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2005-08-25


[教育]本当に野球部員達は「被害者」なのか?

http://www2.asahi.com/koshien/news/TKY200508220308.html

 篠原勝昌校長によると8月8日に3年生の部員の保護者から「息子が部長から2度にわたり30~40発殴られるなどした」と通報があった。翌日、調査したところ部長が認めたという。

 1回目は6月2日、早朝練習の際に平手で顔を数回殴り、2回目は8月7日、滞在先のホテルで夕食後にスリッパで頭を1回たたいた。部長は理由について、1回目は練習態度が不まじめにみえたため、2回目は夏バテ防止のための食事のルールをごまかそうとしたためと話しているという。

これについて何かマスコミや、そのマスコミのインタビューやBLOGなどで見る<善良な市民>の意見は「野球部員達は悪くない!(だから優勝取りやめとか優勝旗返還とかはおかしい)」という意見みたいです(脱・マンガ嫌韓流の記事を書くのを一端取りやめてこの記事を書いているわけだけど">*1)が、僕の主張はこうです。

今回の件に関しては駒大苫小牧高校や高野連はもちろん、一般の野球部員達も責任を持つ「加害者」である。故に駒大苫小牧高校野球部は優勝旗を返還して、この件に関して然るべき刑事措置(野球部部長の刑事告訴)&民事措置(暴力の被害者への賠償)をとるべきだし、そして高野連は(準優勝の高校を優勝に繰り上げしたりすることなく)今回の大会については、「優勝校無し」とすべきである。

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「体罰」の犯罪性とは何なのか?

さて、このように言うとおそらくこんな反論が<善良な市民>達からは向かってくるだろう。「野球部員が暴力を振るっていたわけではなく野球部部長が暴力を振るっていたのであり、野球部員は被害者なのだから、被害者なのにこの件に対して連帯責任を負うのはおかしい」と。確かにもし「体罰」の犯罪性を「先生から生徒への個人の暴力」という視点からしか見ないのであればこの主張は正しい。だが、「体罰」の犯罪性は(確かにそういう側面があることは絶対的な事実だが)それだけではないのだ(もしそれだけなのならば「体罰」というのはこんなに社会問題化しないだろう)。「体罰」の犯罪性というのはそのような直接の個人の暴力よりはむしろ、「学校」という閉鎖的集団によって事件がもみ消されるという集団の暴力、そしてもし事件が明るみになっても「一定の体罰は仕方ないよね」という意見が公然と語られるという社会の暴力が問題なのだ。

「集団の暴力」とはこういうことだ。もし通常の(喧嘩などで為される)暴力ならば、それの処罰はなかなか容易い。警察に訴え出て医師の診断書などを見せれば良いからだ。しかし教師における暴力の場合、これを処罰することはなかなか難しい。何故なら日本に於いて学校というのは(特に義務教育では)一端各人一人一人に一校割り当てられたら最後、余程のことがない限り変えることが出来ないものであり、そして変えることが出来ないものである以上、そこで属する人間は例え不平・不満があっても、その集団の掟には絶対に従わなければならないからだ。もし「学校」という集団の掟に違反したらどうなるか?そこに待っているのは学校組織からの絶え間ない(身体的・心的を問わない)暴力である。故に「体罰」の場合、被害者はそれが「体罰」であることが分かっているにもかかわらずに沈黙を強いられるのだ。これは明らかに集団の暴力である。

「社会の暴力」というものはなかなか明白だろう。例えば某イシハラ都知事なんかは未だにあの殺人学校を支持しているし、木村剛なんてTVにも良く出るケイザイガクシャは「体罰」を自らが行っていることを危機として自らのBLOGに書いている「体罰」に関しての滋賀県の世論調査では「仕方ない」という意見が「仕方なくない」とほぼ同率なのだ。これらの体罰支持者はみんな「社会の暴力」の加害者であると僕は断言する。

体罰というのはこの様に「個人」、「集団」、「社会」という三つの加害者によって被害者に為される集団リンチなのであり、故に体罰というものは通常の暴力よりもずっと犯罪性が高いわけだ。ではこの様に体罰を認識してもう一度考えてみよう。「野球部員は本当に『被害者』なのか?」と。

野球部員もまた「加害者」である

答えは明白だ。野球部員もまた「集団の暴力」の加害者なのだ。確かに彼らは直接は被害者に物理的暴力は行っていないかしれない。しかし暴力があったその現場で、見て見ぬ振りをし、被害者を自らの「甲子園」という目的の為に見捨てたのは事実なのだ。もし彼らがその暴力を見た時に一致団結して「暴力教師には付いていかない!」と主張すれば、暴力は繰り返されなかっただろう。もしかしたらその混乱によって甲子園に行けなくなったりしたかもしれないが、しかし暴力に対し見て見ぬ振りをして良いなんてことは絶対に無いのだ。

僕の「優勝旗を返還すべきだ」という主張に対し、「あなたは野球部員がどんなに優勝を大事にしているか知らないだろう!」と反論する人も居るかも知れない。だが、それに対し僕はこう返そう。「なら君は、体罰の被害者が一体どれだけ屈辱を味わったのか知っているのか!」と。どちらの心境も、TVの前で座る第三者である僕には決してわかり得ないものだ。だから僕は心境によって自らの主張を正当化しようとは思わない。だが僕は「正義」によって自らの主張を正当化する。暴力は絶対に許されることではない。暴力を行った人間は絶対に責任を負って処罰されるべきだ。そのような「正義」を遂行することこそが、絶対に心境を察知することの出来ない第三者に求められている責任なのだ。

主体としての「児童」の権利と責任

さて、最後におそらく僕の主張に対して出るであろう「野球部員達に対し『体罰を止めろと主張すべきだった!』と言うのは明らかに夢想的だ。野球部員達は先生に服従しなければならない生徒なのだから、彼らに何か主張する責任があるというのはちょっと無理があるだろう。」という意見に対して反論しておく。確かに僕も高校生であるから、先生という存在に対し何か文句を言うことはとても難しいことであることは分かっているし、僕だって時に何か言うべきなのに何も言わないということはある。だが、もしその何か言わなかったことによって重大な犯罪が起こったのならば、僕はその行為に対し責任を負って処罰を受けるし、また他の人もそうするべきだとも思っているのだ。何故か?私たちはhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/に書かれているとおり「児童」という権利主体であり、そして権利主体である以上、その権利を履行する「責任」を負っているのだ(*2)。

もちろんこの児童の権利条約が本当に誠実に履行されているとは例え百歩譲っても言えないこともまた事実だ。だがそれ(児童の権利条約を履行すること)は大人・児童含めた全ての人々の責任なのだ。責任が自らの弱さによって履行できないのならば、それに対して処罰を甘んじて受けるのはその履行できなかった責任を改めて負うための救済手段と言えよう。

もう一度繰り替えすが、駒大苫小牧高校野球部は絶対に優勝旗を返還し、この件を刑事・民事においてきちんと解決すべきである。もしこれが為されないのならば、それは甲子園出場時において為されなかった責任を再び負える唯一のチャンスを逃し、一生罪責にさいなまれることになってしまうのだ。


*1: そして僕はその意見に激しくむかついたために、脱・マンガ嫌韓流の記事を書くのを一端取りやめてこの記事を書いているわけだけど

*2: 良く「『権利』には必ず『義務』が付いてくる」ということを言う人が居るが、これは物事を一面からしか見ていない。「権利」に付いてくるのはその権利を正しく履行する「責任」であり、「義務」というのはその一形態に過ぎない。例えば「納税」に関しては私たちは政府に納税を徴収して社会保障を行わせる権利を持っているのであって、そしてそれ故に私たちは自らを含めた国民に納税(もちろんその「納税」は全員一律のものでなく、その個人の状況によって0になったり普通の人の百倍になったりする)させる責任を負っているのだ。その責任をみずからに適用した時「納税の義務」となるのであって、最初から納税の義務があるわけではない。