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2007-05-16

[学ぶ]人は人の心を弄ぶ、それが権威によって行われることが問題

http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20070515/p3

まず最初に僕は、この記事を読んで「なんか危ない記事だなぁ」と思った。「今すぐ自殺したほうがよい」というのが本気ではないレトリックであるというのは、僕でも分かるのだけれど、しかしそれでもカウンセラー志望の人は、この記事を読んで本気で自殺を考えることが、(.01%ぐらいの確率で)ありそうな気がしたからだ。

カウンセラーになりたがる人

何故なら(これはあくまで人から聞いた話なのだけれど)カウンセラーという職を目指す人には、実はそういう心の病気的なものを抱えている(た)人が多いらしいからだ。要するに、「自分も心の悩みで苦しんできたのだから、その経験を糧に、誰かの心の悩みを救えるかもしれない」という論理。

もちろん実際は、そういう人っていうのは大学で臨床心理学の授業を受けていくごとにふるい落とされるから、本当のカウンセラーにはならないらしいんだけど、でもやっぱり「カウンセラーを目指す人」の中には、そういう人も多々居る。

だから、僕はこの記事を、自殺とまではいかないまでも、人の心を傷つけてしまう可能性が高い記事だと危惧した。何故なら、「今すぐ自殺したほうがよい」というのは普通の文章だったらレトリックだけど、この記事の文章は、そういう心の脆弱制がより高い人も含む集団にターゲットを向けていると、考えられるから。

・・・でも、あれっ?何でこの記事は「人の心を弄ぶ」ことを厳に戒めている記事なのに、その記事自体が人の心を傷つける可能性の高い、そんな記事になってしまうんだろう?

全ての文章は人の心を弄ぶのではないか

視点を変えてみよう。僕はさっきこの記事を「危険度の高い記事」と述べた。ということは、そこでは文章の危険度を相対評価しているわけだけど、じゃあ危険がまったく無い文章というのは、存在するだろうか。つまり、危険度を、「ある」か「ない」かの、絶対値で評価してみるのだ。

・・・しかしこれも答えは明白だろう。答えは「危険度が存在しない文章なんて、ない」だ。どんな文章にも、人を傷つける力というのは(潜在しているか顕在しているかを問わなければ)ある。僕の書いているこの文章にだってそれはあるし、こういう意見を述べる文章ではなく、事実そのものを述べる記事にだって、それはある(*1)。最近、「クリリンのことかー」なんて言葉が流行っているけれど、そもそも言葉っていうのは全て例えで成り立っているんだから、ある文章を読んでそれを現実に当てはめる事自体は間違った行為ではないはず。そしてその当てはめる行為が人間の行為である以上、必ずそこには間違いが生まれる(*2)。そしてその間違いが、時にその人を傷つけてしまうことだって、十分ありえる。

だから、全ての言葉は人の心を弄ぶ、弄ぶっていう言葉が悪いなら、操作する。もちろん相対評価として、出来るだけそういう間違いを少なくし、人の心を弄ぶ力を小さくした、そういう言葉を書く/言うようにする、そんな努力は可能かもしれないけど、でも完全に人の心を弄ぶ力をなくした言葉ていうのは、書く/言うことは出来ない。何故なら、そもそも「言葉」のという単語の定義の中に、「人の心に働きかける」というのが含まれているからだ。「人の心を弄ばない言葉」なんていうのは、その内部で自己矛盾を起こしている。

人の悩みを聞くことは別に良いんじゃないか

でもじゃあ、全ての人が人の心を弄ぶっていうなら、カウンセラーは結局普通の人間と同じことをやっているのだろうか?これは、ある意味では確かにイエスだ。記事では、素人がカウンセリングすることを厳に戒めているけど、でももしカウンセリングという言葉を「人が人の悩みを聞き、その解決策を考える」という風に定義するならば、そんなことは誰でもすることだ。もちろん現実がそうだからって、現実がそうだからそれは「正しい」とも言えないが、しかし人が人に相談を持ちかけることを全否定するなんてことをすることが「正しい」とも思えない。それこそ「心理学何様だ」っていう感じになってしまう。

問題は、それが唯一解として権威化されることでは

でも、一方で今「カウンセリング」という言葉には、「人が人の悩みを聞き、その解決策を考える」という意味以外の、別の意味があるというのもまた事実だ。その意味とは、つまり「ある特別な能力を持った人が、ある人の『本当の心』を読み解く」だ。人々がカウンセラーを頼る理由っていうのは、そこら辺にあるし、そして、この記事で言うカウンセリングの危険というのも、まさにそこにある。

例えば僕がある人の心の悩みを聞き、「それはあなたの幼少期のトラウマが原因だ」と言うとしよう(*3)。そのある人は果して僕の言うことを信じるか?

まず信じないだろう。まぁもしかしたら、実はそのある人自身がそういう答えを事前に心の中に持っていて、それを確かめるために僕に悩みを言っている、そんなケースだったりしたら、「そのとおり!」と言うかもしれないが、大体の場合「何馬鹿なこと言ってるのsjs7君」てな感じで終わる。

ところがこれがカウンセラーとの対話になると、ある人がそれを信じる可能性はぐっと高まる。何故なら、そこでは「カウンセラーは、普通の人が分からない『本当の心』=唯一解が分かる(=権威化)」ということが了解されているからだ。そしてそのように信じられることが、一方でカウンセラー固有の力を生み出すし、他方でカウンセラー独自の危険性を生み出すのだ。

人の心って、そんなに壊れやすい?

id:NOV1975氏はこう書く

ちょっとは臨床のことを学ぶわけだ。発達も行動もやるしね。そこで知ったことは、人の心のあまりの脆さと言うもの。ガラスのハートっていうけど、繊細じゃなくても砕けない心なんてないよ。もし砕けないように見えたらきっとその心は既に崩壊しているに違いない。

(略)

そして、「心理学をやっていたんだって?」的な質問が少なからずカウンセリング的なものを期待しているニュアンスを持っていた場合、全力で「俺は実験系だから」と否定に走る。だって怖くてできないものそんなこと。ちょっと一ひねりすればあっさり人を壊すことができる。

けれど、これは門外漢の僕から見た頓珍漢な意見かもしれないけど、僕は人の心がそんなに弱いものであるとは、どうしても思えないのだ。例えば、ある悪意を持った臨床心理士が、僕の心を壊そうとして、僕と喫茶店で3時間ぐらい話したとしよう。でも、それぐらいで僕の心は果して壊れるだろうか?

もちろん僕は別に「僕はそんなのにだまされる人間じゃないぞ」っていうことを言いたい訳じゃない。むしろ僕は騙されやすい人間だ。例えば僕は何かの新興宗教に1日も換金されたら、その新興宗教を信じてしまうだろうし、自己啓発セミナーとかに行ったら、多分真っ先に「自己啓発」しちゃう人間であると自負している。さっきの臨床心理士と僕が対話したらという例え話だって、確かに僕の心自体を壊すことは不可能だろうけど、何か高い商品を買わせたりして、僕の経済生活を壊すことは、十分可能だと思う。

問題は、でも確かにそうやって僕を異常な心理状況におくことは可能だけれど、それが本当に「壊れてしまった」のか?ということだ。

人は、それでも生きる

例えば、ある新興宗教の信者を例にとろう。その人は教祖様こそ唯一絶対の神であると考え、その人のためなら人を殺すことも自分が死ぬこともなんでも出来る、そういう風に考えているとする。

では果してそのひとは「壊れている」のか?マインドコントロールなんかを研究している心理学者から見れば、確かにそういう人は「壊れている」のかもしれない。

でも、実はそういう心理状況って、そんなに特異な心理状況ではないことは、この国に六十数年前に起きたことを思い出せば、容易に想像できる。一億総火の玉が叫ばれ、若い子供でも自分が米兵を殺して自分も死ぬということが現実味を持って想像された、そんな時代がこの国ではあった。

そして重要なのは、そんな人達も、一度戦争が終われば、再び「自分のために生きる」ことを取り戻したということだ。戦争が終わって確かに国民は虚脱感にとらわれたかもしれない。しかしじゃあそこから日本国民が滅亡の坂をころげおちていったかといえば、そんなことを言うのはトンデモ右翼くらいだろう。例え戦争に敗れても人々は生きるのだ。

良くフィクションでは「精神崩壊」というものがラストに描かれる(*4)。要するに散々悲惨な体験をした主人公が、最後に狂っちゃってエンドっていう作品なんだけど、でも僕はそれが本当の「エンド」であるとは思えないわけ(*5)。「私コワレチャッテマスカ」と叫ぶ羽美ちゃんだって、次週になれば戻ってくる。

僕にとって「壊れる」とは、回復可能性が0になってしまうことだ。でも、そんなことってそうそう無いだろう。

臨床心理学の(門外漢の僕から見た)カラクリ

しかし一方でそうではない「壊れる」という言葉の定義もある。要するにある心を「正常な心」と定義し、そうでない心を「異常な心=壊れた心」と定義する方法だ。多分id:NOV1975氏はそういう定義で「人(の心)を壊す」という言葉を使っているのだろうし、臨床心理学における使い方も、そういう使い方なのだろう。

ただ、僕から見ると、その「正常/異常」という二元法は多分に怪しいものだ。

例えば僕は大学の共通教養科目というやつで「心理学概論」というのを習った。でそこで発達心理学っていうのの概説を聞いたんだけど・・・

感想は一つ。「こんなお行儀の良い発達する奴いねーよ」だった。

もちろんその先生もそれは十分分かってて、「もちろんここで紹介している発達段階を全ての人が順序どおりに進む訳ではありません。この発達段階はあくまでモデルケースであり実際は多様な・・・」とか注釈をするんだけど、でも、じゃあ実際は多様な発達をするんだったら、そのモデルケースの意義って何よ?っていうことになるわけで、まぁ、僕が講義を真面目に聞いてなかった性でもあると思うのだけれど、正直意味が分からなかった。

で、僕はその講義を聞きながら、こんなカラクリを考えてみた。

まず、大学の学問で「正常な心」というものを極めて狭く定義する。そしてそれを大学の授業やマスメディアを通じて流布する。そうするとその定義に当てはまらない人が「異常な心=壊れた心」としてラベリングされる。そしてそのラベリングを受けた人が、そのラベリングによる不安を元に、カウンセリングを受けに来る。そしてそこでカウンセリングをするのは、「正常な心」を定義した大学学問を習ったカウンセラーであり、その人たちがカウンセリングの実績を挙げることにより、その「正常な心」を定義する大学学問の権威が高まり、更に「正常な心」という概念が多くの人に流布する・・・

もちろんこれに対しカウンセラー・臨床心理学側からの反論は多々あると思う。しかし一方でこういう視点に立つと、色々なことが説明できるようになるのもまた事実なわけで。

全ての人は異常であり、全ての人は正常である

例えば、今「頭の中で誰かが語りかける」と告白すれば、その人は間違いなく臨床心理学的に「壊れた人」、もうちょっと専門用語を使えば幻聴妄想を持つ人として扱われるだろう。しかしじゃあなんでそれが「異常」であると言えるのか?明治維新前の前近代の日本においては、それは「狐憑き」として扱われ、そんな異常なことではなかった。それが異常とされるようになったのは、まさに近代的な考えである「科学」が日本に入ってきて、妖怪などの現象が否定されたからだ。更にいえば、今でも地球上では、そういう狐憑き的な現象は各地で見られる。そして、そういう地域の考え方から見れば、まさに私達のように、狐憑きを病気と考え、直さなきゃいけないと考える、私達の方が「異常な心」であり「壊れた心」なのだ。

カウンセリングの権威化

話が広がりすぎたので元に戻そう。id:NOV1975氏は「人の心は壊れやすい」と書き、そうであるからカウンセリングは危険性を持つと説明する。でも、その氏が書く文脈における「壊れる」という言葉を定義したのは、その「人の心は壊れやすい」ということを明らかにした臨床心理学自体だ。

そして実は問題もそこにあると、僕は思うのだ。

つまり、もしカウンセラーがただ人の相談にのるだけならば、そもそもそんなことは誰でもすることだから、それ自体が特別危険であるとは言えない。「人の心を弄ぶ」と言うけれど、人の心に働きかけない言葉なんてものがありえない以上、全ての言葉は「人の心を弄ぶ」のであり、そのこと自体をもってカウンセリングを否定はできない。

しかし問題は、その心を弄ぶということが、カウンセリングの場合無条件に「正しい」こととされることだ。そこには、カウンセラーは正しく人の心を把握できるという「認証」があるわけだけれど、じゃあその認証を与えているのは何かといえば、それはそのカウンセラーを生み出した臨床心理学なのだ。そして、その臨床心理学に権威を与えているのは何かと問えば、それはカウンセラーの実績である。が、そのカウンセラーの実績を「実績」として定義するのは「正しい心」と「異常な心=壊れた心」を分ける臨床心理学な訳で、そうやって権威付けの輪はぐるぐる回る。

異常者という「不安」の生産

別にその権威付けが臨床心理学とカウンセラーの間だけでぐるぐる回るんだったら、それこそバターになるまで勝手にやってれば良いのだけれど、実際はそうではなく、そこでは副産物として「異常者」というラベリングが日々生産される訳だ。そしてそのラベリングを受けた人にたいしては「カウンセリングを受けないと心が壊れてしまうよー」と言い、不安を植え付ける。

これこそがカウンセリングの真の問題だと僕は思う。つまり、自らを権威とし、その権威を元に不安を生産し、その不安が権威を補強する。そのような悪循環がカウンセリング・臨床心理学には生まれている。

まとめ

そして実はこの記事で紹介したid:NOV1975氏の記事も、その再生産に寄与していると僕は考える。

確かに一見、彼の記事はカウンセリングの流行を批判しているように見える。しかし彼が批判するのは、あくまでカウンセリングが「素人」によって為されることであり、カウンセリング技術、そしてその元にある臨床心理学自体は、別に批判されない。むしろ、「人の心は壊れやすい」ということが心理学の授業により分かったと語るとき、その文章は明らかに、臨床心理学の権威により権威づけられている。

だが、その権威づけこそがまさに問題なのだ。id:NOV1975氏は「カウンセラーやりたいって軽い気持ちで言う人は今すぐ自殺したほうがよい」と言う。もちろんそれがレトリックであることは分かるのだが、しかしレトリックであるにしても、人に自殺を勧めるって一体何様だと。そして、何様だと聞かれたとき、この文章はこう答える。「臨床心理学様だ!」と。だが、本来人の心を救うはずの学問が、自殺を勧めるって一体何なのか?その裏には、まさに臨床心理学の権威付けの輪があるわけで、そんな輪こそが問題なのではないかと、僕は思うのだ。

補足

別に僕はカウンセリングを全面否定するつもりはありません。実際、ある種のそういう技術を必要とする人が居る以上、その技術を持つ人は、それを提供するのが責務だし(*6)。

でも、それが絶対正しい唯一解だとされることには僕は断固反対です。ましてや、その技術を元に、ある人を第三者が「正常/異常」と裁断したり、ましてやその技術の保全を第一に考え、それに寄与しないであろう人(この記事で言う「カウンセラーやりたいって軽い気持ちで言う人」)を「自殺したほうがよい」と断罪するなんていうのには、正直怒りすら感じます。

そういう風に権威化するから、カウンセリングの犠牲者が増えるということに、何故気づかないのか?そう思ったから、この記事を書いたのです。

ついでに補足しておくと、僕がこの記事で書いた考えもまた、ある一つの見方から書いた文章であり、唯一解ではありません(*7)。

上手く書けなかった

何か↑の記事は上手く書けなかったなぁ。

うーん・・・何だろうなぁ。別にid:NOV1975氏の意見を全否定したいわけじゃない。カウンセラーが大変責任の重い仕事であるのは事実だろうし、その責任を本当に持てるのかと問い詰めるというのも、そんなに悪いことではない。

ただ・・・そこでその主張を補強するために

とか

とか、そんなことが主張されるのに、違和感を覚える。そんなに人の心は弱くない、それをあんたらが「弱い」と言うからそれにみんな縛られちゃうんだ、とか、そんなことを考えちゃう。「強いから責任を持つべき」じゃなくて「『本当はそんなたいしたことないのに、強いと思われている』ということに対し責任を持つべき」というか、でも二つにそんな大きな違いがあるかと問われると、そんなにない気がするし。

ただ、やっぱり「自殺したほうがよい」という言葉に強烈に違和感を覚えたのが一番の理由かなぁ。しかもそれが「臨床心理学」という、本来人の心を助けるはずの学問によって権威づけられている。それが何か嫌な感じがした。

あ、あと僕は世間知っていうのを結構評価していて、素人の人生相談も、それが素人によるものだと回りが認知している限り、結構好きだということも関係しているかも。例えば江原氏とかも、あの人の口実の占星術が本当は胡散臭いっていうことが、一般常識になっていれば、別に良いと思ったりするし。

[生きる]「責任」をとられることについて&「割り切り」の倫理

どうもやっぱりid:sjs7:20070516:1179257919について、うまく伝わらないのに伝えたいという思いがある。ので、もうちょっと事を一般化して話してみる。

「責任を取る」っていうと、大抵はその責任を取った人は尊敬される。自分のことの責任をとるならまだしも、他人のことに関する責任までとると言ったら、それこそもう大変な人格者としての扱いを受ける。そしてそれに比べて、自分に対しての責任すら取らない人っていうのは、大変卑しい人として見られる。

でも、見方を変えてみる。例えば親と子、親っていうのは子供のしたことについては、少なくとも民事上は、監督責任という感じで、責任をとらなきゃならない。それに対して子供っていうのは、例え自分がしたことであっても、責任能力がまだないとみなされるため、責任をとらなくて済む。

じゃあ親っていうのは凄いのか。子供っていうのは卑しいのか。それは、確かにある意味ではそう言えるだろう。だけど、一方でバーターにされているものがある。それは、自由と尊厳だ。

例えば、未成年においては、結婚には親の承諾が必要だ。携帯電話の契約やゲームの売却にも、親のサインが必要だし、親には虐待にまでならない限り、わが子を「しつける」権利があるとされる。

また、未成年は基本的に社会においては「未熟者」として扱われる。何か発言しても「お前はまだ親に守られているからそんなことが言えるんだ」と言われる。基本的に一人前の人格を持つ存在としては認められない。

それが本当にいいか悪いかは置いておこう(*8)。重要なのは、自分が持つべきとされる責任を人に取られたとき、その人は一方でまた、自分の自由や尊厳を制限する、そんな権利を(社会的ルールにより)手にするということだ。「自由・尊厳」と「責任」は、今の社会においては不可分なものとなされており、どちらか一方が移譲されれば、もう他方も逆方向に委譲される。

カウンセラーにおける、責任と尊厳

「カウンセラーは非カウンセリング者に責任をとるべき」、これは確かに一面的に見れば素晴らしい職業倫理であると言える。自分の為せることの大きさに気付き、それでもその大きな力を、自分の意思で背負うべしというのは、まさにスーパーマンなどが抱いた倫理と全く同じだ。

だけれど一方で、その倫理はまた裏の意味を持つ。それは「非カウンセリング者は、カウンセラーに尊厳を預けよ」という論理だ。彼らは「責任」を取る素晴らしい存在だ。ゆえに彼らは「正しい」。スーパーマンに歯向かうものが無条件に悪とされるように、カウンセラーもまた、責任とともに、特別な「権威」を手にする。

もちろん、その様な構図により、上手く行っている部分があるのは僕も認めよう。実際、そういう権威カウンセリングによって救われる人は多々居ただろうし、多々居たからこそ、今もそういう制度と権威は続いているのだ。

……でも、やっぱり僕は納得がいかない。ある人が、ある人の尊厳を手の内に握るって、やっぱりおかしいのではないか。

id:NOV1975氏は「他人の尊厳を握っているんだから、その尊厳には責任を持て」という。そりゃあそうだ。

でも、そもそも人の尊厳や心って、そんな人の手によって握れるほど、小さいものなのだろうか?僕はそうは思えない。例えどんなに技術の鍛錬をしたとしても、人の尊厳や心を完全に捕まえることは出来やしない。例え最善の治療を尽くしたとしても、クライアントが突然、自ら死を選んでしまう、そんなケースもありえる。

だとしたら、それに対して完全に責任を取るって、「すべき/すべきではない」という問題以前に、出来ないのではないだろうか。出来ないことを無理に「頑張れば出来る」と欺いて、それで出来なくて自分を責める。そんなのは、カウンセラーにとっても、クライアントにとっても、何の利益ももたらさない。

「割り切り」の倫理

だから、誤解を恐れずに言うなら、僕は、むしろカウンセラーには、「割り切る」ということを薦めたいのだ。結局、自分が出来るのは対話であり、それ以上でもそれ以下でもない。社会の構造が自分たちに権威があるよう見せかけているが、実際は一人の人間でしかない。だから、どんなに努力しても、失敗することはある。そのことを認めたうえで、それでも自分が生きるため(*9)に、技術を磨く。そんな、「割り切り」の倫理こそ、重要じゃないかと。

何度も言うけど、別に僕はカウンセラーがやさしい職業だって言いたい訳でもないし、別に今カウンセラーになる人に「どうぞどうぞなって下さい」と薦めるわけでもない(*10)。id:NOV1975:20070515:p3を読んで、全く何も考えない、そんな人は、やっぱりそういう仕事には向いてないんじゃないか、とも思う。

ただ一方で、どんなに頑張っても、人間は人間であり、神様や超人にはなれない訳。だとしたら、確かに技術を磨いて、人間の中でもより凄い人間になろうとすることは重要だけれど、まず限界を知って、その限界を受け入れてからでないと、潰れちゃいそうな気がしてならない。駄目なカウンセラーに苦しめられるクライアントも悲劇だけど、限界を割り切れないままもがき苦しみ絶望するカウンセラーも、同じように悲劇なんじゃないかと、僕は考えるのだ。

*1: 例えば、神戸の小学生殺傷事件の犯罪が14才の少年によるものだったことが公表されたときに、「自分の心の中にもそういうことを考える部分がある」と絶望して、自殺した少年がいたように

*2: むしろ、その間違いこそが人類を進歩させるという意見もあるけど、まぁそれは「てっつがくぅー」的な話なのでおいておく

*3: 僕はそもそも人の相談にのることは嫌いだし、人の悩みをトラウマに還元することも、それが正しいか否かは別として、好きではないから、まずこんなこと言わないけれど、まぁ例として

*4: って、僕の好きな作品がそういう作品ばっかだからそう思うだけで、実際はそんなの稀なんだろうけど

*5: 本当に意地の悪い作者だと、最後に自殺を暗喩して、それでエンドにするから、そういう場合は「ああ壊れちゃった」と納得できるんだけど、でも大抵の場合、そこまで描く人は少ない。

*6: 例えその権威が本当は存在しなくても、実際にカウンセリングに権威があるとされる以上、カウンセリングを行う人は「自分の行動には権威と責任が伴う」と自覚して、技術をきちんと磨くべきだし、それが出来ない人はカウンセラーなんてものはやるべきではないだろう

*7: と、脱権威化しておきます

*8: 僕としては、もうちょっと自由や尊厳を未成年に与えてもいいと思うけど、でも完全に大人と同じっていうわけにもなかなかいかない。けれど、もうちょっと多くてもいいと思う

*9: 当然この文は『ブラックジャック』からインスパイアされてますw

*10: そもそも僕は何度も言うようにカウンセリングとか臨床心理学については全くの門外漢なんだから、そんなことを語る資格自体無い