし機能としてならば、「モヒカン族」とか「リンクは絶対に自由」という様な言説は意味があったでしょう。しかし一旦この様に支配的な位置に立ったならば、その様な文言単独主義はちょうど昔のソビエトの共産主義や現在のアメリカのアメリカ式自由主義の様に、人々を抑圧し始めるのです。

本当にこれは全く当たり前のことなのですが、文言というのはそれを使用する社会・文化を無視して成り立つことは出来ません。例えば既存のリンクの自由を擁護する言説というのは、主として例えば新聞社などの既存の大勢力に対し対抗する為に編み出された言説であり、その頃はメンヘル系のホームページなどは出来てさえ居なかったというようなことを、文言を操る際には絶対に注意しなければならないのです。しかし文言単独主義ではそのようなことは考慮されず、文言のみで絶対的な定義があるかのように文言を扱います。モヒカン族は良く「言葉の定義をきっちりしろ!」と言いますが、しかし時代背景・文化・社会状況などから遊離した定義を作るなんて不可能な訳で、使われる毎に文言というのは新しい定義が生みだされていくと考えるべきなのです。もしそれを無視するならば、それは文化などの様々な多様性を否定すると言うことなのですから、文言単独主義は、ムラ社会の最も悪しき特徴の一つである単一化圧力をも生みだしかねないのです。


*1: こんな言葉を安易に吐く人にメンヘル系のことをきちんと研究できるなどとはとても思えない

*2: ISBN:4785921250より