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2004-11-21


[政治思想]アメリカは「民主的」だ

アメリカは確かに民主的な国家なのだ。そして、民主的な国家だからこそ、ブッシュが再選され、イラク戦争が続くのだ。真のイラク戦争の克服の為には、「民主主義」の克服がまず必要なのではないか?

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何か最近「もう一つの世界」というフレーズが所謂市民系の間で流行っているらしい。まぁ、ただ単にブッシュ一人だけを悪者にしたり、ネオコン何て仮想的を作って、そしてそれに操られる大衆なんて幼稚な構図を作るよりは、現在の世界そのものに構造的問題があると考える方がずっと頭が良い行為だと思うのだが、問題はその「もう一つの世界」というフレーズの意味を単純に考えてしまう人が多い事だ。

例えばこんな文、「大企業本位・大国本位の世界ではなく、平和で民主的な、市民本位のもう一つの世界を」というような文。しかしこんな風な事は社会民主主義者達が40年以上前から言ってきた事なのであって、これが通用しないからみんな今困っているという事を忘れている(*1)。「平和」とか「民主的」とか「市民本位」とか、そういうイデオローグが単純に反戦とかに結びつかない事が現在の問題なのであって、それを解決するために今までとは全く違う方向の「もう一つの世界」の可能性が求められているのだ。ただ「平和」とか「民主的」とかそういう言葉を使って反戦が出来るのなら「もう一つの世界」なんてフレーズは使わない。ただ「現在の世界をもっと民主的に向上させよう」とかそういう言葉で十分なのだ。

例えば考えても見なさい今回のアメリカ大統領選を、何だかんだ言っても結局ブッシュは国民の過半数の支持を得た。つまり「イラク戦争継続」というのは民主主義的に言えば、アメリカ国民の意思なのだ。例え47%の人が反対しても残りの53%の人が支持し、そしてそれを選ぶ猶予がもう無い場合は、53%に支持された方針を選ぶのが民主主義なのである。

いい加減に気づきなさい、問題はアメリカが民主主義を実行しないことでは無いのだ。真の問題は、話し合いとか言っても結局最終的には多数派に少数派は従わなければならないと言う、民主主義国家システムそのものにあるということを。

また「平和」という言葉だっておかしなもんになってしまった。そりゃ「平和」という言葉が「Peace」に訳されている内は良かったよ?でも今の状況はそうじゃない。「平和」は明らかに「Security」という言葉に変わった。極東板に行って「あなたは平和を愛しますか?」と聞いてご覧なさい?彼らはこう答えるだろう、「ああ愛す。だからこそ平和を脅かす北朝鮮や中国をやっつけるんだ!」と。

そりゃそうだ。幾ら外でどんどん戦争が起きて、人が死んだって、自分の生活圏の中で何も起きなければ平和なのだ。それは「憲法9条」で守られた中の"平和"を謳歌し、そしてその一方で朝鮮やベトナムに戦争をアウトソーシングしてきた日本人が、一番良く分かっていることだろう。

もう既存の言葉ではこの「民主的」で「平和」な国家を求める人々の声に抗することは不可能なのだ。私たちはまず「もう一つの世界」を「今の世界」に求めるのは無駄だということを知らなければならない。まず絶望から始める事、それが重要だと思うのだが、どうだろうか?

[宗教]「宗教的」ということ

「宗教的」ということを学校から排除する事によって、かえって教育は「宗教教育」化する。何故なら「宗教」を認めないというそのこと自体が一つの「宗教」だからだ。

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憎悪を再生産するフランス「スカーフ禁止法」反米嫌日戦線 LIVE and LET DIE(三流偏向不公正独断蝦夷自分趣味)

外国に逝った時、日本人に出会うと、すごく嫌な顔している輩が多いと感じるのは、俺だけだろうか?

「なんで、こんなところに日本人がいるんだよ」

ってな声が聞こえてきそうな顔してる。

欧米の白人と結婚している輩に多い気がするのは、俺の偏見だろうけどね。

でも、仏蘭西人と結婚しただけで、自分が「白人」になったと勘違いしている日本人が、アジアの同胞アラブ人を蔑視するとは。


http://chatblog.exblog.jp/

『ココんちのそばには小学校が2つある。西の小学校は欧州系の子供が多く,南の小学校は移民用団地のそばなので欧州系よりマグレブ3国やクルド,トルコの子供が多い。フランスの公立小学校のほとんどは同じ敷地内に幼稚園が併設され,両親が働いていれば校内の食堂を利用できるが片親が働いていなければ家庭で昼食を取ることになっている。朝・昼・夕と親は子供の送り迎えのために4往復。これは子供が小学校卒業するまで義務だ。お昼前の学校は子供を待つ親で溢れかえっている。で,南の小学校。気のせいか新学期になってイスラム系女性全員がフラーをかぶっている。イラクでのフランス人誘拐事件が発生してすぐ国内のイスラム教徒が「私達はデモ行進をするなど抗議行動を起こしています。これは国内問題なので口を出さないでください」と発表した(・・・発表させられたのかもしれない)。 おお,フランスの民主教育のおかげでちったーましなことを発言できるようになったではありませんか!あたしゃ感動した。 が,ちと待て。送り迎えの母親がフラーをかぶることは何の抗議にもならないのだ。成人した自由人である彼女達が子供の送り迎えにフラーをかぶろうがかぶらまいがそれはあなたの信仰の自由なのである。私なんて彼女達の洋服とフラーの色の組み合わせの妙に感心しきりだもの。フランス政府が口をすっぱくして言っているのは「民主主義の下,公共の場でかぶらないでね」と言うことなのである。やっぱり公私の区別が今ひとつわかってないのかあ・・・?

(略)


以上、「名誉白人」のBLOGより

いわゆるフランスの、スカーフ禁止法だ。

フランス革命により、王権神授説を捨てたフランスにとって、「政教分離」は国家の柱であることは事実である。

しかし、どう考えても、いままで問題にされなかったスカーフ(アラブ人は40年前から移住している)がなぜ今頃、法律を作ってまで規制しなければならないのか?

03年にシラクが急に、この法案を議題にのせた。検討委員会では、イスラムの休日を国民の祝日とすること、イスラム移民の貧困問題を是正することなども検討されていたのだが、結局、スカーフ禁止だけが取り上げられた。

(略)

シラクら保守派の魂胆はわかりきったことだ。300万人もいる、ムスリムが自分達だけの社会を作るのではないかという恐れである。国家権力によって、貧しき者の団結を阻止しようとしているのだ。

これって、外国人参政権を拒否するどっかの国に似ているな。

まぁ、この記事で取り上げられている『イスラム婦女子スカーフ着用問題』と『政教分離』のお話。『仏蘭西の空を仰いでみる。』という記事はあまりに馬鹿すぎて突っ込む気にもなれないのだが、しかし一方でこの様な馬鹿達や、シラクなどの保守政治家だけで一国の政策が決められる訳がない。この問題の底には、宗教的で無いようにしようとすればする程、却って他者にとっては先鋭的に「宗教的」となってしまうねじれがあるのだ。

そもそも「宗教的」とは一体どういうことなのか?世の中には色々な宗教があるが、ただ一つ共通していることは「超越的なもの」を信じる事です。大部分の宗教においてそれは「神」という名で捉えられますが、そういう名前で呼ばない宗教もあります。そして実はその様な「神」という名を用いない宗教の方が「神」という名を用いる宗教より実の所強力に「宗教的」と成り得るんですね。

例えばキリスト教の神とヒンドゥー教の神は意味としては全然違うものな訳ですが、言葉というツールを使って表現しようとすれば、どちらも同じ「神」となる訳です。そしてどちらも同じ「神」という言葉で表現されるが故にそこには「相対性」が発生する(*2)訳です。

この「相対性」を最も認めているのがイスラム教とも言えるでしょう。彼らの教義は極めて生活の多岐に渡っている訳なのですが、しかしそれは一方で他の宗教との比較を容易にしている訳です。そして何より、彼らイスラム教はユダヤ教徒・キリスト教徒を「啓典の民」と呼び、その存在を認めているんですね。ここまで他宗教に寛容であった宗教を僕は余り知りません。もちろんその裏には自分たちの神の超越性に対する絶対的な自信、宗教らしさがあった訳なのですが、しかしその自信故にイスラム教は外部にとってとても「非宗教的」に写ったのです。

それに対して現在フランスで「イスラム教」と対立している(*3)「政教分離=民主主義」は一体どうなのかと言えば、僕の目から見ればこれほど「宗教的」であり「相対性」を認めない宗教は無いんですね。どういう事か説明しましょう。

まず「民主主義」はその教義として超越的なものを一つの物=神として考えません、が、その事を示して「民主主義は超越的な物を認めない」ということを言うのは大間違いです。確かに「民主主義」は神は認めませんが、「多数派の意志」という超越的な物を内に抱えているのです。この前の記事で書いた様に、民主主義はその教義として例え47%の人が反対しても残りの53%の人が支持し、そしてそれを選ぶ猶予がもう無い場合は、53%に支持された方針を選ぶのです。そしてそれは確かに猶予期間中は相対的でありえるのですが、いざ猶予が無くなれば途端に「超越的」=「非寛容」=「宗教的」となるのです。

しかも「多数派の意志」というのはそこまでそれを認める人が「超越的」に動いても、時間がたてば揺らぐ、民主主義の内部にいる人にとっては自信を持つに値しない物なのですね。ですから余裕は無いが故にさらに外部に対して「宗教的」となる。そもそも民主主義というものが確かなものであったら政教分離みたいな言ってみれば<他者への怯え>は発生しないのですから。

例えば今コートジボワールに対するフランスの新植民地主義的な政策が問題となっていますが、これを見て日本の左派勢力はこう思っていることでしょう。「何故イラク戦争に反対する『民主的』フランスが、コートジボワールに対しては『帝国主義的』政策を出しているのか?」と。しかし実は民主的で有る事それ自体が外部にとっては「不寛容」=「帝国主義的」となるのだ。

植民地前のアフリカは確かに民主主義ではありませんでした。しかしじゃあ「不寛容」であったかと言うとそうでは無い。植民地前のアフリカには多極的な権力構造があったのです。ある時は首長に従い、またある時はシャーマンに従う、その様な宗教と政治権力が渾然とした多極的権力構造の中に存在したのです。それは「民主主義」では無かったが、それ故「寛容」であり得たのです。

かといって別に僕は植民地前のアフリカの様になれと言っている訳ではありません。もちろんその頃のアフリカにはその頃なりの問題があったと思うし、もしかしたらその問題は「寛容」・「不寛容」なんてことよりずっと大きな問題だったかもしれません。ただ僕か言いたいのは、民主主義によって全てを解決する事は出来ない、社会の全ての空間(*4)に民主主義を厳然と適用させることは本当に正しい事なのか?そこを考えて欲しいのということです。

僕は、やはり学校に厳然な民主主義をそのまま適用させるのは間違いだと思います。もちろん学校の教師などの上位権力が下位の生徒(*5)に自らの宗教を強制するような事が有ればそれは止めさせるべきだと思うし、そのような範囲においては政教分離というのも必要なのかなと思います。しかし、生徒間の同位的なコミュニケーションでまで宗教を禁止する事が果たして正しいのか?むしろ強制を伴わないような宗教活動を学校内で認めると言う事は、宗教というものに対する相対的な考えを持たせ、さらに様々な宗教に対する寛容を持たせるという点に於いて生徒に良い影響をもたらすのでは無いでしょうか。

今、この問題はフランスという地球の裏側の物語として私たちに伝わってきます。しかし、これと似た様な問題は日本でも起こっているのではないでしょうか?例えばアーレフの児童の就学を拒否するという問題、この拒否する心理の根底にあるのは結局「自分たちの子供がアーレフに感化されたりしたらたまったもんじゃない!」という親たちや、地域社会の心理でしょう。しかし一旦社会に出たら、今のアーレフより危険な宗教など一杯あるでしょう。それを全て排除し、公権力による監視を強化し、危険な宗教が全くない社会を作るというのも一つの道でしょう。しかし僕にとってそれは、暗黒時代に他なりません。ではそうでは無いもう一つの道があるのか?それは分かりません。が、僕はそのもう一つの道を選びたい。そしてそのもう一つの道では、絶対に宗教と関わる能力が求められるでしょう。そしてその様な能力を養う為に、アーレフの児童を受け入れるという事はとても重要だと思うのです。


*1: たぶん意図的何だろうけどね

*2: もちろんそれぞれの宗教の教徒にとっては「見せかけの」という形容詞が付く訳なのですが、「相対性」が発生する事自体は変わり有りません

*3: 余りに単純化した言い方だがまぁいいや

*4: 例えば学校とか

*5: とても嫌な言い方だがしかし現状としてそういう環境が有る事は事実なのだ