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2004-11-24


[思想]餓死カウンター

何かワイドショーとかでは良く「最近の子供は生き物の死というものを分かっていない。だから簡単に殺人とかをしてしまうんだ。」という言葉を良く聞きます。敢えて否定はしません、ですが、僕はその様な言葉を投げかける人にこう問いたいです。「じゃあ、あんたは生き物の死について本当に理解しているのか?」と。

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未来のない人々tolio-log

現在、世界で8億人以上が慢性的に飢えの状態で苦しんでいます。

これは世界中で約7人にひとりが飢えに苦しんでいることになります。そして、

5秒間にひとりが飢餓に関連した原因で亡くなっています。

また、5歳未満の子どもについては、毎日1万8千人が飢えや栄養不足で死亡して

おり、これは1分毎に12人の子どもが亡くなっているか、一時間毎に子どもで満

席のジャンボジェット、2機が毎日墜落していることになります。

かつて人々は「不透明な時代」に生きていたと云われます(色々な捉え方があるのですが、ここの透明は多分リンク先の1-1だと思います。">*1)。ここで言う「不透明さ」とはつまり情報技術の未発達とか、政治権力による情報統制とかで、距離というものが現実に到達時間の遅延や到達情報の変質という形で表層し、そしてそれ故私たちが「ここ」からある程度距離を持った「そこ」の場所について歪んだ情報しか持てなかったということです。そしてそれ故に人は「世界は広いんだ」→「世界の全てを関知し、制御するなんて不可能だ」という常識を持てたのです。そしてその常識によって人は世界に対する関心を制御出来得た訳です。

しかし現在はどうか?情報技術的に見ても、この高度に発達を遂げたネットワークに於いては、簡単な設備さえ用意出来れば世界の裏側にいる人とリアルタイムに文字・声の遣り取りを鮮明に行う事が出来る訳です。そして政治経済的に見れば、ソ連が崩壊しいよいよアメリカが唯一の超大国となった今、世界の情報統制はもう既に殆ど崩壊していると言っても良いでしょう。どんなに取材規制を行ったって必ずどこかの西欧のマスコミは潜入取材をして、隠されている事実を暴くのです。以上の点から見て、もう既に距離は到達時間の遅延や到達情報の変質を引き起こさないのです。つまり、社会が透明になり、あらゆる所の情報が瞬時に劣化・変質すること無く伝わる社会になったのです。しかしその様な、昔は「人類の夢」として想像されていた社会が、しかしその一方で、世界に対する関心は無制御状態になり、そしてその必然的な結末として関心の消滅という自体が起きているのかもしれません。

そもそも距離が一体どのようにして世界への関心に対する制御を行っていたのか?説明しましょう。まず最初に知っておかなければならないのは、「私たちは事象の重大性を情報の量で分析している」ということです。私たちは確かに価値観と呼ばれるものを持っており、それによって情報を選別している。これは確かです。しかしその価値観もまた最初から人間にある、先天的なものではなく、情報によって構築されたものであるのを忘れてはなりません。確かに即時的に見れば人間は、例え多い情報と少ない情報を受け取っても、少ない情報の方に多く関心を寄せることがあるかもしれません。しかしそれは即時的にその時の瞬間の量を見ているからそうなるのであって、人の生まれるところから累積的に見れば、大体関心の大小とその関心を寄せられる情報の多少は、同じ率だと思います。

そしてそれ故に、かつて人は「近くの事に関心を持ち、遠くの事に無関心」という状態で居られた。というかその様な状態に必然的になった。そしてそれは、みんな同じであるが故に、かえってその様な状態に自分たちが居るということを隠してしまったのだ。だからかつての人は、自分たちが世界に対して全然関心を向けていないにも関わらず、「自分たちは十分世界に関心を持っている」と錯覚する事が可能だったのだろう。そしてその錯覚は、一方では朝鮮やベトナムに日本の基地から軍が出ているにも関わらず「自分たちは一度も戦争に参加せず、憲法第九条を守ってきた」等と恥ずかしげも無く言える事が出来るという負の側面もあったが、その一方で、距離によって関心の量が上下することをしても恥と思わないような有り様が維持するのに重要な役割を果たし、そしてその結果関心の制御が出来ていたのだ。

しかし、そのシステムももはや崩れました。距離はもはや全くの無意味化してしまい、その結果事象の大きさがそのまま情報の大きさと等量となってしまったのです。つまり、アフリカの一人の死と日本の一人あたりの死が平均的に見た場合同じ情報量となり、その結果同じ量の関心を寄せられるべきものとなったのです。僕はこれをつい最近まで当たり前のことだと思っていたのですが、昔の価値観の人からすれば「そりゃ絶対におかしい」ことなのだそうです。しかしあくまで全ての事象が同じ水準で計られる透明な社会に育ったら、やはり多かれ少なかれみんな同じような考えを持つのではないでしょうか?

まぁこれはある意味市民団体系の人たちから見れば理想であった「世界にもっと関心を!」キャンペーンの成功としても捉えられる(*2)のだが、しかしこれは一方で取得可能圏にある情報の絶対量が圧倒的に増加するということでもあるのです。今まで距離というフィルターによって押さえられていた遠くの地域の情報が、世界の透明化によって私たちの身の回りに押し寄せてくるのです。

しかし一方で人間はそれに追いつけません。僕は「関心の大小とその関心を寄せられる情報の多少は、同じ率」だと言いました。ということは情報の絶対量が大きくなったからには、必然的に関心も大きくならなければならないということになります。しかし関心の量ってのは人間それぞれ一定(*3)な訳で、関心の量は一定なのに情報はすさまじい勢いで肥大化した場合、当然一つの情報に対する関心の値を下げる事へと繋がります。そしてその下げ幅は情報の肥大化に対応するもので無ければなりませんから当然とても大きなものになるのです。

そしてその結果、一つの情報に対する関心の値は極少となり、実質的には0となるでしょう(*4)。「最近の若者は物事に関心が無い」という言葉を良くみかけますが、別に一人一人の関心の量は一定に十分あるのです。ただそれがあまりに微分(*5)化されているものだから、0に見えるだけなのです。しかし実は0に見えるのは傍観者だけでなく、当事者にとっても同様に観測されるんだから、結局は「無関心」と同じことなんですけどね。そして関心が生まれなければ、その関心によって出来る、その情報に対する「認知」も生まれない訳で、そしてその情報が「死」である場合、向かう先は「死の認知の空白」なのです(*6)。

(ちなみにこの様な状況への一つの対応策として「動物化」というものがあります。この対応策は、「情報の量」に応じて関心を分配するのではなく、その情報が自己の生存の為に必要な行動(*7)に重要なものかどうかで関心を配分するというものです。この方法を取れば、例えばアフリカの人が何万人死のうと無関心でいるのに、日本の何処かで無差別殺人事件が怒った事にすごい関心を持つと言う事も「アフリカの事は自分の生存に関係ないが、日本の事件は関係ある」という点で正当化できます。しかし僕はどうもこれが好きでない・・・)

しかしこういう批判をする人も居るでしょう。「確かにそのような形で情報技術を通って伝わってくる情報は肥大化しただろう。だがその様な情報と、生身の人間とのコミュニケーションによって得られる情報は区別すべきだ。何故なら生身の人間の情報は情報技術を伝わって来るものと違って現実感があるのだから。そして私たちが言っているのは、生身のコミュニケーションでの死の認知である。」と、しかしその批判は二つの視点から見て間違っています。まず最初に絶対の客観者の視点から見た間違いを言うと、情報技術を伝わってくる情報だって現実なのです。アフリカで何万人もの人が死んでいる、これは嘘ではないのです。しかしこの様な指摘は僕はしたくありません。それよりも問題なのは、確かに情報技術を伝わってくる情報は「嘘かもしれない」。だが、生身の人間とのコミュニケーションによって得られる情報だって、同じように「嘘かもしれない」と言えると思うのです。

もちろん生身の人間とのコミュニケーションによる情報のやり取りは―比較的に見れば―情報技術を使った情報のやり取りより手順や手間が少なく、情報の劣化・変質が少ないでしょう、しかしそれはあくまで比較論であり、相対的なものにしか過ぎない訳です(*8)。また、生身のコミュニケーションは情報の変質の方向が好ましい方向だという意見もあるでしょう、しかし好ましかろうが好ましくなかろうが、変質しているという事態は同じな訳です。もちろん相対的な違いというのは案外重要だったりする訳ですが、しかしこの場合に於いては同じ情報という枠組みから外れられる程の決定的な理由とはなれないでしょう。

そもそも、先ほど僕は「死の認知」という言葉を使いましたが、じゃあかつての人々が本当に「死」について認知していたのかだって怪しい物です。でもまぁ一応「死」について考える事はしていたのでしょう。しかし、何故考えればそれで「分かる」と思うのか?むしろ考えれば考える程「分かんなくなる」というのが当然の帰結でしょう。何故なら実際に体験する事は不可能なんですから。結局「分かった」と言っているのは宗教教育(ここ参照。ただこの文は自我関係について大分間違っているので、そこのところは読み飛ばすか、その文に対する批判を考えて悦に浸ったりしてみてください。いずれ追記文を書きます。">*9)によって「『分かった』と錯覚」させられただけでは無いのか?だとしたら、それに私たちが騙されないのは、むしろ賞賛すべきこでは無いのか?

、、、ちょっと話がずれましたが、以上の事から、現代の私たちはもう他人の「死」に関心は持っていないという事がお分かりになったと思います(僕は自我を認めてませんから、自分すら他人と同じように考えるのが筋だと思います。が、それはここで言いたい事ではないので・・・">*10)。

・・・といっても分かる訳が無いだろうなぁ・・・

と思ったので僕は餓死カウンターを設置しました。僕がこれで望む事は餓死でこんなに沢山の人々が死んでいる事を知り、その人たちを何とかする為に行動を起こす事・・・ではなく、このようなカウンターを見ても何も思わない自分を発見して欲しいからです。要するに「何も感じなかった」ということを感じて欲しいのです。その経験をどう考えるかは勝手です。動物化の道へと走るのも良いでしょう。ですが僕は別の道を探して欲しいと思ってたりします。。。

追記(2004/11/24 04;05)

カウンターがどういう計算をしているのかを書き忘れたので書いておきます。五秒ごとに一上がります。何故それがいえるのかソースは上記のサイトの文です。


*1: 透明概念については色々な捉え方があるのですが、ここの透明は多分リンク先の1-1だと思います。

*2: 実際そういう市民の力が間接的に革命を手助けしたりしているのかもしれないが

*3: 関心ってのはつまり脳の活動な訳なんだけど、脳の能力は当然有限なのです

*4: 0に限りなく近い値は、そりゃ数学的に見れば0じゃないかもしれないが、測定能力に限界がある人間から見れば0なのだ

*5: 習ったばかりの言葉だから多分用法が間違ってる

*6: ←やっと本題に戻った・・・

*7: ここの中には「何か自分にとって楽しいものを見つけ、それで遊ぶ」という目的もある。

*8: 生身のコミュニケーションだって、目とか耳とかそういう広義の「機械=技術」に頼ってる訳だし

*9: 宗教教育の定義はここ参照。ただこの文は自我関係について大分間違っているので、そこのところは読み飛ばすか、その文に対する批判を考えて悦に浸ったりしてみてください。いずれ追記文を書きます。

*10: ここでは触れなかったけど僕は自我を認めてませんから、自分すら他人と同じように考えるのが筋だと思います。が、それはここで言いたい事ではないので・・・