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2004-06-16


[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(7〓1)コメント返信1

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
コメント見させていただきました、まぁ思ったより煽り・荒らしが少なく、結構真剣に書き込んでもらったみたいでありがたいと思います。何度も特集の記事の冒頭で告知してきたように、その全てのコメントに答える訳にはいきませんが、一部のコメントは僕にとって大変興味深い物でしたので、答えさせていただきます。

まずコメントで多かったのが、「所詮あなたが得ている情報はマスコミを通して加工された二次情報であるのだから、それをソースに加害者に共感するというのは即ち"マスコミによって作られた加害者"への共感である。しかしそれは危険なのではないか?」という物です。

確かにその指摘は間違ってはいません。僕は「真の加害者」の事など知ることは(例え親友とかだったとしても)出来ないし、一次情報(つまり加害者と直接会って得る情報のこと)だろうが二次情報だろうが、結局何らかのフィルターが掛かってしまうのは確実でしょう。だとしたら何故僕はそんなフィルターが掛かった「偽の加害者」に共感するのか?

それに対する答えを言うには、僕の思考スタイルを説明しなければならないでしょう。僕の思考スタイルというのは「自分の『自我』からしか倫理を導き出さない」という物です。

何故そういう思考スタイルになったかといえば、「自分の『自我』以外に存在を根拠無き仮定無しに証明できる物が無いから」としか言いようがありません。とにかく、僕はそういう様式で色々な物事を考えるのです。

ですから僕にとっては「真の加害者」と「偽の加害者」という2つの加害者の違いはそんなに重要な事ではない、何故なら「真の加害者」も「偽の加害者」も、存在を完全に証明する事は出来ないからです。更に言うならば、僕は「事実」と「虚構」を同じレベルで考えます。簡単に言うと「アニメと現実の区別を"つけない"」んですな(まぁ、「つけない」と「つかない」の違いなんて、外部から見たら無いに等しいんですけど)。このような考えは確かに危険かもしれません。「事実」によって苦しめられている人からしたら「フザケンナ!」と思われる物かも知れません。しかし、僕は上記で述べたように「自分の『自我』」以外に存在を完全に証明できる物を見つけられないのです。ですから僕のこの姿勢を批判するのなら、その「見つけられない」事を批判して下さい(というかコメントスレの>>319-322で批判されてるんだけどね、それについてはまた後で)。

次に「あなたは矛盾を批判するが、矛盾を認めて生きることが大人への第一歩なのだ。大人になりなさい」「もし矛盾を認めるなら、それを解消するためにすぐ行動を起こせよ!」という批判(説教?)について答えてみたいと思います。

まず最初に矛盾に対する考えにどのような物があるか整理してみましょう。

  1. 矛盾なんて無いよ派
  2. 矛盾はあるよ派
    1. 矛盾は認めて生きるよ派
    2. 矛盾を直す為に前進するよ派
かなり大雑把な区分けですが、とりあえず僕は矛盾に対する考えにはこの三種類があると思っています(他に考えがあったら教えて下さい)。

まず最初にa「矛盾なんて無いよ派」についてですが、この考えは主に1990年代前半、冷戦が終わり世界が超資本主義によってハッピーになると信じられていた時代に多かった(らしい)考えです。まぁ僕も別にそういう専門の本を読んだことがあるわけではなく、ただ当時の「現代用語の基礎知識」とかをぱらぱらとめくっていて思ったことなのですが、当時はちょうどソ連が崩壊して資本主義が世界中に拡散してたそうで、「資本主義が世界の全てに広がった時社会の矛盾は消える」と考えられていたそうです。まぁ今はさすがにそんな事を考えている人は少ないと思いますが・・・

次にb-1「矛盾はあるけど矛盾を認めて生きるよ派」についてなんですが、この考えは前項の「資本主義で皆ハッピー」幻想が崩壊した後爆発的に増え、現在日本で主流となっている意見です(世界ではどうなのかは知らん)。要するにこの考えは「確かに世界に矛盾はあるけどさ、でも僕達は矛盾があったとしても幸せに生きてるし、わざわざ矛盾を直そうとしたりしなくても良いんじゃない?」というもので、何か現在とても豊かな大多数の日本人には受けたのでしょう、あっというまに日本はこの考えに席巻されてしまいました。この考えの現れとして例を挙げてみると
  • サザエさん・クレヨンしんちゃん・ちびまる子ちゃん等の家族アニメのブーム(「『ちびまる子ちゃん』って1990年代前半に流行ったんじゃないの?」というツッコミをされると困るんだけど^^;、やっぱり家族アニメってのはその家族の幸せにある苦労(カツオに対する理不尽な仕打ちとか友蔵の財布とか)を苦労として認めず茶化して成立する物だから、僕はそれは矛盾の肯定だと思う。)
  • 多文化主義(それこそ呉智英じゃないけど多文化主義ってのは「人食い人種が人を食う」事や「カースト制」のような矛盾を認めるって事だからね)
  • 江戸時代賛美
  • 生活保守主義
等多岐に渡る。これらを称して日本的シニニズムと言う人も居ます。

そして最後に挙げるのがb-2「矛盾はあるけどそれを何とかするために前進するよ」派、これは高度経済成長期の日本に多かった。まぁその頃はまだ矛盾が物質的な物で解消出来るから良かったんだけど、今の日本では矛盾を解消しようとすると必ず何処かの既得権益とぶつかり合ってしまって苦労するし、別に矛盾を解消してもあまり感謝されることがない(みんな矛盾があっても満足してるし)からかなーり人気が無くなった考えです。例としては全共闘とか古い物しか挙げられません、、、僕も一応この派に属していたり。

おそらくコメントスレッドでの批判はb-1に属する考えから発せられた物なのでしょう。要するに彼らは矛盾を解消するためには生活を犠牲にする必要があることを知っていて、僕に(というかインターネットで話す日本人なら誰でも)今の生活を捨てる度胸が無いことを知っているから、あのような批判をして「やっぱり矛盾の解消なんて無駄だし無理なんだよ」という風に僕に考えさせたいのです。

ただ僕はやっぱり矛盾をどうしても解消したいのですな(何故なら僕は今の生活に「満足」はしていないから)、ただその意思に体がついていかないんです。だから僕が今出来ることといえばこの事件のような「矛盾」を力一杯見つめる事だけなんですね。それにより自分に度胸が付くことを信じながらね。 http://www.2log.net/bbs/nwatch/comment.html