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2007-06-22

[考える]「楽しく生きよう!」と声高に叫ぶ人ほど

楽しく生きているように見えないのは何故?

[考える][ゼロ年代]『ゼロ年代の想像力』について(その0)

ここ一か月、僕はずっと『ゼロ年代の想像力』(*1)について考えていた。最近のブログのエントリは、その殆どがその考えるためのメモであったと言っても過言ではない。

一ヶ月の間にはてな界隈では、『ゼロ年代の想像力』について、さまざまな意見・見解が出された。絶賛するような記事(*2)もあれば、はたまた批判する記事(*3)もあり、またこの文章は古すぎる、現実はもっと先に進んでいるというような記事が出されれば(http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html">*4)、一方で、むしろそのような10年そこらの「時代」に囚われるのではなく、もっと普遍的にものを考えろという記事(*5)も書かれた。

では僕の見解はというと、上記の見解は確かに『ゼロ年代の想像力』のある側面を正確に捉えているが、しかし全体像としてはいずれも不十分であり、更に言えば、如何に『ゼロ年代の想像力』という文章を自らの生に生かすかという点において、実用的ではないと考える。

もちろんそうやって大口を叩く僕にしたって、では『ゼロ年代の想像力』を全体像において十分に捉え、実用的に生に生かす方法を見つけられたのかというと、もちろんそんなことはない。ただ、その様な理解に向けての道筋は立てられたと自負している。

要約

その道筋が一体どのようなものか、まず要約した形で説明し、そしてその後5回のブログ連載において、それを詳述しようと思う。

  1. まず最初に、僕は『ゼロ年代の想像力』を分析する上で、丸山眞男の『asin:400412039X:title』を使用し、そこから、宇野氏の語る、決断主義・セカイ系・日常主義などということが決してこの「90年代」や「ゼロ年代」特有のものではなく、むしろ近代日本において何度も問い返されたきた根本的問題であることを示そうと思う。これによって、まず『ゼロ年代の想像力』を新しいものであるという見解や、それはもはや乗り越えられた問題であるという見解が、論難できると思う。
  2. しかし一方で、その次に僕は、そのような根本的な問題が、今僕たちにとって「解決すべき」、つまり解決策の提示されない、重大な問題になっているかを、教養論の地平から、論述しようと思う。ここにおいては、ゼロ年代の想像力が提示した問題など、そんなに大した問題ではないという見解が論難できるだろう。ゼロ年代の想像力は確かにそれ自体は新しい問題ではない。だが、それが僕たちの生において重大な問題になっているということは、新しい事態であり、それ故に僕たちはこの『ゼロ年代の想像力』を無視することは許されない
  3. そして第三に、ではその『ゼロ年代の想像力』の示す方向性に対し、本当にそのような方向性しかありえないのか、ということを、実用的な視点において検証してみようと思う。巷ではよく誤解されているが、宇野氏の方向性は、決して決断主義をただ肯定すれば良いというものではない(*6)。むしろ、宇野氏の視点は、決断主義の暴走を防ぐ概念を如何に確保するかという視点である。そして、(これは僕の憶測である部分も多分にあるが)宇野氏は[http://www.geocities.jp/wakusei2nd/nobuta.html">http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html:title]などを読めばそれは明らかだ">*6)。むしろ、宇野氏の視点は、決断主義の暴走を防ぐ概念を如何に確保するかという視点である。そして、(これは僕の憶測である部分も多分にあるが)宇野氏は[http://www.geocities.jp/wakusei2nd/nobuta.htmlなどを読む限りにおいて、その概念として「日常の豊かさ」を挙げている(*7)。しかし、僕は「日常の豊かさ」は決して決断主義の暴走を止めはせず、むしろ暴走を誘発しかねないことを、再び『日本の思想』から示し、更にそれが決断主義の暴走を誘発するのに留まらず、時に私たちの生を不幸にするかもしれないということを、自己搾取というタームを使いながら、示したいと思う。更にこの回においては、補論にで、梅田氏(*8)の提示する「サバイバル」という概念も、「日常の豊かさ」と同じ問題をはらんでいることが、論じられるだろう。
  4. そして四回目に、では僕たちは一体何処へ向かうべきなのか。それを考えるために、『ゼロ年代の想像力』の前提である、「大きな物語の崩壊」という問題を、改めて実用的な視点から考える。そうするとそこでは、大きな物語は必ずしも人間にとって必要不可欠な概念ではないことが明らかになるだろう。そこで僕たちは、では何で必要不可欠でないはずの「大きな物語」が、近代においては必要な不可欠なものとされたのか、そのメカニズムを社会学などの知識を使用して論述する。そしてそこでは、「大きな物語」が人間にとって必需品であるのではなく、「承認」こそが必需品であるということ。そして、近代は、その必需品である「承認」が、「大きな物語」によってしか得られない、そんなメカニズムを作ることによって、「大きな物語」が人間にとって必需品であることを捏造したということを示す。その段階においては、『ゼロ年代の想像力』は、その捏造を強化するための言説装置として分析される。つまり、社会のメカニズムから目を背けさせることによって、「大きな物語」の崩壊が即セカイ系的アパシー、あるいは決断主義的アノミーに繋がることを自明視させる、そういう罠として、『ゼロ年代の想像力』は捉えなおされる。(*9)
  5. そして最後に、ではその社会のメカニズムに対し、闘争あるいは逃走するにはどのようにすれば良いかという方向性を、提示しようと思う。僕の予想では、それは「自己承認」と「他者の非社会的承認」となる。しかし、未だこの方向性については、僕自身模索中であり、有り体に言ってしまえば「よく分かっていない」段階であるから、それほど詳述は出来ず、断片的かつ曖昧な提示になると思われる。

なお、この要約はあくまで現在の段階での僕の考えていることの要約であり、記事を執筆していく中で、変更する可能性が多分にある事を付記していく。何しろ、最初は3回の記事でやるつもりだったのが、要約を書いていく段階で2つも増えて5回になってしまったのだから。もし連載中に何か気になる視点が新たに提示されたら、僕は躊躇無く連載の方向を変えるつもりである。

なお、僕はこの連載において、自らを律する(*10)ために敢えて「だ・である」文で書いているが、生来僕はこのような偉そうな文体に慣れていないので、文法の間違いなどが頻出すると思われる。もし、読者の中でそのような間違いに気づいた人が居たら、是非指摘してくれると有難い。

*1: asin:B000QUCUKW:titleにおいて、宇野常寛氏が執筆を開始した連載

*2: id:otokinoki:20070531:1180589181

*3: id:NaokiTakahashi:20070609#p3

*4: http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html

*5: id:sugitasyunsuke:20070614:p2

*6: http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.htmlなどを読めばそれは明らかだ

*7: id:otokinoki:20070531:1180589181において、『ゼロ年代の想像力』を代表するものとして、(僕は読んでいないが、日常肯定的作品であろうと思われる)「フラワー・オブ・ライフ」が取り上げられていることは、決して牽強付会ではない

*8: id:umedamochio

*9: しかし一方で、そのような罠がなければ、僕たちはそのような問題に対して真剣に向き合わなかったということも、また忘れてはならない。

*10: 要するに、連載を最後まで書くということ