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2007-07-04

[使い回し]「英霊なんか知らねぇよ」と、何故誰も言えなくなってしまったんだろう

某所で2006年8月18日に書いた記事を使いまわして掲載。

何か世間では最近靖国問題とかが盛んだそうだ。そんでもってテレビでは毎日討論が行われてて、政治家とか文化人とかや、「一般の人」とかがディベートしたりディスカッションしたりしてて、「靖国神社参拝こそ、日本人が過去の戦争犠牲者を供養する唯一の方法だ」とか「戦争でなくなったのは、兵士だけではない!」とか「外圧に屈するな!」とか「他国の戦争被害者のことを考えずして、何が恒久平和だ」とか、そんな議論が行われているらしい。また合祀・分祀なんてのも色々問題となっているそうで、「A級戦犯は日本を戦争に引きずり込んだ人々、その人達と犠牲者を一緒に祀るなんて犠牲者は決して許さないだろう」とか「一旦合祀されたものを分祀することは決して出来ない。それはろうそくの炎から火を分け与えても炎自体が残るのと同じ原理だ」とかいう議論もあるらしい。

しかしそういう議論を聞くたびに僕はこう思ってしまうのだ。「何でみんな、そんなに『英霊』とか『魂』とか、そういうものを気にするんだろう」と。もちろんそういう英霊とか魂とか、そういうものの存在を完全に否定出来るとは(別に科学至上主義者でもない)僕は思ってない。実際にそういう物体が科学的に存在するかどうかはともかくとして、そういうものが概念として存在し、しかもその概念がメディアやコミュニケーションで使われている以上、その概念は存在すると認識しておくべきかもしれない。

けど、だからといって「それが存在すること」と「それを気にしなければならない」ということは、違うんじゃないだろうか。例えば、何故昔の日本では「祟り」とかがリアリティを持ったかといえば、それはそのような概念の元に、洪水などの自然現象が定義付けされたからな訳だけど、じゃあ今英霊とか魂とか、そういう概念が何かの現象と繋げられているかというと、少なくとも僕はそういう話(要するに、英霊とかが参拝されなかったせいで祟りを起こすとかそういうこと)を聞いたことはないわけで、だったら別に国家教育としてそういう英霊・魂への信仰を基礎づけられてないこの現代日本において、何故誰も「英霊?そんなもの知らないよ」と言えないのか、何故誰もが真面目に英霊とか魂とかの存在を気にしながら物事を語るのか、それがどうしても理解出来ないのだ。

だって真面目に考えてみておかしいじゃない?あのろうそくの例えとか。百歩譲って、霊というものが仮に存在するとする。で、そこから更に千歩譲って、その霊は靖国神社にいるとするよ。でも、何でその霊がわざわざ炎と同じ化学的性質を持っているとなるのか?っていうかもし霊が炎と同じなんなら、水掛けりゃ霊っていうのは消えるのか?「違う」?だったら何でその「二つに分けても本物は残る」っていう性質だけ類似して、「水を掛けると消える」っていう性質は類似しないのか?っていうか、ろうそくの炎と一緒だから、二つに分けても駄目っていうけど、だったらろうそくをそのまま別の所に持ってきゃそれで済むじゃない。何?もともとろうそくの例は説明を簡単にする為(僕から見ると、余計に問題をややこしくしてるように見えるんだけど)の例で、実際はろうそくと英霊は全然違う?だったら英霊って一体何なのよ!

確かに、こういう立場に対し反発する立場があることも知ってるよ。英霊・魂の存在を云々する自体がその英霊・魂に対する冒涜だという立場はともかく、他にも例えば、自分はそういう英霊・魂の存在を信じてはいないけど、でも今の日本社会ではそういうものがあると認められているんだから、社会的な議論としてそういう靖国問題について語る時は、そういう英霊・魂の存在は、あるとして語らなければそもそも議論が成り立たないという立場もあり得ると思う。まぁ、僕が思うにそういう人は、「私」と「社会」の関係を間違っていると思うのだけれど(つまり、そういう風な議論をする人っていうのは、社会に自らの信条をあわせているわけだけど、それははっきりいって全体主義的態度に他ならないし、何より自分が不幸になってしまう。結局社会なんてものは私が、私の尊厳・信条を持って幸福に生きる為に存在するんであって、もし社会の空気が私の信条と違っていたとしても、そのことだけをもって、その私の信条を社会の空気にあわせる必要は全く生まれない、と僕は思うのだ)、別にそういう立場の存在自体を否定しようとは思わない。でも、だからといって、「英霊なんかしらねぇよ」という立場に反発する立場があることは、「英霊なんかしらねぇよ」という立場を絶滅させるほどの力を持っているとは到底思えないんだけどなぁ。

もうちょっと具体例に即して考えてみよう。例えば、このインターネットにはそういう英霊に感謝を捧げることを奨励するFlashが沢山ある(http://daico.exblog.jp/3582540/で見つけた)。で、そういうFlashを色々見てみる。

http://minmin.kill.jp/flash/sinjituwadokoni.swf

http://tokyo.cool.ne.jp/kaiten_website/kaiten.swf

http://www.studio-ipyou.net/swf/kakutatakaeri.swf

けど、はっきり言うけど、散々感動系まんが・アニメを見てきた僕としては、まぁ無料で見れるなら良いかなぐらいの感じでしか見れなかった。これだったらまだ、学校で見せられるアニメとかの方が、作りこんでるでしょう。特に三番目に紹介されたFlash何か、もろアニメ・特撮系の曲使っていて、まぁ要するにアニメのオープニング的なもののパロディで、これでのせられる人って一体どんな人なのか頭を抱えてしまう。このFlashで英霊とかに感謝の念を抱いちゃうなんて、なんつーか……仮面ライダーとかを見てショッカーを本気で憎むぐらいのバカだと思う(またはドリフを見て本気で「志村ー、うしろうしろー」と叫ぶぐらいアホ)。「あれはフィクション、これはノンフィクション」と言う人が居るかもだけれど、結局自分の身と関係がないんなら、フィクション/ノンフィクションの区別なんてそんなに意味が無いでしょう。

繰り返すけど、別に僕は右傾化とかそういうことを批判したい訳じゃない。別に考えて考えた結果、愛国的になることが自分の幸せに繋がるというのだったら、どんどん右傾化すりゃあ良いと思うし、逆に、自国の幸せは私の幸せと一致しないと考えるなら、左傾化すればいい。僕は後者だから左傾化しているわけだけど、別にだからといって、僕は―説教するのもされるのも嫌いだから―別に他人が右傾化することを否定はしない。ただ、社会システムの土俵で、双方が議論を戦わせればいいと思う、

ただ僕が疑問に思うのが、どうも今の人々って、ウヨにしろサヨにしろノンポリにしろ、社会を良くする為に社会について社会で真剣に語りはするけど、そこに「私」を介入しないし、させない、そんな傾向がある。でもウヨにしろサヨにしろノンポリにしろ、結局その個体は「私」なんだから、その議論はあくまで「私」の水準で戦われる筈なわけ。でも何故か「私」の水準で話されているにも関わらず、そこで「私」を出す話し手が一人も現れない。それがどうも不可思議なのだ(昔は、こういう英霊とかの問題を話すと、必ず「そんなこと俺らには関係ないよ」とか言って、年輩に怒られる人が居たと思うのだけれどなぁ)。

まぁ、不可思議っつっても、実際はある程度、説明する為の仮説はあるわけで、それについてはまた後日まとめてみようと思う。ただ今は、とりあえず「英霊なんか知らねぇよ」と、何故誰も言えなくなってしまったんだろうという疑問を提示しておくことにする。

ただちょっと最後に付け加えると、僕は今回靖国問題という焦点からこの問題を取り上げたけど、実際はこの問題は靖国問題に限らず、あらゆる問題に適用出来ると思う。例えば、日本の若者は戦争になった時、41%が「率先して戦う」と回答ということにしても、「何故『自分だけ助かればそれで良い』と言えないのか」という風に問いは立てられるし、更に言えば、「あなたは生きているんじゃない、生かされているんだ」とかそういう言葉に対し、何故みんな反駁しないのか、そういう風にも問いは立てられるんじゃないだろうか。まぁ、そんなこといっても、殆どの人はキョトンとするばっかなんだろうけど……