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2007-05-08

[学ぶ]学びを差別する人達

http://d.hatena.ne.jp/sava95/20070507/p1

こういう馬鹿親達が、勉強に苦手意識を持ってしまうような子供を作るんだなぁっていう、良いケーススタディだと思った。

「公園の遊び」が研究テーマに値しない??

A曰く・

子どもの学校でのこと。せいかつ科の授業で「ちいきしらべ」という校外学習の発表会があった(授業参観)。4~5人のグループごとに学区内で調べたいことを考え行く場所を決めて出かけ、発見(?)したことを壁新聞風に模造紙に書いて発表していた。学区内なら何でもいいらしく、発表は千差万別で驚いた。信号の数や場所を調べる、神社に言って神主さんのお話を聞く、商店街のお店の名前を調べるなど色々。その中に、公園に行って遊具でたくさん遊ぶ、というグループもあった。事前の準備を含めると相当の授業時間を使って、「公園で遊ぶ」という発表。先生は「子どもたちは自分たちで考え、協力して計画を立て校外学習に取組み、発表までなしとげました」と。しかし「公園で遊ぶ」にはどういう学びがあるのか。これが地域学習と言えるのか。

いや十分「地域学習」であると言えると思いますよ。大体もしそれが駄目だっつーんなら、中学校の自由研究で「ファーストフードの研究」と称して色々なファーストフードを食べ歩き、次の年には「テレビの研究」と称して夏休みに一日中テレビを見た僕はどうなっちゃうのよ。もしかして0点?きびしーっ!(*1)

・・・うーん。色々考えてみたけど、何故このA氏が公園で遊ぶということを地域学習ではないと主張するのか、いまいち分かりませんねぇ。だって、「公園の遊び」なんてものは、大学という学習の王道に位置するような場所のコンテクストで考えてみても、重要な研究テーマですから。多分論文検索のサイトで「公園 遊び」なんていうキーワードで検索したら、記事がどばばばって出てくるはずです(*2)。僕は去年大学の授業で「フィールドワーク基礎演習」っていう科目をやりましたが、そこで「公園の遊び」を研究テーマに選んでも、なんの違和感もなかったと思います。

「学習」と「勉強」の違い

あ、もしかしてこのA氏って、「学習」っていうのは、辛く厳しいものでなくちゃならないと思ってるのかなぁ。だとしたらそれは正反対で、むしろ「学習」っていうのは楽しくなくちゃいけません。もし自分にとってつまらない「学習」なんてものがあったとしたら、それは「学習」ではありません。「勉強」です。確かに「勉強」はつまらないのが当り前でしょう。でも「学習」は違います。むしろ「学習」っていうのは、それをする本人にとって面白いことが絶対条件です。ついでに言っておくとこれは僕の独自な意見などではなく、大学の先生たちが生徒にたいして口をすっばくして何度も言うことだったりします。

学習には独創性が大事

だから、もし僕がこの「公園で遊ぶ」という地域学習をした子供の先生なら、彼らを褒めたたえます。逆に、「神社の人に話を聞く」なんてことをぬかす子供たちにたいしては、「もうちょっと何か独創的で面白いテーマないのぉ?」と言うでしょう。だって、明らかに「神社な人の話を聞く」なんていうのより「公園で遊んだ感想を聞く」方が楽しいでしょうから。

更なる珍説:ディズニーランドは研究テーマに値しない?

C曰く・

子どもの通う小学校の修学旅行(一泊二日)は、一日目も二日目もグループごとの自由行動の時間があるとのこと。グループで行きたい所を選んで数時間を使う。だから、グループによっては神社仏閣・史跡のような「名所旧跡」には全く触れることのない修学旅行になるらしい。修学旅行で無理矢理その地の「名所旧跡」に連れて行かなかったら、一生行かずに終わるだろうに。

(略)

E曰く・

勤務する学校では、生徒の興味があろうとなかろうと、遠足は名所旧跡。グループ行動だが、神社仏閣・史跡に教員がいてチェックする。事前授業もかなりやるが、事後のレポートも出させる。生徒が喜ぶ・管理がラクという理由でディズニーランドなどに放牧する学校もある。生徒の選択に任せるのが、税金を使って将来の主権者を育てる公立学校としての立場なのか。譲れない部分を守るのは大変。

そもそも修学旅行って楽しむためにあるだろうっていう初歩的なツッコミをぐっと堪え、百歩譲って修学旅行が学習のためにあるとしても、その「学習」のためにディズニーランドに行くことの何が悪いの?もしかして、ディズニーランドなんて研究テーマに値しないとでも、思ってる?

・・・お前は全国一千万人の観光学者を馬鹿にしたぁ!!!(*3)

問題意識の点から言ったら、明らかにディズニーランドの方が名所旧跡より上だろ・・・

大体、「学習」というからには、そこには問題意識、つまり「それを学習することによって、一体どのような貢献が社会もしくは自分にたいして出来るのか」という問いが不可欠なはずだけど・・・その点から言ったら、明らかに名所旧跡よりディズニーランドの方が上でしょ。

例えば、ディズニーランドを研究することによって人々の消費行動の変化が読み取れる。ディズニーランドを研究することによって、人々が今どういうキャラクターを求めているかが読み取れる。etc...ディズニーランド研究はそういう問題意識を持ってることが、過去の研究を見ても分かります。

しかしそれにたいして名所旧跡の研究というと・・・せいぜい大河ドラマのテーマになって、地元に経済効果をもたらすぐらい?まぁ、別に名所旧跡を研究することによって深い問題意識が得られないというわけじゃないけど、少なくとも高校生ぐらいの研究力じゃあ、せいぜいパンフレットのコピペか、「大仏を見て日本の心を感じましたー」程度の主観的感想ぐらいでしょう。それで社会や自分に何か影響を及ぼせると考えるなんて・・・みんなが『武士道』を読めば社会はよくなると考える『国家の品格』並の馬鹿でしょ。

結論

id:sava95氏はこの記事に「子どもの選択権」を認めるって難しいというタイトルを付けています。僕が思うにこのタイトルの意味は、

という意味じゃないかと解釈しました。

[じぶん]僕は何故「心の問題」を語るか(自立は何故リアリティをなくしたか?-2)

id:sjs7:20070506:1178398992

の続きを書く前に、やっぱりこれについて語らなきゃならないと思うので、語ります。

『論座』から

asin:B000PI3TLE:detail

を読みました。論座編集部の意図を察するに、この若い論客二人にタッグを組ませて、「若者」論争を更に活性化させたいということなのでしょう(*5)。

しかし僕はどうもこの二人に「若者」を代表させることに納得がいかないんです(もちろん両氏とも、別に自分達が「若者」を代表できるとは思ってないだろうが、少なくとも論座の意図としてはそうでしょう)。何故か?それは、↓のサイトの一文に集約しています。

http://d.hatena.ne.jp/yuukoku/20070504

昨日、『論座』『死の刺日記』『臨死!江古田ちゃん』(2巻)『早稲田文学』を購入。ここ数ヶ月繰り広げられている、赤木智弘氏の「丸山真男をひっぱたきたい。希望は戦争」に対する左翼的論壇人の反論に対する本人からのさらなる反論が気になったからだ。でも、それを書いたらおしまいよ、という主張だったように思う。結局、「大人たちなんとかしてよ」と言って終わるなんて。

強者は(いつの時代だって)責任なんか取らなかった

赤木氏は、自身の論文に対する反論に対し応答しながら、最後の節で

しかし私は左派に絶望しつつも、決して右傾化するつもりはない。

と言い、そして最後にこう主張します。

「社会と戦え!」「もっと考えろ!」と言われるが、私は社会から逃げているつもりはないし、考えを放棄するつもりもない。私は社会と戦いたいし、もっと考えたい。

しかし、いまのままでは、問題を考えようにも単純労働や社会の無理解に疲れ果て、酒やテレビなどの一時的な娯楽に身をゆだねるしかない。

考える時間を得るためには、生活に対する精神的な余裕や、生活の為のお金がなにより必要不可欠であり、それを十分に得られて初めて「考える」という行為をすることができる。

そうした人間が、考えて活動するための「土台」を整備することこそ、私に反論する方々の「責任」ではないだろうか。

これは前に僕が書いた

http://toushoran.blog.shinobi.jp/Entry/5/

に対して赤木氏が「これはひどい」とコメントしてくださった

http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/01/post_185.html

 わたしがあの辺の連中に対して、延々と文句を言いつづけたのは、彼らが平和や平等と言うことを口にしながら、その一方で現実に弱者を救う行動をまったく取ろうとしないということであり、それは「強者としての責任」の所在を問うていた。

という文とほぼ同じ意味だと思うんですが、確かにそれは正しいと思うのだけれど、でも、一方で僕はこうも思うんですよ。

「強者が何の脅迫もなしに善意で弱者を救ったことなんか、人類史上果してあっただろうか?」と。

僕は、残念ながらほぼ無かったんではないかと思うわけです。そりゃミクロな視点で見ればどっかの篤志家が貧乏な子女を学校に行かせてやったとかそういう話はあるんでしょうが、少なくとも一国とかそういうマクロな観点で見れば、そんなことが起きたことなんか、殆どないでしょう。

というか、そもそも人間は基本的に、とらなくて良い責任は取らない

というか別に人類史を考えてみなくても、回りの人を見てみりゃあ、人間っていうのは基本的に取らなくて良い責任は取らない動物なんだと、僕なんかは感じるんです。教師には子供が学校でいじめなどを受けないよう努力する責任があるのに、実際はいじめは見てみぬふりし、例えいじめられっ子が訴えでても「君にも原因があるんじゃない」と言い放ったS市立N小学校のF教師、約束を破ったS氏etc...そして何より僕自身、取らなくても良い責任はほぼ取らない人間です(*6)。勝手に人を怒らすようなこと書いて、相手が怒ったら放置するなんてことは多々ありますし、放り投げちゃった書きかけの文章も多々あります(http://b.hatena.ne.jp/kanose/rir6/などを参照(笑)">*7)。

まぁ、さすがに僕ほど無責任な人は、そう多くは無いでしょう。しかし最高に無責任な僕から言わせてもらうと、そもそも先進国に生きて、ある程度自由になるお金をもらっている人はみんな無責任なんですよ。間接的殺人なんてタームがつい最近はてなで論争になっていましたが、何でそんな当り前のこと今さら言ってる(*8)んだろうと思いました。僕や、このブログを見ている会社員のあなたとかは常にアフリカの飢餓に苦しんでいる人に対する責任を無視しながら、のうのうと生きている。

人は、とらなくて良い責任は、とらないんです。

永遠に叶わない願い

だから、赤木氏が幾ら「強者は責任を取れ!」と叫んでも、強者は責任を取らない。そこで赤木氏は「戦争」を叫んで脅迫してるつもりなのかもしれないけど、一体何処にどんな口実で戦争を仕掛けるっつーのか。不安定層が戦争を望めば戦争が出来るなんていうのは、憲法9条を変えれば即戦争になるとかいうのと同じぐらい空理空論ですよ。

だから赤木氏は、既存の左派(強者)に頼ってる限りは決して自らの目的を達成することは出来ません。にも係わらず彼は左派に自らの生活を保証する「土台」を提供せよと主張し、それが出来ない限り思考を進めることはできないと言う。

それじゃあ一生「左派は何もしてくれない」と愚痴って終わってしまうことになるでしょう。

左派に頼らず思考を進めなければならない

要するに、左派に何かを頼りきって、左派が何かしてくれない限り事態が進展しない、そういう戦略は、事態を進めるための戦略として成立していないんです。だって明らかに不可能なんですから。いずれ左派に頼ることになるとしても、まずは自分達の手で、自分達の思想を作り上げ、そしてそれに基づき自分達の行動を起こさなくてはならないんです。

心の問題は否定されるべきか?

しかしこれはある意味で、若者の問題の解決策を「ココロ」に求める方策であると言うことも出来るでしょう。しかし赤木氏はもちろん「心の問題は、まず経済的基盤がなければどうにもならない」という立場ですし、更に言えば後藤氏も

それどころか左派の多くは、金子勝がそうであったように、三浦展の「下流社会」論、あるいは似たような議論に心酔し、若年層の生活の基盤に関わる問題をアイデンティティーや心の問題にすり替えて批判している。

というように若年層の問題を「心の問題」として見る姿勢を批判し、若者の経済的基盤こそ左派は語るべきだと主張します。

しかし三浦展の様な稚拙な議論はともかくとしても、本当に「心の問題」について語ることは若者バッシングにしかなり得ないのでしょうか?

「若者には何の心的問題もない」とも言えないだろう

三浦展の議論の何が稚拙かというのは、それこそ後藤和智氏のブログで

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/09/post_4a27.html

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/09/post_2ec2.html

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/09/post_9c00.html

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/12/post_081b.html

という風に徹底的に批判されているんだけど、その稚拙さの根幹には「経済によって人の行動様式や考え(思想)は規定される」という、マルクスが百数十年前に唱えたテーゼの欠如があります。そしてそれを後藤氏は批判していて、「もっと若者の経済的基盤に注目せよ!」と主張するのが、最近の後藤氏の文章の定番になっていて、で、僕もそれには基本的に同意なんだけど・・・

しかし例え下部構造が原因であるにしても、後藤氏が記事の最初で

若年層をめぐる「生きづらさ」

という言い方をするように、若年層の中に何らかの「生きづらさ」が今あるのは事実なわけですよ。だから「心の問題」もやっぱり存在する。もちろんそれが問題化するのは、「保守」層(*9)の言うような「彼らが社会を滅ぼす」という側面からでは断じてなく、「心の問題によって、彼らが生きづらいと感じる」というように、あくまでその生きづらさを感じる人が幸福になれるように、という視点なんだけれど。

「心」から、経済に反攻することは可能か?または、上部構造は下部構造を変革出来るか

もちろんそれは後藤氏も当然承知している。承知している上で、敢えて言っているんだと思います。何故なら、経済的基盤、または社会的基盤の問題が解決しない限り、「心の問題」も当然解決されえないのだから、それらの問題を放置したままで「心の問題」に焦点を移すのは、問題の解決にまったく寄与しないと、後藤氏は考えるからでしょう。マルクス主義風味で言えば「下部構造を変革しない限り、上部構造は変革できない」ということです。

でも、僕はそれにはやっぱり同意できないんです。確かに下部構造によって上部構造は規定される。だけれど、僕はその下部構造によって規定された上部構造が、逆に下部構造に変革的な影響を与えることも可能なのではないか?と考えるんですね。

これについては上手いたとえ話が

http://thought.ne.jp/html/text/socio/02is1.html

にあったので引用します。

ゲーデル

たとえば地球の重力は我々すべてを「支配」している。それ故、ほとんどすべてのものは地面に落っこちる。しかし重力は我々の行動を「決定」しているのだろうか?それに鳥や飛行機は飛んでいるではないか。

カンパネルラ

でも、重力の支配から脱した訳ではないのですね。

ゲーデル

重力の法則に従って飛んでいるのだ。もう少し例を限定していえば、あらゆる建築・建造物は、重力の法則に従っている。だから下手すると崩壊するし、崩れないためには従うべきことがある。しかし、だからといって、どんな建築が建てられるか、あらかじめすべてが決められているわけではない。

確かに人は重力に縛られている。しかしその重力にしばられた人でも、道具を使えば、空を飛べるようになる。それと同様に、例え経済的・社会的基盤が若者を「生きづらさ」へ追い込み、反攻の機械を無くさせるとしても、その追い詰められた「心」の側から、「生きづらさ」に立ち向かい、そして、その「生きづらさ」を生み出す経済・社会に立ち向かうことが可能ではないかと、そう僕は考えるわけです。古い言葉でいうならば、ボロは着てても、心は錦です。

市民革命と啓蒙思想

もちろんこれに対し後藤氏や赤木氏は「それこそ空理空論だ」と批判するかもしれません。しかし僕はそうは思わないんですね。何故か?

市民革命という偉大な前例があるからです。

例えばフランスて、フランス革命が起きた背景には、市民に課される重税や、身分差別などの経済的・社会的要因があるわけです。が、しかしそれだけだったら「パンをよこせ」という一揆的な蜂起で終わっていたでしょう。しかし啓蒙思想が市民に浸透することにより、事態は変わりました。「自由・平等・博愛」の名の元に、王制という社会的基盤そのものが破壊され、共和制が到来したのです。

もちろん歴史ってのはさまざまな要因によって動くものですから、啓蒙思想の浸透だけが革命の原因であるなどということは言えません。しかし少なくとも、フランス革命があそこまで根本的革命になった重大な要因のひとつとして、啓蒙思想が挙げられるであろうことは事実です。

僕たちの「近代」を取り戻せ

もちろん17世紀後半のフランスと、今の日本じゃ状況は全然違うという意見もあるでしょう。現代においてはもっと問題は複雑化していますし、権力側の策略ももっと巧妙になっています。

しかし、だからこそなんですが、僕は17世紀のフランス市民が夢見た「自由・平等・博愛が保証される市民社会」というスローガン、すなわち「近代社会」と、それを進めるための啓蒙思想を、自分達で取り戻さなければならないのではないかと、考えるんです。

それは僕流に噛み砕いて言うとこういうことです。

と。

しかし今それは不可能にされている。人々を分断して統治し、「君が生きているのは全体(国、社会etc...)のおかげなんだから、全体に感謝しなさい」とのたまい、そして全体に奉仕しない者には貧困と死を与える。それが今の社会なわけです。

ではそれにどうやって立ち向かうか?それは、やっぱり「啓蒙」以外にありえないのではないかと。

行き詰まり・・・を打破するのは?

赤木氏は左派の態度を批判するという戦術によって、論座に自らの主張を載せるという所まで進みました。しかし僕が考えるに、赤木氏がもし今の戦略のままで行くならば、到達できるのはここまでの様な気がします。それは、赤木氏の文章に対する、はてなサヨク達の書いた記事を見ると良く分かります。

これらの記事は、赤木氏の反応は無いので、赤木氏がどう思っているかは分かりませんが、どうやらはてなブックマークなどでの反応を見るに「とても誠実な記事」とみなされているようです。まぁ確かに僕もその評価に異論はありませんし(*10)。

でも、それを承知の上で敢えて言うと、はっきりいってこれらの記事は状況に対し何も影響を及ぼしません。こんな記事が何十と公開されたって雇用状況は絶対によくならないし、若者の生きづらさも何も解消しません。だってそうでしょう?ただ「僕は確かに勝ち組だ。僕はきみたちに懺悔しなくてはならない」というようなことを長々と主張してるだけの文に、一体どんな現実を変える力があるというのか。要するに自己満足文でしかない。

確かに赤木氏の文章にはこういう反応を量産する力はあるでしょう。でもこんな記事が何十、何百、何千と量産されたとして、一体それがなんだって言うのか?何度も言いますが、人は口では何とでも言いますが、実際に行動の水準では、誰かに脅されない限り、(他者に対する責任を履行するために)行動するなんてことは99%ありえないんです。結局、状況は変わらず、この平和な国で「戦死者」がまた一人増える・・・

啓蒙の力

だから、抑圧されている人は、自分達で経済的基盤に打撃を与えなきゃいけないんです。そしてそれをするためには、抑圧されている人が、その抑圧による「生きづらさ」を心の内で上手く加工し、そして反攻へのエネルギーへと変化させなきゃいけない。

それをするためにも、啓蒙が重要なんです。つまり、「人が、自分の為に、自分で決めた行動をし、そしてそのようにする他者を尊重する」という思想を自らに取り戻す。そしてその為には、そのような思想を取り戻すことを阻む心の内のシステムを分析し、戦わなければなりません。

このように考えるからこそ、僕は「心の問題」こそ「生きづらさ」を何とかする為の重要なキーであると考えるのです。もちろんそこで言う「心の問題」とは、それ単体で自律しているのではなく経済的基盤や社会的基盤に多大な影響を受けているということも、また同時に認識しなければなりません(さもなければ後藤氏の批判する「俗流若者論」へと堕ちる)が、しかしそれでも、「心の問題」にはそれを打ち砕く力があると、僕は考えるのです。

連帯の力

僕がここまで「心の問題」に強く拘る理由にはもう一つあります。それは、「他者との連帯」というのが達成できるのは、「心の問題」の分析によってでしかありえないという考えです。

赤木氏は論座の記事でもあいかわらず

奥原紀春氏は、自殺者が年間3万人を超え、その7割が40代以上であり、「この世代も『ぬくぬく』なんかしちゃいないのです」と指摘している。確かに彼らも不幸だろう。だが彼らの不幸をもって、私の不幸が相対的に軽減されるかのような言いようは、フリーターの苦痛を不当に軽く扱っているのではないだろうか。

というが、誰も他人の不幸を持って赤木氏の不幸が軽減されるなんてことは言ってない。むしろ自分の不幸によって他人の不幸を低く見ているのは、あなたではないか?かつて「ギャンブルの借金により苦しむ人」という例えに対し「若者は自分達の責任でないのにとても苦しい生活に追いやられたが、その人は自分の責任でそうなったのだから、同列には考えられない」と言ったのは何処の誰か?「強者女性は弱者男性と結婚せよ!」と主張し、自分の意に沿わない相手と結婚をすることを迫られる苦しみを無視したのは何処のどいつか?

http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html

 いまだに女性が弱者なのか!!

 いまだに在日が弱者なのか!!

 いまだに部落が弱者なのか!!

・・・僕は「就職氷河期に就職できなかったフリーターの男性」の苦しみも、「ギャンブルで借金を背負い生活保障以下の暮らしを迫られる中年男性」の苦しみも、「他人と強制的に結婚することを迫られる女性」の苦しみも、「いじめを苦に毎日リストカットをする少女」の苦しみも、「生きる意味がつかめない青年」の苦しみ「人を殺してみたいという願望を抱える少年」の苦しみも、一つ一つが特別な苦しみで比較なんかできないし、それぞれ全員、その人達がそれでも生存出来るためになんとかしなきゃならないと考えるべきだと思います(*11)。しかし今多くの人は不幸を順列化し、「不幸を克服し生きる人」と「不幸なまま死ぬべき人」という風に分けてしまう。その分別をする「心」に切り込まない限り、永遠に強者が弱者を喰い物にする世界が続くのです。

逆に、そのような分別の思考に対してオルタナティブな思考を作ることが出来るなら、人々は連帯し、共にこの生存を貶める社会構造に立ち向かうことが出来る筈です。もし本気で世界を変えようとするなら、その道こそ、まさに世界を変えることが出来る道だと、僕は考えます。

おわり

・・・というわけで、これでやっとid:sjs7:20070506:1178398992の続きを書ける用意が出来たわけです。というのも、続きの記事ではやっぱり「心の問題」に大きく踏み込むから。

要するに、次の記事の言い訳を事前に書いて、ついでに僕の赤木氏や後藤氏の姿勢に対する考えをまとめてみたわけです。

彼らに対して言及した記事は、投書欄の方に

があるので、これも見ていただければ幸いです。

(というわけで、続く)

*1: Aさんを馬鹿にしています

*2: あー、一応断っておくと、別に僕はここで「論文検索に出てくるようなテーマ」だけが学問に入ると言っているわけではありませんからね。むしろ論文検索しても全然出てこないようなテーマを調べることこそ、学問の醍醐味であると言えます。ただ、そこまで小中学生に期待するのはちょっと酷でしょう。といっても、本当に出来る人っていうのは、小中学生の頃からそういう学問の醍醐味を味わってるんだけど

*3: といいつつ、実は僕も観光学なんてあるの、さっき検索して初めて知ったんだけど

*4: =難しい

*5: オブラートに包んでます

*6: 先にあげた例が「責任を取らなかった人」の例が少ないのは、そういうケースになる前に僕自身が責任を放棄して相手を裏切るケースばっかだからです

*7: http://b.hatena.ne.jp/kanose/rir6/などを参照(笑)

*8: 前運営していたサイトでは、javascriptを使って「あなたがこのブログを見ている間に、地球上では○人の人間が飢餓で死にました」という餓死カウンターを付けていた

*9: ここで言う保守には、右翼のみならず、生活保守を貫く一部の左派も含まれる

*10: 僕が前に書いた記事でもこういう風な書き方を一部しましたから

*11: しかしこれは経済的基盤だけに注目する思考では出来ないだろう

この日へのコメント

sava95 2007/05/08 10:12
トラバいただきありがとうございます。
タイトルの解釈「こういう馬鹿親~」ですが、私は友人たちを馬鹿親・ダメ教員とは全く思っておりません。私の表現がつたなくてそのような印象を与えてしまったのかもしれません。「馬鹿ブロガー」で申し訳ないです。
sjs7 2007/05/08 16:28
もちろん皮肉ですから
hishimaru 2007/05/09 14:59
よく考えたら、責任をとらなくてもいい人=強者ですよね。