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2007-06-21

[考える]負け犬の暴力論

何か最近、戦争だの革命だの、あるいは金属バットで殴り殺すだの、そんな話が僕よりはるか上の年代の「若者」(*1)の間に流行ってます。

まぁ、僕も昔は結構そういうの煽っていたクチだから、そんなに偉そうな事は言えないんですが、しかしそんな僕でも一つだけ、どーしても突っ込みたいことがあるんですね。それは

「あんたら本当にその戦争やら革命やらで、敵の人間を殺す度胸はあるのかい?」

ってことです。

人は案外人を殺せない(*2)

ある本によれば、戦争で兵隊が銃を発砲する率ってのはせいぜい2割なんだそうで、更にそれが敵に当たって、敵を殺す率なんていうのは、もう数十~数百発に一つという、低い確率らしい。

戦争という、「相手を殺さなければ自分が死ぬかもしれない」という単純な状況でさえそうなのだから、「自分達の犠牲を元にぬくぬくと生きている中産階級」なんて、複雑にも程があるような規定で指し示される「敵」を、本当に殺す、そんなことは、よほどの度胸がない限り不可能な訳だけど、戦争とか革命とか金属バット殺人とか、そういうのを声高に叫ぶ人達にそんな度胸があるのか、正直僕はかなり疑っている。

いや、別に本当にそういう度胸があるんなら良いんですよ。(*3)でも、はっきり言うけどさぁ、君達そんな度胸ないでしょ?まぁ、別に無くてもあくまで「脅し」なんだから良いという論理もあるでしょうが(*4)、でも脅しにしたって、もうちょっと上手くやった方が良いと思うよ。そんな震えた手で銃を持たれたって、別にちっとも恐かねぇんだよ。どうせだったらそれで何か撃ってみなさいよ。

なんでこういう嫌がらせ的な文章を書くかというと

結局、僕自身が「撃てなかった」人間だったからなんだろうなぁ、と思う。さんざん「銃を取れ!」と叫びながら、いざとなったら何も出来なかった。要するに「負け犬」だ。

でも、今の僕は、実はそれでも良いんじゃないかと、思ってる。その理由は、8割は負け犬である自分を慰める為だけど、もう2割は、結局、「決断主義」とか「サバイバル」とか言って、弱肉強食を煽るのも、そういう煽る人に対して「ボンクラのテロリズム」を叫んで、テロを推奨するのも、結局同じ穴のむじなでは無いかと、そう思うからだ。要するに、「(暴)力」を好きな人たちってこと。

もちろん、そういう暴力によってしか、世界は変わらないっつーのも、真実なのかもしれない。けど、だとしたらなおさら、そういう暴力によって世界を変えようとするのは、「真実」に屈した、格好悪い行動なんじゃねぇかと、そう思う訳よ。

僕らは、いくら煽られたって、サカキバラやネオむぎ茶みたいに人を殺すことは出来ないし、例えそれがどんなにひどい「日常」でも、それをぶっ壊すことすら出来ない、そんな「負け犬」、あるいは「ボンクラ」なのだ。

それが良いとは言わない。何かを奪われているのに、それに対して抗議できないなんてやっぱりおかしい。でも、一方で、今の自分がそういう自分であり、そして、そういう自分も、また生きて、時に喜んだり、時に悲しんだりする、そんな「人間」である、ということもまた事実な訳ですよ。

だとしたら、そういう自分を「自己批判」して、革命戦士になろうとすることが、現実味を持つとは思えないし、正しい行為だとも思えない。

問題は、そういう「負け犬」、「ボンクラ」な自分を、まずは精一杯許容して、そうであることに「誇り」を持って、そしてその上で、そういう自分でも、「何か」出来ないか、そして、その「何か」をするためには何が必要なのかを、ゲンダイシソウとかそういうのに依存しないで、実践的に考えること、なんじゃねーかと、思う。

*1: 彼らは僕等から見たら既にオッサン・オバサンなんだけど・・・

*2: 昔、これと反対の「人は人を殺す」ってタイトルで記事を書いたなぁ、ということをふと思い出す。

*3: でも、それだったらぐだぐだ言ってないでさっさと殺せよと思いますが。

*4: ちょうど「本当に使う気はないけど、脅しのために核兵器を持つ」のと同じ論理