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2005-07-13


[情報社会論]お話にならない方の批判にお答え

(id:rir6:20050710:1120937549の続き)

色々前回の記事に対して反論があったんだけど、その内容はまさに玉石混合な訳で、とても手強い批判(だがこちら側に勝ち目が無い訳ではない)もあればまったくお話にならない批判もある訳です。で、それらへの批判を一緒くたに同じ記事に書くのはちょっと閲覧者に親切でないと思うので、まずはお話にならない方の批判に対してお答えしておこうかなと思います。ですから、この記事は書かれた当事者以外にはそんなに読む価値はないでしょう。(でも「まとめ」はちょっと見て欲しかったり)

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Webの精神なんてありやしない

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法律とか(本来無関係なものを)持ち出すから、余分に反発をかうんですよ

「無断リンク禁止」がなぜナンセンスなのかは、法律の問題とは独立で、Web の本質がリンクだから。Web は、リンクが張り巡らされた蜘蛛の巣です。「無断リンク禁止」という主張ができる人は、自ら、Web がどういうものか「理解」していないことを告白しているに過ぎません。リンクを禁止するということは、Web そのものを否定すること。リンクを禁止したいのでしたら、Web じゃない、別の何かを発明して、そこでやってください。それだけのことです。

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はっきり言います。物に精神などありません。精神があるのは人間だけです。そりゃあ確かにWebはそれを作り始めた人にとってはリンクが張り巡らされた蜘蛛の巣かも知れません(というか何で「無断リンク禁止」が即「全てのリンク否定」となるのか全く意味不明何だけど)。しかしそれはあくまでWebを最初に作った人々の精神であって、Webの精神では無いのです。よってその様な精神を参考にすることはあったとしても、その精神に盲目的に従う根拠は全く無い。だからWebの精神なんてことを言うのは、ただ自分で主体的に判断するのを放棄してるだけなんですね。

そしてこれは僕の記事に対する他の反論にも言えます。例えばYEAH: 無断リンク禁止という主張の心理的作戦サイトでは空気を吸うがごとく、リンクを張り続けると言いますが、サイトは呼吸しませんよ。リンクに許可を求めるサイトだってあるし、リンクを貼らないサイトだって一杯あります。ウェブを作るのは私達自身なのです。

根拠無き恐怖による扇動

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しかし、「リンクの自由」にいちゃもんをつける議論で、常に違和感を感じるのは「晒し者にする」「晒しあげる」等という表現だ。

出典を明らかにして引用することは正当な慣行であり、晒し者にするなどということではない。「ここでこのことが書いてあった」というかたちで、他者の意見を自由に参照することができなければ、あらゆる報道、批評、学問は成り立たなくなる。まさにそのことを侵害するから「無断リンク禁止はナンセンス」と言っているだけなのだが。

インターネットは、良くも悪くも異なる意識を持つ他者が出くわしてしまう場所である。そうであるなら、身勝手なローカルルールなどではなく、より上位の法律や原則が参照すべき点になることもあるだろう。

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どーも。「リンクの自由」にいちゃもんをつける人です:-p。正当な慣行と言いますが、例え過去において世間で正当となっていたとしても、世の中は常に変わり続けるのだから、それが今本当に正しいかどうかは常に反省されなければないでしょう。正当な慣行晒し者にするというのではないという証明はそれが正当であったという事の内にはありません。そして、僕は実際リンクを望まない人々がリンクされているのだから、それは「晒している」ということであると考えるのです。

「ここでこのことが書いてあった」というかたちで、他者の意見を自由に参照することができなければ、あらゆる報道、批評、学問は成り立たなくなると言いますが、何故僕は無断リンクを禁ずるメンヘル系の個人ページへの無断リンクを問題としているのに、それがあらゆる他者の意見へと曲解されるのでしょう……あなたは人の立場を見て自らのやり方を変更するということをしないんですか?

更に、例えこの「他者の意見」を「無断リンクを禁ずるメンヘル系の個人ページ」へと置換してこの文を読んでみてもこの文は全くおかしいんですね。だってこの世には引用元に許可を取った報道、批評、学問だって幾らでもあるのですから、あらゆる報道、批評、学問は成り立たなくなる何ていうのは根拠のない恐怖以外の何物でもありません。ま、「恐怖を与える」というのは人を自分の言うとおりにさせるのに一番有効な手段である訳で、そういう意味ではこの人は一流の扇動家と言えるでしょうな。

人と対話することを拒否し法の壁に引きこもる人

インターネットは、良くも悪くも異なる意識を持つ他者が出くわしてしまう場所である。そうであるなら、身勝手なローカルルールなどではなく、より上位の法律や原則が参照すべき点になることもあるだろう。と言いますが、異なる他者にあったなら対話すべきなのです。まぁこれ(他者との対話)については後の方でもう一回書きます。としても、この文章には次の様な答えが出来るでしょう。rahiem氏は「より上位の法律や原則が参照すべき」と言いますが、法によって他者の文句を封じることが出来るとしても、その文句を封じているのはあなたであり、それ故それは決して法律ではなく、あなたの倫理からしか説明することは出来ないのです。法律の間違った紹介はもういい加減にやめにしましょうよ。何故あなたは相手に対し「許可を取る」というコミュニケーションを取ることを病的に恐れるのか?その理由を説明してくれませんか?

何故「しょうもない研究」と言えるのか

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あなたが、その研究をしょうもないと思ったり、晒し者になると思うのは勝手ですが、それってあなたの主観ではないですか。確かに無断リンク禁止と書いてあったなら、もうちょっと深読みして、研究目的に使いたいですぐらい言ってもよかったかもしれません。でも、あなた個人の感想を、あたかもしょうもないものとして思わせるような文の書き方はよくないと思います。

(略)

ネットは制限をかけていない限り、公共のものです。公共の場所に置いてあるフリーペーパーを、誰が読もうと勝手だと思います。そのフリーペーパーの前に陣取って、「あなたにはみて欲しくありません」というのは、それがそののフリーペーパーをつくった人でも、どうかと思いますよ。

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この人は結構手強い批判も書いているんだけど、それについての反論は次回の記事で書こうと思いますので、まずはお話にならない方から……

あなたが、その研究をしょうもないと思ったり、晒し者になると思うのは勝手ですが、それってあなたの主観ではないですかと言いますが、しかしこの主観が決して根拠無きものではないと言うのは僕の前回の記事を見れば分かるはずです。「リンクの許可を取ろうともしない」人はその研究対象の苦しみを理解しようともしないのだから、そんな研究では絶対に研究対象を助けることは出来ません。何の役にも立たなく、ただ研究対象に苦しみを与えるだけの研究が、何故「しょうもなくない」と言えるのでしょうか?僕には分かりません。

公共の場所に置いてあるフリーペーパーを、誰が読もうと勝手だと思います。別に「無断リンク禁止」は見ることを規制してる訳ではありません。紹介することを規制しているのです。更に言えば、Webというのは確かに最初は不特定多数に情報を発信する為に作られたのかもしれませんが、今はそうではない使い方をしている人も一杯居るわけです。全てのWebが「フリーペーパー」であるべきだなどという根拠は、Webの精神なんてものが否定される限り成り立たないのです。

何も邪魔されてないのに「邪魔」とはこれいかに?

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リンクポリシーをどうのこうの言っているblogがあった。

自分としては、「いまさら?」と、思うんだけど本人たちは必死らしい。

Webに上げた時点で全ての人に見ていいと言っているわけなんだし、リンクもしていいわけだよねん。

よく、インターネット内を実社会にたとえる人がいるけど、そのたとえで言うとこうなる。

「インターネット内も実社会と同じで、他人に迷惑をかけてはいけない。」

でも、リンク禁止とか見ちゃだめとか言っているのは、

「道の真中で立ち止まって長々と話しているのと同じ。」

それくらい、滑稽なんだよね。邪魔だから注意しようとすると、

「ちょっと邪魔じゃ...」

「邪魔しないでください、誰にも迷惑かけてないじゃないですか。」

と、なるわけね。もっとわかりやすく言うと、人通りの激しい通りで屋台を出しているのに「いや、ウチは一見さんお断りだから。」と言う大将くらい変。

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今までの記事ではまだ少しは意味が分かったけれど、この記事は全く意味不明です。僕がネットに「無断リンク禁止」と書き込むと、あなたのネットサーフィンが邪魔をされる?通信速度でも遅くなるんですかねぇ……どういう風に邪魔されるというのか?そもそもそのような邪魔は道が有限だから存在する訳で、そもそもインターネットは通常の町みたいに三次元空間に構築しているのでは無いんだから、道は無限にあるんですよ。それなのに「邪魔」になるとは、一体どういうことなのか???

誰かこの記事の意味が分かる人は説明お願いします(真面目に)……しかも二つもTrackback送ってるし、自分が何の理由もなく「邪魔だ」と感じるだけで邪魔になるんだったらこっちの方がよっぽど邪魔ですよ:-)(*1)

はてなブックマークの批判に対して

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2005年07月11日 id:ekken 『[link]無断リンク禁止は、リンクの自由を迫害しているんだよ。』

2005年07月10日 id:matsunaga 『[モヒカン]被害者の側に被害者でもないのに立って「弱さ」を武器にする卑怯者』

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リンクの自由を迫害って「侵害」の間違いだろうか?ま、法律的観点からはもう何度も言ったからそれを指して「侵害」なんて言っているのではないと、一応僕の文章の文脈を読んでくれたという希望を持って反論すると、例えその相手のページに「無断リンク禁止」と書いてあったとしても、それを守るかどうかはあなたに任されているのです。あなたがもし自らの倫理によって「無断リンク禁止」と書いてあるメンヘル系のページにはリンクしてはいけないだろうと思ったとしても、それは決して「無断リンク禁止」という文に自由を侵害(迫害)されたわけではなく、自ら自分の「無断リンクをする」という権利を放棄したのです。それは決して自由の侵害などではなく、むしろ「『無断リンク禁止』と書かれているページへのリンクをしない自由」の行使なのです。

次にid:matsunaga氏の被害者の側に被害者でもないのに立って「弱さ」を武器にする卑怯者という批判ですが、では飢餓に苦しんでもいないのに飢餓に苦しむ子供の為に飢餓の実体を訴え、募金をしようと呼びかけることは卑怯なのか?戦争に苦しむ人々の為に戦争の悲惨さを訴えて「戦争を止めろ!」と訴えることは卑怯なのか?……結局ね、こういう意見を言うid:matsunagaみたいな人っていうのは、自分が被害者の側に立たないということを「被害者の側に立つことは禁じられているんだ!」と言うことによって言い訳しようとしているのであって、そっちの方がよっぽど卑怯者なんですよ。僕はこの文に対しては特に頭にきているので、この文がどういうことなのかきちんとid:matsunaga氏に説明してもらいたいものです。

まとめ

まず言うと、僕は別に「『無断リンク禁止』というメッセージを見たら絶対にリンクするな!」と言っているわけではありません。ただ「『無断リンク禁止』というメッセージを見て、そのメッセージが切実なものだと感じたらそのページ主と対話をしよう!」と言っているのです。ですから、例えば新聞社などの公共(*2)メディアのページへは「公共性と無断リンク禁止は矛盾する」という考え方から無断リンクを容認します。

しかし何度も言いましたが、Webにアップロードしたからって、それを行った人がそのアップロードしたコンテンツに「公共性」を認めたというのは―Webに精神なんて無い以上―余りに乱暴な議論なんです。そしてそれ故に、そのような公共ではないページでかつ『無断リンク禁止』と掲げ、そして更にその理由に切実性が認められるんだったら、まずはその管理人と対話をすべきだと思うのです。

しかし何故か「『無断リンク禁止』は絶対的に無視して良い」と叫ぶ人々はそれを拒否します。ここで重要なのは、彼らが拒否しているものが対話だということです。つまり、対話を拒否しているのは「『無断リンク禁止』は絶対的に無視して良い」と叫ぶ人々なのです。ここの所を勘違いしている人が余りに多かったのがとても残念です。

更に言えば、僕はもしリンクについて管理人と対話して、リンクを拒否された場合にも、きちんと深く考えて本当にそのリンクによって生じる不利益より利益の方が多かったら、例外的にリンクして良いと言ってるのです。何故か?結局殆どの人間は、例えどんなに自分で「真剣に考えた」と言っても結局一人で考えているときはその思考は浅い水準に留まります。しかしリンク先と直接対話することによって、自分がやろうとしているリンクは本当に人々を幸せにするのか等のことを深く考えられるのです。これはむしろ研究者、いやリンクを含む様な記事を書こうとする全ての人にとっては天啓であると言っても良いでしょう。その意味で、僕はむしろ「無断リンク禁止」という言葉には対話を促進させ、人々を幸せにする力があると考えます。(*3)

僕の意見を指して「ムラ社会的」と言うひとが居ます。が、村社会においては対話はありません。もちろんだからといって自分のことを「モヒカン族的」だとは全く思いませんが、しかし僕は「モヒカン族」でもなく「ムラ社会」でもなく、「人間」として、異なる他者と対話しながらインターネットを利用したいと思います。確かにその道は「モヒカン族」や「ムラ社会」と比べて遙かに難しいかもしませんが、しかしそれこそが、僕にはもっとも真っ当な道に見えて仕方ないのです……

[情報社会論][思想]ただ叫び続けるのだ、モヒカン族やムラ人ではなく「人間」として

(id:rir6:20050713:1121198432の続き)

そしてまた別のある人は言う。「もう人間に期待するのは無駄なんだよ、アーキテクチャによって人間を物理的に排除しなきゃ、あなたが不利益を被るんだよ?」と。そしてそれは事実なのだろう。人に希望を持つのは間違いだ。でも、それでも僕らは「人間」として人を信じるのだ、例え何度裏切られたとしても。僕らは人を信じ、対話しようとする。何故か?僕らは「人間」を(非論理的に・不条理に)信じるからだ。

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モヒカン族は実は良い人なのかもしれない

さて、前回の記事(id:rir6:20050713:1121198432)ではしょうもない批判に対する反論を書いた訳ですが、しかし実はそういう批判は割と少数な方だったんですね。ではどのような批判(批判と言うよりは指摘なんだけど)が多かったというと、↓

彼らが言うことには「raheim(id:adore)は本当のモヒカン族ではない。そもそもモヒカン族は人の倫理なんていうもの(*4)には踏み込まず、ただ技術的に問題がどうやって解決するかを提示するのだ。例えば今回の『無断リンク』禁止問題で言えば、『無断リンク禁止は倫理的に良くない』と言うのは偽モヒカン族で、本物のモヒカン族は『SNSやパスワード制という方法の方があなたの望みを叶えられますよ』と提示し、そしてもっと楽な方法があること゛を示した以上、無理にその『無断リンク禁止』という方法を使って不利益を被っても文句は言えませんと言うのです。何故ならインターネットにおいては人々の倫理観に期待することは殆ど夢想に近いことなのですから。」ということだそうで、もちろんそういった指摘に対し「猿虎日記:公共性の名の下に行使されるムラ社会的暴力」のコメント欄での議論の様に「でもそうやって主張する(*5)ことによって結局本物のモヒカン族は偽モヒカン族を擁護(*6)しているじゃないか」という反論も出来るでしょうし、またそれはとても重要な問題ですが、しかし僕はあまりその反論に期待は寄せないんですね。だってその問題は本物のモヒカン族か自分の文の最後に「※なおこの文はどのような倫理に与するものでもありません」というようなことを書けば解決してしまうんですから。

では他の論法によってこの自称本当のモヒカン族の主張に反論できるか?これがなかなか難しいんです。だって彼らは別に「無断リンク禁止」を批判しているわけではないんですから、彼らはただ「こうすればもっと君の望みが叶えられるはずだよ」という風に指摘してくれているんですから、彼らにまったく悪意は無い訳で、その意味ではモヒカン族は実は良い人であるとも言えるのです。さらに別に彼らは「無断リンク禁止」と掲げることを絶対に駄目と言っている訳ではないのですから、別に僕は彼らの主張を受け入れても一向に構わない訳です。

でも!それでも僕はどうしても彼らモヒカン族に反発してしまうのです。もとよりその反発がモヒカン族に分かるなどとは思いませんが、とりあえず出来る限りその反発について説明してみましょう。(※注意:ここから先↓は「最後に」まで思想カテゴリのエントリです。

何故「無断リンク禁止」を掲げるサイトはSNSやパスワード制に移行しないのか?

彼らは言います。他人にリンクされたいのならSNSやパスワード制に移行すれば良いと。これは確かに正しい。事実多くのメンヘル系のサイトがSNSであったりパスワード制を取っていたりする訳で、確かにそんな中でSNSやパスワード制に移行せずに未だに「無断リンク禁止」を掲げるだけのサイトは余程技術に疎いか、さもなくば面倒くさがっているだけと取られてもしょうがない面もあるでしょう。

しかし本当にそれだけなのでしょうか?確かにSNSやパスワード制は外部の人々をシャットダウンし、審査制により好ましい人間だけをそのコミュニティに参加させることが出来るという点で、まさにメンヘル系のサイトに適した性質を持っているかのように見えます。しかし僕は思うのです。本当にメンヘル系のサイトは「他者を排除すること」だけを考えているのだろうか?いや、実はそうでは無いののではないか。実はメンヘルほど人を強く求める人間は居ないのではないか。そして、そのようだからこそ、逆説的に他人の視線に怯え、そして他者を排除しようとするのではないか。つまり、実は彼らは「他者に認められたい」という欲望と、それとは全く正反対の欲望、つまり「他者を排除したい」という欲望の二つを持ったアンビバレンツな存在なのです。そしてそれ故に彼らはメンヘルとなるのでしょう。だとしたら、やはり彼らの望みはSNSやパスワード制では絶対に叶えられないのです。

もちろんその様な人達に対しモヒカン族はこう言うでしょう。「そんなことになってるんなら、インターネットなんかやる前にさっさと治療しろ」と。何故ならモヒカン族は合理主義者ですから、そのような合理主義的に動かない物は大嫌いであり、そのような合理性の欠如の裏には何処かに故障があるのだから、それを治して正常になるべきだと考える訳です。そしてそれ故に彼らはともすれば↓の様にして「治ろうとしないメンヘル」、つまり偽メンヘルを批判します。

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[でも、メンヘラーは人間のクズ] トピック/レジュメ

(略)

総じて、メンヘラーというのは何が問題かというと、

己の病理の告白である。

ここで勘違いしちゃいけないのは

彼らは殉教者としてスポットライトを浴びようといているのでなく、

告白することのみが目的のなのである。

ただ、告白せよ、自らの傷口を晒せと、急き立てられるままそうする。

"メンヘル"とはそういうシステムなのだ。

彼らは殉教者にも見えるし、殉教者の仮面をかぶった偽善者にも見える。

一方は、自らもまた彼らの仲間になろうとするし、

また一方は彼らの迫害者になる。

そのような絶えず動くシステムの

傍目には、その全体がものすごく陳腐に見える。

リストカッターがこれだけいるのは実際ひどい問題だが、

傷口の写真やリストカットの話はネット上であふれてている。

まるで何かの自慢のように。

更には、それに倣って他人の気を引こうとする模倣者も出てくる。

そうすると、もう深刻さがどんどん薄れていく。

でも、やっぱりちょっと論旨はふらついておる。

追記

僕はでも一応治療者志望だから、将来治療者になったとき多分そういう人達は治せないし、そういう人は治ろうともしないだろうなぁ、と、思っちゃうから嫌いなんでしょうね。

# cio_lunacy 『この場合の追記の「そういう人達」というのが全てのメンヘラーを指しているのでは無い事を祈りますが、

>多分そういう人達は治せないし、そういう人は治ろうともしないだろうなぁ、

>と、思っちゃうから嫌いなんでしょうね。

そういう医者は多いんでしょうね、きっと。

(略)

私みたいにがんじがらめな人間もそうは居ないだろうし今後「なんちゃってメンヘラー」や露悪的な心配してもらいたがりな孤独病の人は増え続けるだろうし、そうなったら治りたいと思っている人も掬い取られる事がなくなる世界になるんでしょうかね。』 (2005/07/12 13:54)

# VanDykeParks 『

(略)

>cioさん

>そうなったら治りたいと思っている人も掬い取られる事がなくなる世界になるんでしょうかね。

そうなっちゃうから、ホントに治りたいならメンヘラーなんて

軽い言葉を使うのは止めてくれ、と僕なんかは思っちゃうわけです。』 (2005/07/12 15:03)

>

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しかしちょっと待ってください!成る程、確かに「治療者の論理」としてはそれは全く正しいものでしょう。しかし、治療者にそういう論理があるのと同様に、メンヘル、いや(*7)、偽メンヘルにも偽メンヘルの論理があるのです。話を聞いた後、「やっぱりそんなのは甘えだ!」と思ったりするのは自由です。でも、まずは話を聞きなさい!(*8)

偽メンヘルとは何か

偽メンヘルとは例を挙げれば「なんちゃってメンヘラー」や露悪的な心配してもらいたがりな孤独病の人であり、リストカットで他人の気を引こうとする模倣者であり、治ろうともしない人です。そしてそれ故に治療者(*9)は彼らを「治りたいと思っている人も掬い取られる事がなくなる世界」にしてしまうとして忌み嫌います。しかし一方でムラ社会からも疎外されます。結局、ムラ社会の人っていうのは対話をしませんから、「無断リンク禁止」と書いたらリンクを止めてしまうのであって、メールなどで許可を取るなんて事は殆どありません。結局、彼らは同じ偽メンヘル同士でリンクし、そして闘い合います。まさに一方は、自らもまた彼らの仲間になろうとするし、また一方は彼らの迫害者になる。そのような絶えず動くシステムなのです。当然その様子はその全体がものすごく陳腐に見える訳です。僕もそれは痛いほど見てきたから良く分かります。

{というか僕自身自分が偽メンヘルで無いと言い切ることはできない、むしろ「自分は偽メンヘルだ!」と行ってしまった方が良いのかもしれません。散々気狂いじみた振りをして記事を書くけど、そのくせ本当に一線を越えることは絶対にない、というか振りすらまともに出来ていない。「日常が地獄だ」というけれど、そのくせ別に周りの環境に恵まれていないわけでもなく、普通の家庭と普通のがっこう、そこそこの幸福に包まれた生活を送る。「反逆せよ!」と言う癖に親や教師には従順、また、逆から見ればそこそこ幸福な生活で学校でも普通に過ごすのに、インターネットでは変なことを書き散らす。ネットと現実、どちらの方向から見ても、僕は偽物にしか写らないでしょう。僕に「本物」などあるはずもない。結局ここに書いていることだってどこかの歌や思想の受け売り、何一つとして「自分で掴んだんだ!」と言える様な物はない。僕は全てが偽物で出来ているんです。そんな僕に果たして偽メルヘンとの差異があるのか!?(*10)まさにhttp://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks/20050711/1121113913の偽メンヘラへの批判は僕への批判なのだ。}

陳腐な偽物

しかし僕は―僕自身、偽メンヘルと極めてよく似たメンタリティを持っているからかもしれませんが―そこに人間の真実を見てしまうのです。結局、どんな不幸も世界的レベルで見たら陳腐な物に過ぎない。いや、実は不幸に限らず全てが陳腐なのだ。どんなに歴史が進んだって人間の世界からは差別や闘争は無くならない。何故ならそれが人類の存立条件であるから。(*11)というか人類も実はどうでも良いのだ。結局全ては存在するのであって、そしてそれは常に変化し、何一つ確かなものはない。だとしたら、一体どんなものが「陳腐」で無いと言い切れるのか?「世界」以外には何もない。そしてそれ故に、全ての物は決して「世界」には逆らえないのだ。

人間なんてものは、「世界」の構成物の一つであり、「世界」の出来の悪い模造品に過ぎない。人間という存在、それこそがまさに陳腐な偽物であると言うことも可能なのだ。

モヒカン族やムラ人ではなく「人間」として

そして、それに気付いたとき人には三つの選択肢が現れる。いや、実際には二つと言っても良いのかもしれない。まず一つ目は全ての物が陳腐であることを認めた後、でもそれでも「世界」は存在し腐っていないとして、「世界」の赴くまま、つまり自らの欲望を最適化・合理化し、そして「世界」の望む方向、つまり無理がなく「世界」が存在できる方向へと動くということ。「世界」の存在には必ず変化が必要だから、彼らは一見して改革者に写る。まさにモヒカン族です。

そして次にもはや既に全ての物が陳腐であると分かったのに自己欺瞞によってそうではなく、この世には陳腐ではない物が存在するのだと思うこと。この自己欺瞞に陥ると、その彼らの脳内に妄想としてのみ存在する「陳腐でないもの」から全てを判断しますから、かなりナショナリスティックになり、その「陳腐でないもの」という考え(*12)を共有しないものにはとても許容度の低い集団が出来ます。これは多分皆さんお分かりになると思いますがムラ社会です。

しかし……いや、もしかしたら、というか十中八九幻想なのだが、しかしそれでも否定形で「存在しないもの」として現れる選択肢(*13)が現れるのだ。それは「無への欲望」です。つまり、全ての物は陳腐であり、そして「世界」すらも陳腐である。それが故、私達は全ての物と世界から自らを解き放ち、世界の外へと志向するのだ……そういう欲望です。

この欲望はまずその源泉としてある誤解・錯覚を抱えています。つまり、この欲望に至るにはまず前段階として、唯一確かに存在するものとして「世界」を認識しようとするのです。が、しかし人間の認識というのは絶対に「世界」そのものをそのものとして認識することは出来ません。何故なら「世界」は全であり、「世界/非世界」を保つ境界線などある訳がないのですが、しかし人間の認識というものはその本質として境界線を引くものであるので、「世界」を認識しようとするとありもしない「世界/非世界」を保つ境界線を作るより他無いのです。そして、一旦境界線を作ってしまうと、「実は境界線の外に何かあるのでは?」という錯覚を引き起こし、そしてその錯覚により「無への欲望」が生じるのです。

この欲望は全てが否定形で進行します。その点では「否定神学」とも類似しますが、しかし否定神学よりももっと無茶苦茶であり、不条理であり、本物の「世界」とは違うものを目指す偽物である訳です。それ故に中に矛盾を内包し、最初の話に戻れば、「他者に認められたい」という欲望と、それとは全く正反対の欲望、つまり「他者を排除したい」の二つを持つ(偽)メンヘルを生みだしたりもします。しかし僕には、この「無への欲望」こそが「人間」に残された(残されていない)最後の道のような気がしてならないのです。そしてそれ故に、彼らはそれが矛盾を秘めた非合理なものであることが分かっていても、その「無断リンク禁止」を叫び続けるだろうし、僕もそれを擁護し、そしてモヒカン族・治療者・ムラ社会と(何の利益無く)戦い続けるのです。

最後に

さて、ここまで辛抱強く読んでくれた人が一人ぐらい居てくれると嬉しいなぁと思うのですが、一体どうだったでしょうか。論理が破綻している?これこそ「お話にならない」文だ?全く正しい感想でしょう。ですが一方で、上記の様な破綻的な思想でもそれを信じる人が居る。それもまた本当のことなのです。あなた方モヒカン族は人間が全て合理的に、自らの利益の為に動くと思っているかも知れません。しかしそれはあまりに楽観的でしょう。上記の例は極端でしたが、人間という物は「錯覚」にとても騙されやすいもので、人間は本当は自らの利益の為に動くべきなのに、「錯覚」によってある不条理な思想を信じて自らの利益を投げ出し、他者と対話しようとしたり他者と何の利益無き闘争をしたりするものなのです。もちろんその思想は「不利益だから」という理由で簡単に論破出来るのですが、しかし例え論破したとしてもそれを信じる気持ちは変わらない場合が殆どなのです。あなた方は言います。「倫理を共有することが不可能になる以上、倫理に頼って何かやろうなんて馬鹿なことは無くなるだろう」と。しかしそもそも私達は利益を得る為に倫理を守っているのではなかったとしたら?私達は「合理的」だからその倫理を選んでいるのではないとしたら?貴方達がどうするかは自由だ。あきれるのも結構。ハンドアックスとか訳の分かんないもので掃討作戦に乗り出すのも自由。しかしどんなにあがいたとしても、僕は倫理を信じます。そして例え何も利益が無くても不条理に「倫理」を信じ、それに基づいて他者と対話しようとするでしょう!


*1: 皮肉

*2: ただ「インターネット空間にある」という理由ではなく、「それ自身が『公共的である』ことを志している」という理由から

*3: もちろんこれは私的な場合で、公共的なコンテンツを書こうとするのなら「無断リンク禁止」は害悪としか成り得ないのだけれど

*4: =コンテクスト

*5: 外部における内部のコンテクストの効力の無効を指摘

*6: =外部のコンテクストに一方的に利する

*7: 実の所僕は本当に苦しくて楽になりたいと心の底から思ってるメンヘルに対してはあまり興味はないのだ。そういう人達はそもそも「無断リンク禁止」とか言わない気(←根拠は全く無い)もするし

*8: イタイトコロヲツカレテアセッテルショウコ(w

*9: 彼らの多くはモヒカン族なのだろう

*10: 「同情はしないわよ」という突っ込み希望。あぁ陳腐な註釈……

*11: 参照

*12: =コンテクスト

*13: 自己矛盾に陥ってるのは承知の上!