Rir6アーカイブ

2005-07-19


[思想]認めるけど、許さない―歴史化した「僕」に向けて―

などより

http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.html

僕は、君(=自己批判を書いた2004-12-31 10:14:08のころのRIR6)を認めるよ。君の発展型として僕はあるのだし、そうである以上、僕が君の考えに対し反論することが出来る訳がない。きっと君はそうやってずっと歴史化(*1)された位置から僕を監視し、そして他者の文に乗り移って僕を断罪し続けるのだろう。

でも、僕は決して君を許さない。例えその反抗がどんなに意味が無く、無効だとしても、僕は君を裁こうとし続ける。人は言う、「歴史は裁けない」と、それは確かに事実だ。だが、だとしても私達は歴史を裁こうとし続けなければならないのだ。何故なら、それこそがまさに歴史に責任を持つということなのだから―

※結論だけ読みたい人は「まとめ」を読みましょう

====

世界は汚い

成る程、確かに君の言うとおり、(僕を含めた)人は他人の苦しみを消費し、そしてそのことによって生きている。きっと君は、そのことに気付かず呑気に「自我」だのなんだの言ってる以前の自分が許せなかったんだと思う。だから君はあの記事を書いた。多分君はまず最初に他者を批判しようと考えたんだと思う。つまり、TVのニュース番組とかで何もその事件には関係が無いにも関わらず、安易に「被害者の悲しみが良く分かります」とか言ったり、まるで自らに許す/許さないの権利があるかの様に「犯人は絶対に許せませんね」とか言う人達が許せなかったんだ。そして、結局その人達だってそうやって残虐なニュースを報道することによって給料を得てるんじゃないか。だとしたら、結局そうやって言ってる人達もその残虐な事件によって利益を得ている、いわば苦しみの消費者じゃないかと、そういうことを言いたかったんだと思う。

例えばhttp://mohican.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20050713/p1“他人”の弱さを“自分の”武器にするが許せなくて、他人の弱さを他人の武器する奴らなら許せると言うけれど、何故戦争に苦しむ人々の為に戦争の悲惨さを訴えて「戦争を止めろ!」と訴える人達が許されて“搾取されている”労働者を煽って資本家を罵る共産党員が許されるのか、はっきりいってそれは全く印象論でしかない。結局平和を訴える人だって自らは平和の内にいるのだから、資本家を糾弾する共産党員と何が違うか?共産党員だって別にケンカを売ってみたいから資本家を糾弾しているわけじゃないのだ。結局、どちらも他人に感情移入して声を挙げているのだ。しかしそれに対し君は「結局それは感情移入する自分に萌えているだけじゃないか!」というふうに思った。

だけど君は(馬鹿だけど少なくとも)真面目ではあったから、それだけじゃ収まらなかった。じゃあそうやってそのことを記事にする自分はどうなんだと、そう考えてしまったんだ。そして君は深い闇に墜ちてしまった。苦しみの消費によって成り立っていた「自分」は崩れ落ち、後に残ったのはただ汚く流転する世界だけだった……

「自覚的である」ということはそれ自体には何の意味もない

でも君はだからといってそれを免罪符にすることは出来ないってことを知っていた。id:rna:20050714#p4で

そうかな? 彼はリンクしたり晒したりしてないし、自己批判っていっても「私は私の汚らわしい欲望に自覚的です」って話で「自覚的じゃない奴を批判する資格が私にはある」という宣言としても読めるような。

彼が言ってるのは「リンクの自由」の大義を掲げて汚らわしい欲望を正当化するなって話なんじゃないの?

と言われているけど、残念ながらそれは違う(というか指摘されるまで「自己批判」の記事のことは全く忘れていて、id:hotsumaに指摘されたときは正直過去の古傷をえぐられたみたいで辛かった(*2))。大体、自覚的であろうが無かろうがそれだけではあくまで自分の中の自己満足でしか無いのだ。自覚的であるというただそれだけの理由で自分の欲望が免罪されるなんてことは全く無いのだ。だから僕は「そうだよ俺は汚いよ」とか言いながら、それが免罪符であるかの様に他者の不幸を欲望するような確信犯も大嫌いなのです。

また、確かに僕はリンク晒しはやっていない。が、その代わり既に公然なニュースになってしまったことに対して言及をしてきた。「自己批判」においてはまさにそれを批判していたのであって、あくまで「自己批判」の文章は自己批判だったのだ。

何もしないことが最善なのか?

でもね、僕はそのようなことを認めた上で、それでも敢えて君に言いたい。君はあの記事であたかも「何もしないこと」が最善であるかの様に言ったけど、でもそれは間違ってる。君が何もしないということは、君がこの他人の不幸をもとにその構造を保とうとする世界を許容するって事だ。確かに結局どんなに以前の僕が「世界への反抗」を叫んだって、結局それは世界の存立に寄与するものであったことは疑いようのない事実だ。だけど、何もしないってこともまた「『何もしない』ということをする」ということであり、それだって世界の存立に寄与するものなんだ。静寂主義は決して世界を否定するということではなく、むしろその反対である。もちろん君にこの汚い世界の構造を容認する気があるなら別だけど、でも僕は知っている。君はそんなことは絶対に出来ないということを。

認めるけど、許さないということ

確かに君=僕が他人に触れるとき、そこには「人は他人の苦しみを消費し、そしてそのことによって生きている」という汚らしい構造が根源として姿を表す。それは紛れもない事実であり、どんなことをしても否定することは出来ない。

でも、本当にそれだけなんだろうか?成る程、確かにもし私達が世界の構造など理解することの出来ない動物であるとするならば、きっとそれだけだ。その構造は未来永劫世界を包み続ける。だが、僕達はその構造を認知することが出来る人間であり、そして、認知するということは、それを否定することが出来るということなのかもしれない……僕にはそんな「直観」が見えて仕方ないのだ。そして、これは多分君の頭の中にも有るはずだ。

「直観」をもっと具体的に言うとこうだ。例えば君は「結局他人の苦しみについて何かしらの形でコミットするなんてことは、結局自分の『他人の苦しみを消費したい』という欲望を満たすだけことなんだ」と言う。そしてそれは一面では事実だ。でも、だからといって何もしなくても他人の苦しみを消費していることには変わりないのもまた事実の一つなのだ。だから僕はさらにその先にあることを信じる。それは「他人の苦しみにコミットし、そして他人と対話する。そのことによって、もしかしたら僕は『他人の苦しみを消費したい』という欲望を克服することが可能なのではないか?」と。つまり、自らの内にある構造を、それを壊す為に稼働させるんだ。もちろん、これが上手く行くなんて保証はどこにも無い。もしかしたらその構造を稼働させることはどんな手法を使ったって構造維持にしか利用できないのかも知れないし、そのことによって更に多くの人を傷付けるかも知れない。でも、世界に「外部」なんてものは(少なくとも「外」には)無いのだから、もし壊すことが出来るのだとしたら、内側からそれを壊すこと以外方法は絶対に無いだろう。そして、もし本当にそ世界の構造を憎むのなら、例えどんなに可能性が低くても人はその構造を壊すことが出来るかもしれない方法を選ぶだろう。

これは「偽善」ではない

最後に、これは2ちゃんねらーどもが言う「偽善」とは全く違うものだ。確かに「善」の裏にある欲望が全く汚らしいものであることに関しては、2ちゃんねらーと「僕」は見解を同じくする(もっとも彼らは他人の汚らしさには敏感でも、自らの汚さには全く鈍感みたいだが:-p)。だが彼らは「偽善」ならばその汚らしさが無くなるかの様に勘違いする。彼らは言う。「自分たちは<楽しいから>偽善をやっているのであって、<可哀想だと思うから>ではない。だから私達の行為は許されるのだ」と。しかしそうだとしても<可哀想だと思うから>が汚らしい欲望であって、<楽しいから>が綺麗な欲望だなんていうのは全くの事実誤認だ。2ちゃんねらーは何故その行為を<楽しい>と感じるのか?それはみんなでやっているからだ。では何でみんなでやると楽しいのか?それは自らがその集団に属している=選ばれているという安心感を得る為であり、そしてその安心感は何者か(*3)を排除することによって生まれるものだ。だとしたら、それもまた<可哀想だと思うから>と同じように汚いものであることに、何の異論があるだろう?

だから僕は「偽善」を批判し、「善」を―それが自らの克服を視野においている限りにおいて―擁護するのです。例えば“搾取されている”労働者を煽って資本家を罵る共産党員という話が先ほど出たが、共産主義というものはその目標として「階級が消滅すること」、つまり労働者と資本家だったり、共産党員と非共産党員という区分けが無くなることを目指しているのであって、そしてその最終的な目標の為に過渡的に労働者に「(搾取されているという)自覚を持て!」と言っているのだ。(*4)(もちろんその方法が本当に正しいのかについては様々な意見があると思うけどね)。

君は、果たしてどう思うのだろうか?

まとめ―善について

最初「過去の自分との対話」という形にしようと思ったんだけど、やっぱりぐだくだになってしまい(*5)、ちょっと意味不明な文章になっているかもしれないので最後にまとめてみる。ま、これが論争記事でなかったら「分かる人にだけ分かれば良い」と出来るのだけれど、やっぱり曲がりなりにも他人への反論なんだからもうちょっとちゃんと書かなきゃ駄目だろうということで……

まず僕はこの文章で「人は他人の苦しみに対してどのような立場をとれば良いのか?」ということを主題においたのです。何故なら、RIR6は自分の為に他人の苦しみを利用しようとしているのだ」という記事に対して[http://mohican.g.hatena.ne.jp/kanose/20050714/gireiteki:title]のid:kanoseやid:hotsuma:20050714#p3のid:hotsumaは[http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.html">http://mohican.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20050713/p1:title]の「結局RIR6は自分の為に他人の苦しみを利用しようとしているのだ」という記事に対して[http://mohican.g.hatena.ne.jp/kanose/20050714/gireiteki:title]のid:kanoseやid:hotsuma:20050714#p3のid:hotsumaは[http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.htmlを出して「RIR6は他人の苦しみによって自分の欲望を満たそうとしてるだけなんだよ。だって過去にRIR6はそう言ってるんだから」という様なことを書いたので、これに反論する為には今一度自分の「人は他人の苦しみに対してどのような立場をとれば良いのか?」ということについての考えを整理しなければならなかったのです。

そして僕はまずhttp://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.htmlが僕だけでなく万人に通ずる(何でもいうが「私」なんて概念は無効になった)ことを示し、そして次に人を「他人の苦しみに対してどのような立場をとるか」で五タイプに類型化したのですね。

消費者
要するに「人は自分の欲望を満足させる為に他人の不幸を消費しているのだ」ということに気付いていない人々。過去の自分や、分かった顔して能書きを垂れるコメンテーターなどが含まれる。http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.htmlが批判したもの。
確信犯
id:rna:20050714#p4で想定された僕。「自覚的だから許される」という考え。でも自覚的である/無いなんてものが意味を持つのは、自分の内面が存立している限りな訳で、僕は「『私』なんて概念は無効になった」と思ってるのでこれも当然駄目
静寂主義者
「他人の苦しみに対して何かしようとしても全部自分の欲望を満たす為の行為になってしまうんだから、それだったら何もしない方が良い」という考え。脱正義論(ISBN:4877281282)とかに代表されるのかな。id:rir6:20040730:1113913519でいう宝島社な障害者観もその一つだったりする。また、本当に恥ずかしいのだがhttp://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.htmlを書いた頃の僕の考えでもある。「何もしない方が良い」っていうけれど、結局人はみなすべからく世界に生きているのだから、「何もしない」でも世界の構造によって他人の苦しみに欲望しているんです。そんなことにすら気付かない大馬鹿者の考え。
偽善者
「善」は「他人の苦しみに欲望すること」だけど、「偽善」は「楽しさを欲望すること」だから良いという考え。<楽しさ>だって結局は他人の苦しみによって成り立っているんだから当然これも否定される。2ちゃんねるの祭りなどが該当する。
革新者
そしてこれが今の僕の考え。「人は自分の欲望を満足させる為に他人の不幸を消費しているのだ」という構造を認めるが、しかしそれの構造を肯定して生きるのではなく、その「人は自分の欲望を満足させる為に他人の不幸を消費しているのだ」という構造を壊し、否定する為に敢えて他者の苦しみにコミットしようとする考え。もちろんただコミットすればいいのではなく、コミットがその構造の否定に役立つかどうか常に反省しながら遂行する訳で、そしてその反省の為には他者の視線と、それを知る為の他者との対話が絶対に必要なのです。

もちろん完全に人がこの五タイプに分かれるかは分かりません。例えばid:matsunaga氏はhttp://mohican.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20050713/p1戦争に苦しむ人々の為に戦争の悲惨さを訴えて「戦争を止めろ!」と訴える人達と“搾取されている”労働者を煽って資本家を罵る共産党員を分けている訳だけど、この区別は全く分からない。「弱者を盾にして自説を通そうとする」という態度と言うが、では戦争に苦しむ人々の為に戦争の悲惨さを訴えて「戦争を止めろ!」と訴える人達は「戦争を止めろ!」ということはその訴える人の自説ではないのだろうか?結局、id:matsunaga氏の言うことは―また「憶測メソッドを使ってる!」と言われるかも知れないが―「戦争反対者はみんなが良いと言ってるから良い、共産党員はみんなが悪いと言っているから悪い」というような印象論でしかない様な気がしてならない。

補論:「○○メソッド」という呼称について

最後にちょっと蛇足になるが、僕は「○○メソッド」という言い方も気にくわない。id:matsunaga氏は「憶測メソッドは絶対に悪い!」と言っている様だが、そもそも僕とid:matsunaga氏は同一人物ではないのだから、id:matsunaga氏がどんなに文で説明したってその真意が完全に僕に伝わることはありえないのだから、どんな会話であっても「憶測」は絶対的に必要であり、そしてその憶測は誤配可能性を産む。(*6)「憶測メソッド」はそのような誤配可能性から憶測を否定するが、前述の通り異なる他者と対話をするときには憶測は絶対に必要なのだから、「憶測メソッド」を否定することは対話を否定することと同義なのだ。モヒカン族が対話を嫌っているということは、彼らが「○○メソッド」という言葉を揶揄的に使うことからも明らかのである。

追記

id:rir6:20050719:1121701666はあくまで論争の相手がhttp://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.html:title]なんていう昔の記事を引っ張り出してきたから、本当はそんな記事全く関係ないはずなのにわざわざ関連づけて記事を書いたんであって、id:rir6:20050719:1121701666に賛同できなくたって[http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.html:title]をこの無断リンク禁止問題に関連づけしなきゃ何にも問題はないんであって、そもそも[http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.htmlをどうでも良いと思っている人にとってはid:rir6:20050719:1121701666は(補論以外)読まなくて良い記事何です。

もしhttp://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.html:title]を本当に真剣に取り扱おうとするなら、id:rir6:20050719:1121701666も真剣に読んで欲しいし、もしid:rir6:20050719:1121701666みたいな議論(補論は除きます)はどうでも良いと思うのなら、[http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.html:title]を今回の議論に適用しようなんて考えないで欲しい。最初に勝手に[http://rir6.blogtribe.org/entry-779b856e4dde41a506528d036b60b645.htmlを出しながら、じゃあ仕方がないからそのような記事みたいな議論もしてみるかとこっちが一生懸命恥ずかしいのを抑えてid:rir6:20050719:1121701666を書いたら「そんな議論はどうでも良い」と言うのは止めて欲しいです。


*1: =特権化

*2: ま、放置していたから仕方ないんだけど

*3: 2ちゃんねるの偽善で言うならば、「マジになっている奴ら」である

*4: これはあくまで理念的な話で、現実には、例えば日本共産党なんかはもうかなり自らの立場に安住してしまって、何処が「革新」なのかと問い返したくなるぐらいなんだけど

*5: ま、いつものことだが

*6: 例えばid:matsunaga氏が「リンゴ」という言葉を使ったとする。そしてもしそれに対し僕、が返答しようとするなら、僕は「リンゴ」という言葉から赤く食べると甘い青森名産の果実を憶測する。そして更に言えば僕は当然そのように憶測するが、もしかしたらid:matsunaga氏はそうではなく、例えば青リンゴだったり、マックを作っているAppleだったりを想定してその文を書いているかもしれない訳で、憶測を用いれば必ずそのような誤配可能性は生じる。