sjs7アーカイブ

2007-05-25

[考える]「極刑」って言葉が嫌いだ

死刑を求める検察が、その理由を述べた後に、最後に「・・・以上の理由から、極刑が妥当であると思われます」というようなことを言う。

何故、そこで「死刑」ではなく「極刑」なのか。

結局、誤魔化してるだけじゃないのか。

あんたは、その目の前にいる人間に「死んでほしい」と言ってるんだろ。でも、そうやって言うのがなんか嫌だから、「極刑」なんて言葉でお茶を濁す。

そして、死刑の判決がくだり、そしてやがて、その死刑、つまり「国家が一人の人間を殺す刑」の執行がやってくる。

しかしそこでも誤魔化しがある。

死刑は、その囚人が死刑台に上がり、そして縄を首に掛け、最後に床が落ち、縄が「自然に」首に掛かって、その囚人を絞殺するという仕組で行われる。

が、結局そこでは、囚人を殺す力は、結局重力と囚人の自重だ。確かに床を落とすのは国家権力の執行人である刑務官だが、しかし彼らは結局囚人には触れない。あくまで、「床が落ちて囚人が窒息死した」というわけだ。

何か、やっぱり誤魔化していると思う。更に言えば、その死刑執行の様子を、その決定をした裁判長は見ない。彼はあくまで「サインをした」だけ。

そんなシステム、殺人ゲームよりよっぽど社会に悪影響をもたらしているよ。

こんな制度を夢想してみる。

裁判官が死刑の判決を下す。その瞬間に、裁判官自身が立ち上がり、被告人の前にいく、そして、裁判官自身の手で、被告人の首に手を掛け、被告人を絞め殺す。

極めて合理的なシステムだと思うんだけど、どうだろう?

「そんな制度にするなら死刑は廃止するべきかなぁ」とか言う人が居たら、忠告しておく。

別に、こういう制度にしたって、今とやっていることは何も変わらないってことを。