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2005-04-25


[思想]利己的行動の崩壊

ある日、僕は高校で政経の授業を受けていたんですね。で、その政経の授業をする教師は、まぁ政治思想的に言えば左な方で(*1)、で、まぁこの時期の授業なんてのは幾ら三年生でものんびりしたもん(*2)ですから、その日はちょっと番外編みたいな感じで、「茶色の朝」という本をみんなで読むことになってたんですよ。

ISBN:4272600478:detail

で、まぁその本の文を絵以外全文転載(*3)したプリントを配って(*4)、読んだ後、教師が説明をして、で、チャイムが鳴って授業終わりという、極ありふれた授業だったんです。

しかし僕はその授業が終わった後、何かとてつもない「闇」に捕らわれてしまった訳で……

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三つの「闇」

読んだ後の説明で、教師は高橋哲哉さんの後書きに沿って、この本の狙い(つまり、ファシズムは市民の政治への無関心により成り立ってしまうということだとか、自分が駄目だと思ったらノーと言わなきゃ駄目だということなど)を説明してたんですね。そして、その説明の途中、こんなことを言った訳です。

例えば教師達は生徒達に規則に基づいて制服検査をするわな、スカートの丈は膝上5cmまでだの。あれだって本当は、「じゃあ4cm99mmだったらいいのか」とか、そういう疑問がわいてくる理不尽な物な訳だ、しかし理不尽だと分かっていても、そういう規則を遵守してしまう訳だ。でも、もしかしたらそういう些細な所からファシズムは始まるんだと、この本は訴えている訳だ。

僕の学校は、本当に地方の学校で、割と制服に関する規則が厳しいんですね。で、その日も朝服装検査があって、で、その話している当の教師も制服検査をやっている訳ですよ。しかしそのような異常に厳しい服装検査は、結局生徒を従順にさせるという意味でしか無いんだから、権威主義的な人間を作るという意味で、確かにファシズムへと人を向かわせるものです(*5)。故に、教師の言っていることは正しい、正しいのだけれど……

じゃあ何であんたは服装検査をし続けるのよ!?

一応言っときますがね、「教師という職を守る為には仕方ないのだ」とかいう言い訳は、高橋哲哉さんの後書きを見たら絶対言えない筈なんですよ。だってあの後書きでは、まさにそういう生活の為に権威に反抗しないという考え自体を批判し、しかも別にその授業では批判する為にこの本を読み解くとかいうことではないんです。だったらそのような言行不一致をしてしまうことは、授業の目的からすれば全く論理的に擁護不可能でしょう。

例えばこれがもし「でもあの服装規定はこの本に出てくる様な法律とは違う物なんだよ」とか言うなら、「どこが違うんだよ!」と言って反論することは出来たとしても、一応本の内容と服装規定を見かけ上は両立することは可能な訳です。しかしこの教師は明らかに「あの服装規定はこの『茶色の朝』に出てくる理不尽な法律と一緒だ」と言った訳です。だとしたら、この本の性質上、そのような服装規定に反旗を翻さなければならないはず。でもそれはしない。じゃあ何でこの本を紹介したのか?この様な本を紹介しなきゃならない義務なんて、どこからも受け取って無いんだから、この本はその教師が是非紹介したいと思って紹介したはずなんです。なのに何で(*6)……

しかしまだこれだけだったら僕だって別に驚かなかったでしょう。いつの時代だってこういう風に論理的におかしいことをあからさまにやってしまう人は少なからずいました。ですが、あたりを見回してみて僕は更に驚きました。周りの他の生徒の顔を見てみたのですが、今この教師が言っていることに対し、突っ込みを入れるどころか、怪訝な顔で見るということすら誰もしていないのです。

一応言っておきますが、この学校の生徒で服装規定に対し反抗意識を持ってない人なんか殆どいません。そして更に言えば、彼らは他の授業とかでは例え授業中でもとてもやかましい生徒達なのです。極些細な言い違いやら書き違いに対してでも、敏感に反応する人達なのです。そういう人達が、この絶好の突っ込み所に対し、誰一人何も反応していないのです。「反応しようと思ったけど誰も特に反応しないのを見て反応するのを止めたのではないか」と、僕も最初は思いました。しかしだとしたらせめて怪訝な顔つきで教師を眺めたりするぐらいはする筈です。しかし皆一様に無表情に先生の話を聞いているだけで、何の反応も示さない。別に先生の話を聞いていない訳じゃないんですよ。一部の生徒は確かに寝ていましたが、大部分の生徒はとても真剣に話を聞いていた訳です。なのに何の反応も起こさない。ただひたすら先生の話を聞いて、要点をメモするわけです。そしてその次の日の服装検査ではそこで一緒に話を聞いていた筈の生徒が注意されたことに文句を言う訳です。何で……

もうこれだけでも僕は大分訳が分かんなくなってきた訳ですが、しかしここで更に僕はあることを発見します。それは「このおかしな事態に対し、自分も(内面はともかく)表層は適応している」ということです。正直に言いましょう。僕はそのような異常事態の中心に居て、直にその事態を観察していた訳なのですが、しかし何も出来ませんでした。じゃあ別に僕はその異常事態を容認していたのか?とんでもない!容認せず、おかしいと思っているからこそ、今ここにこうして記事を書いている訳です。しかしじゃあ何でその場で僕は「おかしい!」と言えなかったのか?第一僕は『茶色の朝』のメッセージはもっともだと思ったのです。だとしたら、おかしいことに対し「おかしい!」と叫ぶことは重要なはず。なのにそれが出来ない。じゃあ僕は本当はそんな本のメッセージ信じていないのか?じゃあ何で今ここにこの記事を書いてるのか。そんなことを考えている内に、僕はとてつもない「闇」に捕らわれてしまった(*7)のです……

論理の根底にある信仰

一応言っておきますが、僕は別に上記に掲げたことを批判したくてこの様な文を書いているのではありません。この問題は批判ごときで解決する様な問題ではないのです。何故なら批判というものは、一応双方が最低限の「論理」という前提を持っているが故に可能なものな訳なのですが、しかし上記のようなことは、まさにその論理が崩壊してしまっていることにより生じていることなのです。故にあくまで「論理」を前提に置く批判は全く意味を成しません。

それよりも僕はそうやって自分たちが相手を批判したり、言論するときに自明のことして使ってきた「論理」そのものに、今何かしらの変化が生じているのではないか?

この前(*8)僕は幼児的全能感(id:rir6:20050206:1113766677)という記事で、「『僕』に信頼がおけなくなった」ということを書きました。で、実はそのことがもたらす障害(*9)として、「私」という嘘(id:rir6:20050209:1113809653)を書いた訳なのですが(やっぱりわからないと言われても仕方の無いことだと思う。">*10)、でもその時はまだ理屈の上では分かってましたが、しかし実感としては受け取り得なかったのですね。だからその嘘だけわざと見破らず、この先も「『私』という嘘」の基に他人の嘘をどんどん暴いていく。なんていう選択肢が脳天気に掲げられた訳です。しかし今回のことで僕は実感として、「私」という嘘が崩壊しているということを認知したのです。

細分化される「私」

ここでもう一回、「私」という嘘と、それが如何にして崩壊したかを説明しましょう。

「私」という嘘とはつまり、「昨日の『私』と今日の『私』、そして明日の『私』も、一部は違えど結局は同じ『私』なんだよ」という前提のことです。例えば、極度の心神喪失状態で無い限り、私達は通常、過去の自分が犯した罪であっても、その罪に対する罰は受けなくてはなりません。これはつまり、過去の「私」と現在の「私」は同じものなのだから、過去の「私」が犯した罪に対する罰であっても、現在の「私」は受け取らなくてはならないという考えの基に成り立っている訳です。

しかしそれはあくまで幻想であることは明白です。まず「私」というものに明白な領域などありません。「私」は他者によって影響を受け変化します。もし、本当に「私」と他者の間に絶対的な壁があるのなら、過去の自分の矛盾のみが弁証法的に現在の自分を生みだすといって、「私」内部での歴史性を生みだすことが可能であるかもしれないが、しかし結局どうしたって「私」が社会的産物、つまり社会からの影響を受けていることは確実なのだ。もし嘘だと思うなら、お前が社会・自然の影響以外のものから生みだした自分、俗に言う「本当の自分」を見せてみろ!僕は絶対にそんなものは無いと断言できるから。

しかし「幻想である」ことは「それが信じられない」ことと等号ではありませんでした。何故なら幻想は、それを否定できる条件が無い限りは幻想として機能しうるからです。しかし幻想は常にそれが幻想である以上、自らを否定してくれる証拠を求めます。というか近代史はむしろその自らを否定してくれる証拠を探す歴史といっても良いでしょう。

殆どの物がまだ未知であった時代に於いては、共同体外のことは「未知」のものであるとされていましたので、まだそこに「本当の自分」を見出すことが出来たのです。つまり、自分が存在する歴史を調べてみたんだけど、そこには何かしら分からないところがある。ということはそこに自らを「私」たらしめる未知(*11)があるのだと人は思ったのです。むしろ、その様なシステムがあったからこそ、人々は未知に活路を見出し、人類史上未曾有の発展が出来たのです。

しかしそのような行為を余りに長く続けた結果、どこまでが自分達が分かったことで、どこまでがまだ自分が分からなくなったのか検討が付かなくなりました。つまり、人間の記憶領域以上に人間が探検した領域(*12)が拡大した結果、探検した領域と探検してない領域の区別が付かなくなってしまったのです。(*13)その結果何が生じたか?既知と未知の区別が消滅してしまい、その結果、「私」がある所がどこなのかも分からなくなってしまったのです。結果、「私」=「実存」=「世界」という考えが生まれます。これが即ち実存主義です(*14)。そして、その結果哲学の世界では既に「私」という嘘は暴露されました。

しかし一般民衆にはまだその様なことはありません。確かに先端の世界では探検した領域と探検してない領域の区別が付かなくなってしまっていた訳ですが、しかし大衆は宗教教育(id:rir6:20040610:1113913485)によって情報チャンネルは制限されてきた為、その制限によって受けとけない情報チャネルはまだ未知であった為です。しかしそれも高度情報化により終わりを告げます。高度情報化社会は情報の制限を取っ払いました。例え沢山の言語を覚えなくても、外国の人々にコネが無くても、簡単に全世界の情報が受け取れる様になったのです。しかしそれはまた、「未知」/「既知」の区別の消失も意味しました。つまり卑近な例で言えば、例え紫色になっているリンク(*15)であっても、そこをクリックして見た情報に見覚えはなかったとか、そういうことが随所で起こる様になったのです。そしてその結果人々は多重人格の様にスキゾ的に心を病む、つまり過去の自分と現在の自分の統合が取れなくなっていったのです。(*16) (*17)

「私」の絶対性の崩壊

そしてその結果、他者と「私」の境界線もまた崩壊します。だって過去の「自分」と他者を分かつ物は何もないということなのですから、現在の「私」なんてものは文章化、いや、思考化した途端に過去の「私」になっている(*18)のですから、形而上では「私」は決して認知しえないのです。そして形而下では全てが「私」となるのです。他者と私が並立し得る所は何処にもありません。そして僕は、その一つの典型例として「(読んでいる)お前が正しいと思うから、正しいのだ」という文を捉えたのです。

「あえて」は不可能である

さて、僕はこの前このような問題に対し、「それでもあえて『私』を、それが幻想としながらも信じることは可能なのではないか」と言って、ある種最後に残った希望としてそのような選択肢を提示しました。まぁこの選択肢は結構好評で、コメント欄でも

僕は

 1.「『私』という嘘」がばれたことを隠し、再びあえて「『私』という嘘」の

  庇護のもとに他人の嘘を暴く

っすね。そんな他人と自分とを溶かし合うつもりもないし。けど、その正当性が「私」しか適用されない局所的なものだと知った上で発言してる。

エヴァじゃあるまいし。「わたしたち」なんて気持ちわるい。

というのがあった訳なのだけれど、うーん……ごめん。長い間考えてきたけど、やっぱり「あえて」は無理な気がします。だって、あえてを選択する為には、どうしたってそのあえてを選択する高次の完全に信頼がおける「私」が必要な訳だけど、しかし僕が言いたいのは「(高次だろうが低次だろうが)『私』は無理なんだ!」ということなのだから、例え高次であっても、「私」を信用して、その「私」に敢えてを託すことは不可能に思えてならないのだ。

じゃあどうすれば良いのか?

うーん……やっぱり分からないです。といっても1の選択肢が不可能になった以上、今の所提示されている答えは一つ、つまり「私」を捨て、その時の「私たち」の実存だけを信じて動物的に生きるです(*19)。しかしそれは余りにも哀しい。でもそれしか道は無い。どうすれば良いんでしょうなぁ……


*1: もちろん僕も同じ左の人なのでそのことは特に気にしてません。

*2: 特に進学校でもないし

*3: 高橋哲哉さんの後書きもね

*4: まぁ、教育目的だし

*5: ISBN:4488006515:titleでも見といて下さい

*6: 一応言っておくと、僕は別にこの教師は嫌いではありません。むしろ他の教師と比べたら好きな方です。しかしだからこそ、僕は違和感を覚えてしまうのです……

*7: 実はそれが最近更新してなかった理由の一因だったりする

*8: と言ってももう三ヶ月位前のこなんだが

*9: あくまで既存の「『僕』に信頼をおく」という立場から見てということだど

*10: つまり、この記事は結局自分のことについて書いていた訳で、紹介している文はあくまで呼び水(というと語弊があるかな?もちろん、紹介している文章への分析にもなっていると思うのだけれど、主目的はそれじゃなかったということ)に過ぎなかった訳です(他者の心の中なんて結局は分からないし)。だからやっぱりわからないと言われても仕方の無いことだと思う。

*11: =神

*12: 一応言っておきますが、この領域にはもちろん土地だけでなく科学上の発見なども含みます。

*13: これについては「悩み続ける」という戯れ(id:rir6:20050208:1113809554)を参照して下さい

*14: 「実存」=「私」=「世界」への憎しみ(id:rir6:20050329:1113813528)参照

*15: =既に見たページへのリンク

*16: ここら辺の具体例はISBN:4121500873に結構載ってた気がするけど、本がどっか行ってしまったので自信はない←これも症状の一部か?

*17: ISBN:4047041793の方だったかなぁ?

*18: 全ての行動には時間が必要ですから、表出した現在の自分は認知した途端、その認知という行為によってその「私」は過去の「私」となるのです

*19: ええ、ISBN:4061495755:titleとISBN:4140910240:titleからパクっただけです。