Rir6アーカイブ

2005-04-27


[思想]「苦しみ」すら"不幸"と定義できないx

僕は最初、このxに「引きこもり」という言葉を入れようとしていました。しかし考えれば考える程、ここに入るのは引きこもりだけではなく、「あなた」であり、そして「私」である気がしてきました。そしてそれ故に、むしろxには何も代入できないという風に思う様になりした。何故なら、何で入れれるということは、即ち何を入れても結局はxと同じ意味になるということだからです。

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構築される苦しむ「私」

一般に、「苦しい」ということはかなり感覚的なものであると捉えられ、そしてそれ故に、周りはともかく、その「苦しい」という感覚を認知した当の本人は、その感覚を絶対視するとされます。そして、多くの論者によって主張され、僕も前回の記事(id:rir6:20050425:1114379319)で書いた、今社会起きている変化も、「善きこと/悪きこと」・「許されること/許されないこと」などの社会・文化的基準が無効化し(*1)、このような「苦/楽」みたいな身体感覚的基準に行動の基準が移行すると、その様に考えている人は結構多いのではないでしょうか?(*2)しかしそれは余りに今起きている変化を矮小化した考えといわざるをえません。何故なら、今現在起きている変化とは、その様に行動に対する価値基準が入れ替わるという表層的なことではなく事象を自己=「私」が、価値基準によって認知。・判断(*3)し、行動を導くという、そのシステムが崩れ、事象が直接、それに対する行動となるシステムへと移行する変化なのですから、そこでは、「苦しみ」という言語さえも、行動を導くに足る存在とは成り得ないのです。

しかしここで「『苦しみ』は感覚なのだから非言語的な物なのでは?」という主張がされるかもしれません。しかしではもし「苦しみ」が非言語的なものだとしたら、一体何故私達はそれを「語る」ことが可能なのでしょうか?「私は『苦しみ』については語っていない。『苦しみ』を言語化しようとするものについて語っているんだ」なんてことは言わないで下さい。何故なら、そう語ることによってあなたは少なくとも私達の語っている「苦しみ」が非言語的なものであると認知しているのですから。もしそれが非言語的なものだとしたら、認知すら出来なく、従って形而上では決して登場しえなくなる=そのものを指し示すことさえ不可能と成る筈だからです。(*4)人は「苦しい」という感情を持っている=認知していると私達が思う以上、、それは即ち「苦しみ」の言語化になるです。

自分は苦しい≠行動

そしてそれはまた、「苦しみ」を、他のものと同じように行動という次元から引きずりおろす、つまり語弊を恐れず言えば、「私は苦しいから○○をしたい」という欲望を無くすのです。前回の記事(id:rir6:20050425:1114379319)でも述べましたが、人は常に過去の自分しか認知できません。ですからそれを現在・未来の行動に変化させるには、過去と現在を分かつことのではないものとして結ぶ強力な時間感覚が必要です。しかし「私」という嘘が崩壊した以上、そのような強力な時間感覚は決して望めません。故に自分がとても苦しいにも関わらず、それに対処するために行動を起こすことが出来なくなるという、極めて"不幸"な事態(*5)が生じる。つまり、「苦しい」から不幸になるのではなく、「苦しい」かどうかわからなくなるが故に不幸になるのです。

「"不幸"な事態」とは

しかし「苦しい」ならともかく、「『苦しい』かどうか分からない」ことが何で不幸なのだろうか?それを知る為に、一つのケーススタディとして「引きこもり」のことを考えてみたいと思う。

まず、「引きこもりなんてぐーたら寝て楽で良いじゃん」などという馬鹿は放っておきます(*6)。しかし「じゃあ何で何もする必要がないのに"不幸"なのか?」というと、まぁその場しのぎの対応は出来るだろうが、しかし根本的な答えは(その"不幸"を受けてる人なら)殆どの人が出来ないだろうと思う。何故なら、それを言語化してしまった途端、上記の様なメカニズムにより霧散して、対処する価値の無いものになってしまうからだ。だから彼らはけっして"不幸"を言語化することが出来ず(*7)、形而下で引きこもりを選択するのだ。しかしそれは言語化することによって時間感覚を利用することが出来ない以上、対症療法的に成らざるを得なく、根本は解決され得ないのだ。

これがまだ「私」という嘘が説得力を持つ時代だったら楽だった(*8)。"不幸"が「苦しみ」化でき、そしてそれによりその苦しみの原因を知り、らにそれを最終的に退治する長期的な計画を時間感覚のもとに―個人として―立てることが出来たからだ。

しかしそれは引きこもりには出来ない。何故ならその不幸を「苦しみ」として言語化したとたん、それは何の行動ももたらさなくなるからだ。しかし「苦しみ」化しなければ、時間感覚及び「苦しんでいる『私』」の構築を活用できなくなり、結局根本はどうにもならない。さらに言語化しないが為に他者にその"不幸"を「苦しみ」して伝えることが出来ないから、「あいつらはのんびりしてるなぁ」何ていう冷たい視線を受けるなど、二次的な被害を受ける(*9)。

解決策

は決して言語化出来ないだろう。


*1: まぁ、世の中にはその事実さえ認めたがらない人も居るのだが

*2: そして往々にしてそのような文脈で「実存主義」を単なる社会・文化的基準から感覚的基準への変化を認める思想だと考える人も多いですが、それは明らかに間違いです。

*3: =言語化

*4: これ(非言語的な物の認知不可能性)は実は結構深い問題ですから、後日この件に関してはまた別に記事を書くつもりです

*5: 何故ならそれは決して解決の為に形而上で解決することを許さない"不幸"だからです。

*6: どうせそういう馬鹿はこういうことには一切興味無いだろうし

*7: 下手に言語化したら対症療法さえ出来なくなる

*8: もちろん他の要因で結構大変だったんだろうけど

*9: しかしこれは理解によって解決できるはずだ!