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2005-05-01


[思想]死を前提にした共同体

わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえ らせられ、わたしたちは変えられるのである。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死 なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。

死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

コリント書15章

絶望からの逃避としての「死」ではなく、希望への飛翔としての「死」へと。

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自殺とは何か?

まず最初に、自殺といっても色々な種類のものがあります(*1)。「経済苦」による自殺とか、「男女関係のもつれ」による自殺、「うつ病」による自殺など、極端なことを言ってしまえば自殺者の数だけ、自殺の理由はあると言って良いでしょう。

しかし一方で、どんなに多彩な理由があったとしても、結局その理由によって生じた行為は、自殺という行為以外の何物でもないことも、また同時に確かめなければなりません。何故なら、自殺後の身体に個性を認めるなんてことは原始的宗教(*2)でもない限り出来ませんから、当然死後の肉体は物体・エネルギーとなります。そして現代科学においては(*3)、全ての物体・エネルギーは理論上は同じ計りのもとにおけるのですから(*4)、そこには差異(*5)は存在するかもしれないが、根本的な(*6)違いは何も無いのです。もちろんこれはあくまで肉体の話なわけですが、しかし自分はともかく、他者の霊魂を認知することなんかは、これもまた原始的宗教以外では聞いたことがない(*7)わけで、しかし自分の自殺を認知するというのは、自殺の原理上不可能なんですね。何故なら、認知という行動は、必ずその行為が行われた後にやらなきゃいけないが、しかし自殺の後に何かしら行為を行うことは不可能なのですから。故に例えどんなに沢山の自殺の理由があったとしても、その行為自体は(差異はあれど)共通しているわけです。

ここから導き出されるのは次の様なことでしょう。つまり、自殺というものはそれ単体だけで願望として存在しているのではなく、色々な理由より引き起こされる。しかし自殺という行為自体は一つである以上、それは全て共通のものによって引き起こされる。ということは、自殺は色々な理由の中にある、共通している部分によって引き起こされるということです。しかも、その共通の部分はその理由の中にある、共通部分以外の部分を無化する作用を持っているのです。何故なら、もしそのような部分が無化されないなら、その共通部分以外の部分が行為に影響を与え、その結果自殺という一つの行為に帰結することなく、様々な行為に分化されてしまうからです。

生きている人間しか自殺は出来ない

では一体どのようなものが人々を自殺へと導くのか?ここで重要なのが、自殺の動機として提示される理由が本当に様々であるということです。例えばこれが「食べる」とか「本を読む」みたいな行為だったら、その行為に至る理由は限られています。「運動して腹が減ったから食べる」等の理由で人間は食べるのであって、「今日は雨だったから食べる」みたいな理由で食べることはありえませんし、「本を読む」にしたって「知識を深めたいから本を読む」みたいな理由はありえますが、しかし「今日転んだから本を読む」みたいな理由はありえないわけです。しかし自殺の特殊性は、その動機は決して断定されません。「運動して腹が減ったから自殺した」もありえるし、「今日は雨だったから自殺する」もありえる、「知識を深めたいから自殺する」もありえるし、「今日転んだから自殺する」もまたありえるのです。何故なら、「食べる」とか「本を読む」とかの殆どの行為は原理上経験可能ですが、自殺という行為は先ほども言いましたが原理上経験不可能なのです。故に自らの経験によって自殺について考えることは出来ないのです。

では私達は自殺について何も考えることは出来ないのでしょうか?しかしだとしたら一体いままでの文は何だったのか(*8)。つまり、完全に考えることが不可能であるとしたら、それに対する定義づけすら不可能であるということなのですから、そもそもそれを話題に出すことすら出来ないはずです。しかし自殺を僕は今話題にしているし、第一もし定義付けが不可能だとしたら、それを行う人間すら存在しなくなる訳ですが、当然そんなことは無い(*9)のです。

そしてその事実はまた、自殺という行為をどのように考えるべきかということについて重要な示唆を与えてくれます。確かに自殺の経験というものは絶対に語り得ません。しかし自殺自体、つまり自殺の定義は存在するのです。それはつまり、「生きている自分を生きていない状態にする」ということです。つまり、自殺を導くもの、それは「生きている」ということそのものに隠されているのです。

「生」の変化と自殺の変化

さて、ここからが本題です。僕はこの前書いた「利己的行動の崩壊」という記事(id:rir6:20050425:1114379319)で次の様なことを書きました。

殆どの物がまだ未知であった時代に於いては、共同体外のことは「未知」のものであるとされていましたので、まだそこに「本当の自分」を見出すことが出来たのです。つまり、自分が存在する歴史を調べてみたんだけど、そこには何かしら分からないところがある。ということはそこに自らを「私」たらしめる未知があるのだと人は思ったのです。むしろ、その様なシステムがあったからこそ、人々は未知に活路を見出し、人類史上未曾有の発展が出来たのです。

しかしそのような行為を余りに長く続けた結果、どこまでが自分達が分かったことで、どこまでがまだ自分が分からなくなったのか検討が付かなくなりました。つまり、人間の記憶領域以上に人間が探検した領域が拡大した結果、探検した領域と探検してない領域の区別が付かなくなってしまったのです。その結果何が生じたか?既知と未知の区別が消滅してしまい、その結果、「私」がある所がどこなのかも分からなくなってしまったのです。

つまり、変化以前(*10)においては、「生」とはつまり「未知の探索」だったのです。これは決して地理的なことだったり科学的な意味に留まりません。「未知」とはつまり「未だ認知出来ぬもの」であり、それは「未来」と等価値なのです。ですから、全ての人間には未来があり(*11)、そしてそこに向かっていくことが「生」だったのです。そして、自殺はつまり、その「生」を中断するということなのですから、その行為を行う理由はつまり「未来があり、そこに自分が行くことが嫌」だということです。つまり未来=未知に対する絶望ですね。それは具体的(*12)には「色々な人の集まりに入ってみたが、何処でも僕は受け入れられなかった。ということは、きっとこの先でもずっと僕は周りの人に受け入れられない。だから自殺する!」という風に現れたり、「僕は生まれてからずっと貧乏だった。ということはこれからもずっと貧乏なんだろう。だから死ぬ!」という風に現れたりするわけです。そしてそれ故に、そのような自殺願望に対する対処法もまた、未来=未知に希望をもたせることを目的とするものになるのです。まぁ、しかしいまいち既存の自殺予防策というのはその個人としての実感に留まってしまって、理論化されるもので無かったがために、自殺予防策を考える人達と似た様なメンタリティを持つ人しか救えなかった(*13)わけですが、しかしそれでもある程度の人は救えた訳です。

しかし変化以降(*14)においては、そのような「生」は崩壊し、そしてそれ故にそれに準拠していた自殺も大きな変化を迎えます。そしてそれ故に、従来の自殺観(*15)では考えられないような、ネット集団自殺みたいな新しい自殺が登場し、拡大てるのだと僕は考えるのです。

ネット集団自殺の不可解さ

従来の自殺観を持ってネット集団自殺を考えるときに一番分からないのは、ずばり「何でわざわざグループて自殺するのか?」ということでしょう。これがもうちょっと大人数だったら集団的熱狂で説明できるし、二人とかだったら心中として解釈できるが、しかしわざわざ少人数のグループで自殺する理由というのはなく、ただ単に無意味なだけです。無理矢理考えようとすれば「自分がいざ怖じ気づいてしまったときのため」という理由も考えられなくは無いですか、しかしよく考えてみればあれだけの少人数だったらいざ逃げようと思えば簡単に逃げられる訳で、従来の「未来に絶望したから人は自殺するのだ」という自殺観ではネット集団自殺は説明しえないのです。

しかしこれは当たり前のことです。何故ならネット集団自殺というものは変化以降の「生」に対応しているものであり、そして変化以降の「生」においては、そもそも「過去の自分」=「現在の自分」=「未来の自分」という等式が崩壊しているのですから、「未来に絶望する」なんてこともありえないのです。では一体「未来への絶望」以外の何が自殺へと導くのでしょうか?

期待としての「死」と、それに入れるものとしての「共同」

ここで重要なのは、上記の様な変化は確かに不可避なものなのだけれど、しかし決して幸福なものではないということです。「苦しみ」すら"不幸"と定義できないx(id:rir6:20050427:1114540784)でも少し書きましたが、「私」という嘘を失うことは、むしろ人間にとってはあまりにきつすぎることなのです。故に人々は絶対的なものに"救い"を求めます。しかしそれは生の内に決して存在しえないものなのです。何故なら変化以降においては「現在」しか存在しないわけですが、しかし「現在」というのはその定義上一瞬しか存在しないものであり、そして過去が存在しない以上、その一瞬が過ぎた後は完全に「現在」や、その現在の上に乗っかっていたものは消滅してしまいます。故にその「現在」の上に乗っかっていった、というかまさに「現在」を規定するものである「生」の中にもまた、絶対的なものは存在しないのです。故に人々は「生」にはもはや期待せず、「死」に期待するようになるのです。つまり、人々が「死」に求めるのは絶望からの逃避というネガティブではなく、「永遠」への希望なのです。

しかしそれだけでは駄目です。何故なら「死」とはあくまで容器であり、それ自体では"もの"ではありませんから「絶対的なもの」は成り得ないのです。そして、そこにまさにネット集団自殺の特殊性が生かされるのです(*16)。つまり、「死」という容器の中に入れられるものとして、「集団」が置かれるのです。そう、共同体が絶対性を失った現代に於いて、唯一絶対的な共同体、それが死を前提にした共同体なのです……そしてそれに向かう可能性は、自分の表層的状況に関わらず全ての人に偶有的に存在しうるのです。

でも

敢えて僕はここで言っておきます。幾ら一緒に死んだって、多分僕と君とは一緒にはなれないと。

確かに「もしかしたら他人と共同できるかも知れない」という妄想は、幼い頃から何度も刷り込まれてきましたから、変化以降であっても記憶によって一定の確からしさを持ちます。しかし、この現代に起こっている変化は、まさにその記憶による確からしさをうち砕くものなのです。確かにその変化は人間にとって辛いものです。しかし、だからといってそれを直視しないことは、決してその変化への反抗には成り得ません。むしろ、それを直視し、そして考えること。それのみがその変化を本気で憎むものに残された唯一の道なのです。もし「別に変化を憎んではいないよ」とか言うなら別に良いんですがね……(*17)


*1: 「首つり」とか「樹海」とかそういうことじゃなくてね

*2: ちょっと発達した宗教なら身体と霊魂の分離を唱える為に、死後の身体はある程度の儀式を行えば「抜け殻」として物質となります

*3: まぁ、当然浅知恵なんだけど

*4: 相対性理論

*5: A君の自殺とB君の自殺では動いたエネルギーは量が違う。とか

*6: =計測不可能な

*7: こっちはあんま自信が無いんだが、確かに非原始的宗教の中にも他者の霊魂をあがめ奉るところってのは結構ある(というか殆ど)な訳なんだけど、でもじゃあそれを認知出来るかと言えば、殆どの宗教が「見えない(比喩的な意味で)けれどある」って感じだと思う。

*8: 冗談ではありません

*9: 自殺者は居る

*10: 旧世紀とでも呼びましょうかねぇ?もちろん比喩的な意味ですが

*11: 「過去の自分」=「現在の自分」=「未来の自分」なのですから

*12: =表層的

*13: そして当たり前だがそういう人が自殺者に占める割合は少ない

*14: もちろんそれは新世紀である。

*15: つまり、「絶望したからその絶望からの逃避として自殺するのだ」という考え方

*16: 自殺なのに「生かされる」んです

*17: まぁ、僕は「憎しみ」こそまさに現代で生きる唯一の拠り所たと思ってるんですけど