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2007-06-19

[再録] 「自分の感受性くらい」について

もじれの日々 -追悼

言うまでもないが、これは他者を鞭打つ詩ではない。自戒の詩だ。

というけれど、「 自戒をする」ことは決して「他者を鞭打つ」ことの否定ではない。むしろ、http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20060226/p3の「下士官根性」的な考えが蔓延していることからも分かる様に、自戒をする人と他者を鞭打つ人は重なっていることが多い。

だからこの詩の作者に関する予備知識がない僕としては、この詩はやっぱり自己責任言説であると言わざるを得ないだろう。

更に言うなら、「自分の感受性は社会(世界)に奪われた!」などと叫ぶことも、立派な一つの感受性である。というか、実はそういう感受性の方が、「自分が悪くなったのは自分のせいなんだ……」とか言う(敢えてはっきり言ってしまえば)自虐的な考え方よりよっほど面白い作品を作る。

そんな必死に「自分の感受性」なんてものを守ってどうなる?それで何か変わるのか?「自分の感受性」なんてもの必死で守ってそれで人生終えるより、「自分の感受性」を世界に奪われてでも、世界とともにあり、そして世界を変えるべきでなのか。

人は「あらゆるもの」から自由であるべきだ。そしてその「あらゆるもの」に感受性は含めるべきだ。

(何で僕がここまでこの詩に敵対的かと言えば、やっぱりこの詩に最初に接したのが学校の授業だっ存在するのであって、当然この詩もそのような教え方で教わったからだ。ここでセンスの良い人なら「脱構築」とかで解釈を組み替えたりすることによってその教育に抵抗するんだろうけど、しかし僕は、「解釈するにも本当にそのような『自己責任』的側面が全くなかったらそんな『自己責任』的解釈は出来ないはずで、それが出来たとということは、やっぱりこの詩には隙がある」と考え、やっぱり学校教育的解釈を受けたものとしては当事者的にその隙を許せなかったので、この様に詩を直接嫌ったのだ。)

2006年3月2日に書かれた記事。


あれです。スキゾちっくな近代修養主義批判です。要するに「自分」なんてものにパラノイアックになるよりも、そんなの無視して軽やかに現実をスキゾチックに生きようよと、そんな感じです。

今の僕はというと、見通しは甘すぎるかなと思うけど、目指そうとしている方向は良いかなと、そんな感じです。ただ、やっぱり「あらゆるもの」から自由になるなんてことは出来ないでしょう。自由を担保する「何者か」からは自由にはなれない、問題は、どの「何者か」に自由を担保させるかって、ことでしょうね。