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2007-07-06

[言及]経営学批判(なんちゃって)

id:Rir6:20070706:1183686188

というご指名を頂いたので、一連の

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070623/1182580528

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070702/1183371975

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070705/1183635453

について批判的に言及してみる。

id:fuku33は何を言っているか

まず、こちらでid:fuku33の話を要約します。

まずid:fuku33氏は、小沢健二という人の「企業的な社会、セラピー的な社会」や「うさぎ!」などを、非論理的・非合理的な実効性に欠ける提案(id:fuku33:20070623:1182580528、)であり、敵と味方を強引に二分する単純な二元的思考だと批判します(id:fuku33:20070702:1183371975)。そして、もし彼の主張が人々に受け入れられたら、それは実効性がないがゆえにむしろシステムの悪い部分を温存し、敵を利することに繋がる、と主張します(id:fuku33:20070705:1183635453)。

今回の記事の目的

しかし、僕が見たところ、そうやって小沢氏の非合理性などを批判するid:fuku33氏ですが、しかしじゃあそう主張する彼の文章はというと、確かに合理的であるかもしれませんが、少なくとも小沢氏の文章に対する有効な批判、要するに実効性のある批判とはなっていません。今回の記事では、それらを指摘していき、更にその様な間違いの背景にあるものや、何故その様に有効でない批判にもかかわらず、はてな界隈ではid:Rir6氏を除いて皆絶賛しているのか、それらを考察していきたいと思います。

1.「論理的であること」はどのように主張されなければならないか

彼は小沢氏の文を批判するに当たり、その文章が論理的でないことを記事で繰り返し批判しています。

なんである種の思想系の人というのは、合理主義を敵視するのだろうか。それは論理的錯誤だし、愚策でしかあり得ない。政治的利害が対立している相手と意見の相違があるとき、しかも相手が合理主義者であれば自分は不合理主義を信奉する、なんていうことは、それこそ相手に囚われているのです。合理主義者に勝ちたかったら、自分がもっと合理主義に徹するしかない。

(略)

組織とか、効率性とか、グローバライゼーションとか、確かにそれらにはある種の厳格さ・えげつなさがあり、それとかかわる人間に適応を迫る要素もある。その圧力への反動として過去への郷愁を少しも抱かない人は少ないだろう。しかしやはり、合理主義に対抗しようとしたらもっと合理主義を徹するしかないのである。

小沢氏の社会批判、それはもしかしたら、論難自体が自己目的化してはいないか。あるいは、その行為によってある人間集団が一体感を生じることを目的としているのではないか。その集団としての反近代、反知性主義、そしてルサンチマン(*1)の正当化ではないか、と懼れます。僕は反近代でも反知性主義でも、個人の生き方としてなにも問題はないと思いますが、それを社会に訴えかけるとき、特に「熱狂的ファン」がいる方がそれを行うときに、ファンのためではなく、もしかしたらプロパガンディストになってしまう人に対して、ちょっと危惧を憶えるときがあります。

もし僕があるシステムの現状維持を望む既得権者で、そこそこ悪知恵が働く人間だったら、システムを変革しようとする勢力を分断しようとするだろう。たとえば、「システムがこのままではいけない!」と思っていそうな潜在的な変革志向者層をなんやかや勧誘してひとまず集め、その前でひときわ非現実的でラディカルで夢想的な変革ヴィジョンをぶち上げる。

これらの主張が正当かどうかを計るために、まず小沢氏の文章を読んでみます。

http://ecologyofeverydaylife.org/usagi/index.html

(引用は打ち込むのが面倒なんでしません。)

どうでしょう、非論理的な文章と感じたでしょうか、それとも論理的な文章と感じられたでしょうか。

僕は、少なくとも一切の予断を排して、全くこことは別の世界の話で、その世界ではこの文章に書いてあるような話が全て真実だと考えて読むならば、これは十分論理的な文章なのだろうと思いました。そして、そうでなく、僕が生きているこの世界を表した文章だとして読むならば、この文章はそもそも「論理的/非論理的」という評価軸で図る文章ではないと思いました。(*2)

ですが、実は僕がこの文章を読んで論理的と感じたか否かという文は、その通り僕がこの文章を読んでどう感じたかということを伝えはしますが、それ以外の情報は全く含んでないです。例えば、ここで僕が「この文章は論理的だ」と感じたとしても、それは「sjs7はこの文章を論理的だと感じた」という内容の情報以外の情報、例えば「この文章は論理的である」という情報は、含んでないのです。(*3)

何故そうなるか?それは、「論理的」=「世界の真実である」なのであり、そして「世界の真実」などというものは、その人の背景知識によって決まる以上、その背景知識が明らかにされない限り(*4)、ただ単に「その人はそれが世界の真実=論理的であると思っている」ということ以外の何者も表彰しえないのです。

先ほど僕は「もしこの文章が僕の住んでいる世界と全く違う世界について書かれた文章ならば、これは論理的な文章である」と書きました。しかしこれはこの文章を一切読まなくても書けることなんですね。何故なら、全く僕が知らない世界で、その世界について書かれたものがその文章しかない以上、その文章に書かれていることがそのままその世界の真実であると信じるしかないのですから。ちょうどミステリー小説を読むときは、通常は犯人はその小説の中に書いてあると解釈するしかないのと同じです(*5)。

「論理的である」ことと「論理的であるとされる」こと

しかし、そんな風に言語市場がすっきりと運営されることは、まずありません。言葉というものは使用の際にはその本来の意味以上に過剰な意味づけが為される場合があります。そして、その過剰な意味づけがその使用者にとって都合がいいように使われるとするならば、それは故意/過失にかかわらず、詐術と呼ぶべきでしょう。

そして、上記の引用文において、id:fuku33氏はある詐術を犯しています。それは「それは私にとって論理的であると感じる」を「それは論理的である」という風に誤認させているという点です。

もちろん、「それは私にとって論理的であると感じる」という文章は、「それは論理的である」と主張するときには、必ず主張しなければならない必要条件です。しかし、それは十分条件ではないのです。「それは私にとって論理的であると感じる」=「それは論理的である」ではないのです。何故なら、「それは私にとって論理的であると感じる」というのは、あくまでその主張する私=id:fuku33の様々なバックグラウンドの知識による判断だからです。ここでは一閲覧者の例として、僕=sjs7を出しますが、僕=sjs7とid:fuku33は、同じ日本に住んでいる日本人という点では、バックグラウンドの知識が被る所があるでしょう。しかし一方で、彼は経営学を教える講師であり、僕は地方の大学の社会学とか学んでいる学生という点で、多分にバックグラウンドの知識が異なる部分があるはずなのです。僕とid:fuku33が違う人間である以上、「それはid:fuku33にとって論理的であると感じる」ということを「それは論理的である」と受け取ることは出来ないのです。もしそうしたいのならば、そこでは、id:fuku33がバックグラウンドの知識のどの部分を適用して、この文章を論理的であると感じたかが明記されなければなりません。そうすることによって、僕もその知識が僕も持っている知識かどうかを照合することができるからです。

しかしid:fuku33はその様な手続きを、付け足しはしますが、論旨のメインにはおかない。論旨のメインは、「この文章は論理的ではない(と私は感じる)」の一点張りで、それがどこでどのように論理的でないかは、ほぼ説明されない。それで「この文章は論理的ではないから悪い」と主張するのは、はっきり言って自らの大学講師という社会的権威を利用した印象操作でしかないのであり、詐術であると断定せざるをえないのです。

2.「論理的であるということ」の有用性

さて、ここまでは「論理的であるということ」の証明(反証)方法について記述し、そしてその方法をこの文章がどのように都合よく逸脱しているかを説明してきました。しかしここでは更に、「論理的である文章でなければ、社会的なことに口出してはいけないのか」という、id:fuku33が自明視する前提についても、問い直そうと思います。

id:fuku33:20070623:1182580528

問題を単純な正義感で解決しようとすると、かえって状況は悪化する。その実例は歴史に山ほどあろう。

id:fuku33:20070702:1183371975

やっぱり小沢氏の議論は非常に粗雑で、論理的に支離滅裂であるのみならず、彼の言葉が現実に影響を及ぼしたとしたら、そもそも小沢氏のヴィジョンの実現に対しては逆効果であろうと思います。

(略)

。まず社会を敵と味方に分け、社会の問題の原因はあたかも自分以外の他者に外在的にあるかのようなレトリックを巧みに展開し、敵と味方が行為として同じことをしていても向こうは悪でこちらは善だ、と弁別するのははっきりと二重基準ですが、それは「普通の人々」の耳に心地良い。でもそれは、具体的な問題について「もっといい解があるはずだ」と架空の理想を提示して抽象論で攻撃するという極めて安易な論法で、しかも「自分は目覚めている」という甘美なナルチシズムを存分に味わうことができる。

(略)

実効性があるのは「現実の問題を考えること」であって、それにつながる道程として「まず概念から整備すること」を考えよう、そう学生にも説明をしようと僕は思っていますが、小沢氏が展開されているような架空の理想論を以て現実の複雑なシステムを部分的に論難することは、それとは違うと思います。

id:fuku33:20070705:1183635453

誰もがみなそのシステムにどこか依存していて、だからこそそのシステムの慣性も身に沁みて感じていればこそ、現実に着実にシステムに向き合っていかなければそれを変えることはできまい、という「現実的」な認識の人々に、「とてもこんな夢想的な構想には共鳴できない。」と思わせれば、結果としてこれほどシステムの現状維持派を利する行為はあるまい。

(略)

人類の活動が地球環境の環境学的限界に近付いている局面であればこそ、求められるのは「よりいっそう精緻な経済活動のコントロール」であって、決して「コントロールという行為そのものを忌避して結果として野放図にシステムを追認すること」ではないと思う。しかしそのためには、現実的かつ理性的な知識の運用が不可欠だし、そのためには誰の心の中にもある普遍的な目的合理性・功利性への志向とか、刺激されればより強く意識化される潜在的な欲求について、目を背けるのではなく、自分の中にその要素がある、と誰もが「他者を悪魔化して安易に安心することなく自省する」こと意外に出発点が有り得るのだろうか?

とid:fuku33氏は書き、「論理的文章」=「世界の真実」=「現実的」ではない文章を書いて社会に働きかけようとすることを、「実効性がない」、「むしろシステムを利する」などと言う様に一概に否定します。しかし本当にそうなのか?具体的に小沢氏の文章が主張している内容を挙げながら、それについて考えてみたい思います。

一.価値観の問題

小沢氏の文章は、まず何を以ってしても、価値観を変えることを人々に要求している様に僕には思えます。

それに対してid:fuku33氏は

id:fuku33:20070702:1183371975

価値観まるごと、フレーム全体を問題にされるならば、後はもう、お互いが宗教だと考えるべきかも知れませんが。

という風にこの問題に触れるのを避ける素振り(それに触れなければ小沢氏の文を論じたことにならないのは言うまでもない)を見せながらも、

そして「世界の飢えている人の半分は農民だ」と言いながら、農業が肥料や農薬を使ったり作物の選択や大規模化で生産性を追求しようとすること、それはもちろん手段は適切に吟味されるべきですが、その目的そのものも批判する。では、途上国は成長を目指さず、従ってなんの「途上」にもないという生き方がいいというのですか。でもそれは、もう豊かになったから、管理や操作や制御やコントロールがうざったくなったから言える先進国のエゴではないのですか。

id:fuku33:20070705:1183635453

誰の心の中にもある普遍的な目的合理性・功利性への志向とか、刺激されればより強く意識化される潜在的な欲求について、目を背けるのではなく、自分の中にその要素がある、と誰もが「他者を悪魔化して安易に安心することなく自省する」こと意外に出発点が有り得るのだろうか?

id:fuku33:20070624:1182683220

ちょっとモデルを考えるために極端でシンプルなことを考えます。コミュニティとビジネスは必ず対立せざるを得ないものなのだろうか?極端な話、山奥の桃源郷で血縁集団だけで自給自足して生きていれば、貨幣を媒介した交換なんかいらないで生きていける、という人もいるかもしれないが、それではあまりに不自由すぎやしないか。それで人類がよしとするなら歴史はこんな経緯をいままで辿って来たでしょうか。

という風に、「この『豊かになるべきだ』という価値観に基づいてみんな頑張ってんだから、それは支持すべきだし、それと違う価値観を提示することは慎むべきだ」という主張をします。

しかしこの主張には二つの問題点があります。

一つは、価値観に基づいてみんな頑張ってんだからというけれど、じゃあ何でそのような価値観を疑う人が出てきているのか?ということです。これは後でももう一度触れようと思うのですが、『努力して豊かになればみんな幸せ』という価値観が本当に全員に受け入れられているのなら、そもそも小沢氏のような主張も存在しなかった筈です。でも現にそういう『努力して豊かになればみんな幸せ』という価値観を疑う主張が小沢氏に限らず色々なところで主張されている。更に言えば、id:fuku33氏は小沢氏をクメール・ルージュや、文化大革命の人たちになぞらえているけど、それは裏返せば、そういう価値観を疑う人たちが、数十年以上前から、それこそ潰されても潰されても出てきているということであって、そのようなことが意味するのはむしろ、『努力して豊かになればみんな幸せ』という資本主義的価値観の磐石性というよりは、むしろその脆弱性と言えるでしょう。価値観に基づいてみんな頑張ってんだからというのは、かならずしも「みんな」のことではない。そして、その様な脆弱性に対して、有効な手立てを資本主義システムは作りえていないということを示す点で、現実的=論理的ではない夢想的な価値観を示すことに意義はあるともいえます。

二つ目の問題点は、「みんながそれを正しいと思っていること」=「無条件に受け入れるべきこと」ではないということです。例えば奴隷制度を考えてみましょう。奴隷制度というのは、昔においてはそれこそ当たり前に世界各地で存在していたことです。しかし、時が経つに連れ、そのような制度はいけないのではないかという考えが、ごく少数からではありましたが出てきました。その様な考えは、その当時においてはとても非現実的で、夢想的な主張であったと考えられます。何しろ「黒人は人ではない」のですから、人ではないものに人権を与えるのは、それこそ「論理的に矛盾」(*6)しています。

ですが、その様な非現実的で夢想的な主張が、やがて世界の大勢になったということはそれこそ歴史が証明しています。絶対普遍な価値観など存在しない以上、未来に生きる子供たちのためにも、価値観は、論理や現実を超えて、夢想されなければならないのです。というか、夢想することが、今を生きる人間の義務だとも言えるでしょう。

二.全体性においての問題

前項では、「論理性が問題にされないモノ」にを挙げましたが、ここでは、「論理性が問題にされない場合」について説明します。

id:fuku33氏は下記のように

id:fuku33:20070623:1182580528

その人の文章は部分毎の記述はともかく、論理の総体ではあまりにも筋が通らず、矛盾や破綻がいくつも見て取れる。それを童話的文体で誤魔化そうとしているように見えるけれど、書いた本人はそれを自覚していないはずはないと思う。

id:fuku33:20070702:1183371975

なんでか。小沢氏の論旨には大きな欠点があって、それは氏が生態系のシステム性についてはあれだけ重視して強調しているのに、他方では経済社会のシステム性についてはまるで議論を避けている、ということ。これが論者は実際には「エコロジー」と「エコノミー」のシステム的性格という共通性に気付いているのに意図的にそれを無視しているならアンフェアな姿勢だと思うし、気づいていないならあまりに不勉強に過ぎる。彼がそもそもこのテーマについて予習した資料が不自然にフィルタリングされているからではないか、と勘繰りたくなるくらいです。

たとえば環境ホルモンが水を媒介にして生態系を攪乱する現象についてはあれだけ詳しく触れているのに、グローバライゼーションによる途上国の工業化が及ぼすシステム的な複雑な波及効果については、非常に話を単純化して一部を切り取って批判している。そもそも経済発展が途上国に悪い影響しか及ぼしていないかのような。そんなはずはないでしょう。子どもの強制労働と環境破壊だけを途上国にもたらして「基地帝国」の資本家が搾取だけしていて、一切現地の貧困状態の改善はないような書き方ですが、もし現実の問題がそんな単純なものならば、途上国で革命でも起こして鎖国して先進国と一切の経済的関係を遮断すれば事態は改善するのでしょうか。そうではないからこそ開発の問題は複雑で、悩ましいんでしょう。各地域・各社会がそれぞれシステムの要素として相補的に機能するようになることには、作用も副作用もある。好ましい一方だけを切り取ることは難しい。でもできるだけ副作用を抑えたい、そのために専門家が調査研究をしているのであって、それを単純に一般化して「専門家はシステムに奉仕するためにいる」みたいな言い方は反知性主義でしかない。

という風に、「部分部分はともかく、それが現実世界全体に敷衍されたとき、矛盾している箇所が出れば、それは非論理的だ」と主張します。要するに、社会全体において、論理的にそれが適用できると決まったとき、初めてその文章は、論理的な文章と認められると、そういうわけです。

しかし僕は、そういう言い分を述べることこそがまさに学者先生の悪い所だと考えます。

確かに小沢氏の文章は、それを部分部分だけでなく全体を通して読むと、結構「アレっ?」と思うような矛盾が見つかります。これは、彼の思考の仕方が、例えば「労働者と資本家の闘争」で全てを説明しようとするマルクス主義や、「神の見えざる手が全ての需給をなんとかしてくれる」という論理で全てを説明しようとする古典派経済学みたいに、ある一つの定理から、世界を理解しようとするのではなく、実際に世界で起こっている様々な事象を寄せ集めて、その総体をなんとか理論化しようとする方法であることに由来するものだと思います。(*7)実際世界というものはまさにカオスな訳(*8)ですから、当然ある場所で上手く適用される方法が、逆の場所ではむしろ逆効果ということが多々あるでしょう。北朝鮮で大失敗した国有化がキューバでは一定の成功を収めるように、世界が複雑である以上、寄せ集めの理論による思考っていうのは、常に総体においては矛盾を示しています。そういう点が、学者先生から見れば「そんな危なっかしいものは理論と呼べない!一切の矛盾がない完璧に論理的な理論こそがこの現実において力になるのであって、そうでない理論などは無益どころか、むしろ矛盾により悲劇を招く可能性があるという意味においては、危険である!」と見えるのでしょう。

しかしそうやって矛盾を恐れ総体における論理性を貫いた結果どうなったか?まさに「今動いているものこそが論理的であり、理想なんてものはクズ」(*9)というような、まさにシステムに奉仕する専門家を作り上げてきたのだと、僕は思います。

しかし、人間の力に限りがある以上、社会の総体を完璧に把握するなんて、本当に出来るのでしょうか?id:fuku33氏は「今のシステムは多少の不具合はあるが、論理的に動いている」と言うでしょう。しかし、僕から言わせれば、それはシステムがその矛盾を隠蔽しているに過ぎません。例えば、お金がある地域にはテレビカメラがいくけど、お金がない地域にはそもそも何もないためテレビカメラも入らず、その結果「真の貧困」は報道されないというように、今の社会システムがきちんと動いているのは、そこに矛盾が存在しないからではなく、それが矛盾を隠蔽しているからなのでは、ないでしょうか。

確かに小沢氏が提示するようなオルタナティブの社会システムは、その各所に矛盾を抱えています。しかしそれは現在動いていないシステムである以上仕方のないことでしょう(新発明は、いつだって失敗からしか生まれない)。問題は、その社会システムを実際に動かしていくなかで、どうやってその矛盾を見つけ、解消できるかに掛かっています。

問題は、そのシステムが動いた後の可塑性を如何に保つかであり、動かす前から完璧を求めるというのは、発明において最初から成功品を作れというのと同じぐらい、馬鹿げた、現状追認的要求であると、僕は考えます。

むしろ、「論理的」であるべき場面のほうが少ない

このように見ていくと、「論理的」でなければならない場面というのは、

に絞られます。このような観点から小沢氏の文章を見ていくと、その文章の中で論理性を追求すべきな場面は、むしろ全体の中では少ないといえるでしょう。つまり、その場面においては「論理的でない」ということは、その文章の有効な批判にはなり得ません。つまり、実効性がない批判となります。

それではここからは、小沢氏の文章の中で、その個別的に「論理的」であることを要求される、そんな場面について、id:fuku33氏が批判している部分を見ていきます。

3.システムについて

id:fuku33氏は小沢氏がこの社会の資本主義システムを批判するのに対し

id:fuku33:20070702:1183371975

そもそも組織的管理とか制御とかを洗脳であるかのように論難し、心理学が権力に奉仕「してしまっている」という人たちからは、社会はみんな衆愚なのかも知れないけれども、小沢氏もその社会のシステムの一部を構成しているのであれば、それこそ「現実の問題を具体的に」と口だけではなく、実際に考えることからやればいいのではないですか。

(略)

少なくとも我々の社会はビジネスの存在によっていまあって、それを続けるにしろ、そこから脱するにしろ、実効性があるのは「現実の問題を考えること」であって、それにつながる道程として「まず概念から整備すること」を考えよう、そう学生にも説明をしようと僕は思っていますが、小沢氏が展開されているような架空の理想論を以て現実の複雑なシステムを部分的に論難することは、それとは違うと思います。

id:fuku33:20070705:1183635453

人が人と財を交換して生活を豊かにしようとすること、その媒介手段として貨幣を使い、そうやって経済活動が地域コミュニティの境界を超えて地球規模で広がっていくこと、そして人々が組織化されて社会的分業がなされていくこと、その現象をなんとか成り立たせるためになんらかの市場メカニズムが機能すること、それは人類の歴史を見れば古来から続いてきた現象であって、現代はなおいっそうその関係性が濃密になっていきつつある。それを現実として「いまある社会のシステム」は背負っていて、近代になって「資本主義云々」と名付けられたものはその一断面だと思う。市場における交換は、人間が皮膚感覚的に信頼を感じられる小さな共同体の枠を超えて、未だ十全たる信頼関係が結べていない他者ともなんらかの交流をするための有効なツールだった。その交換関係はお互いにメリットがあったからこそ、これほど盛んになったと考える。

遺憾ながら、時折この社会にはやはり非道な振る舞いをする主体も現れる。そしてそれは「ビジネス上の行為」の一環としてのかたちをとることも多い。ごく最近の例では、どこかの会社がコロッケの原料を偽る、とかそういうことでも見られた。

しかしだからといって、「人間のビジネス活動一般」が「汚いお金儲けの打算の営み」みたいに非難されることは妥当だろうか?また、フェアだろうか?それはたとえば、一人のサッカー選手が試合でラフプレーをしたら、それが暴力事件として告発されてサッカーというスポーツ全体が罪悪視されるようなものではないだろうか?彼のラフプレーが審判によってペナルティを与えられたならそこで問題は解決されることだし、もし与えられないならそれはルールの正常な運用を求めればいいことではないのだろうか?ここで「サッカー関係者性悪説」みたいな意見は普通は出てこない。

という様に、「今あるシステムは、それによって人々が生活しているが故にあるのであって、それを否定することは、今ある生活を全否定することに繋がる。それは夢想論だ!」と反論します。

これに対して、「なぜ今ある生活を否定してはいけないのだ」ということは上記の文で散々説明したからもう説明しません。

その代わりここでは、「本当に資本主義システムの上でしか人は生活していないのだろうか?」という問いを立てます。

システムの序列

所で……そもそもシステムって何でしょうか?

というのも、僕は一応社会学なんていうものをやっているので、タルコット・パーソンズの社会システム理論とか、そういうのを勉強させられたのですが……正直ちんぷんかんぷんだったんですね。

教養の歴史学の時に教えてもらった「世界システム論」というのは、それでも何となく「欧米は植民地を従属状態に置いて悪い!」ってことが分かった(*10)んですが、正直社会システム理論とかは全く分からなかった……AGIL図式って何なんだよ……

でも、そんな頭悪い僕でも、まぁとりあえず理解(というか曲解?)したことがあって、それは「システムは至る所に偏在する」ってことです。

例えば、僕たちは今こんなはてなダイアリーなんていう場所でクネクネ日記を書いている訳ですが、これだって立派にシステムのひとつで、意見を決められた形式によって応酬することによってそれぞれの欲求を充足している訳です。これを仮に「はてなダイアリーシステム」と名づけましょう。

しかし一方でそのはてなダイアリーシステムは、日本のインターネットの一部に過ぎない訳で、そして、日本のインターネットというのもまた一つの決められた形式により稼動する大きなシステムであり、これを「日本インターネットシステム」と定義するならば、「はてなダイアリーシステム」は「日本インターネットシステム」の下位システムということになります。

しかし一方で、「はてなダイアリーシステム」の中でも、その中には「非モテ」とか「プログラマ」とかの、様々なコミュニティがあります。そしてそれらのコミュニティは、往々にしてそのコミュニティ内のみで通用する形式でもって情報の応酬という稼動をしていますから、これもシステムと考えることが出来るでしょう。そして、例えば「非モテ論壇システム」は、「はてなダイアリーシステム」の下位システムであると、言うことも出来ます。これをどんどん下に遡るなら、それはやがて人体というシステムにたどり着くでしょうし、どんどん上に上っていけば、宇宙というシステムにたどり着くのかもしれません(*11)。

もちろん、実際はここまで階層構造がきちんとしているわけでなく、例えば「非モテ論壇システム」だって、実際は完全に「はてなダイアリーシステム」の内部にあるのではなく、「ライブドアブログシステム」や「ココログシステム」などにまたがっていたりしているわけですが、しかしシステムの連関形式として、上位/下位という相対的区分けがあるのは、やはり疑いようがないわけです。

で、何でここまでそんな抽象的な議論をしたかというと、では、資本主義システムは一体どの程度の位なんだろうか?という疑問があるからです。

「サッカー関係者性悪説」と「野球害毒論」と「覚せい剤害悪論」と「掲示板閉鎖」と、そして「資本主義システム害悪論」

例えば、上記の文章では、システム全体に疑いをもってはいけない(*12)ことを説明する例として、サッカーを例に出しています。サッカーにおいては個々の選手が悪いことをすることは多々あるが、しかしそれはルールの厳格な運用を求める声にはなってもサッカーというシステム全体を批判することにはならないという訳で、同じことが資本主義システムにも通用するとid:fuku33氏は主張するわけですが、しかしサッカーが大変盛んな県で育った僕が言うのもなんなんですけど、サッカーというシステム全体が否定されても、多分そんな深刻な影響は(少なくとも普通の一般市民には)ないと思いますよ?

実際、そういうのはスポーツの歴史に置いては前歴があるわけで、例えば、大正の頃には「野球害毒論」というようなものが主張されたことがありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E5%AE%B3%E6%AF%92%E8%AB%96

これはまぁたまたま野球害毒論を主張するほうが負けたわけですが、もし野球害毒論を主張するほうが勝って、野球が禁止されたとしても、多分その後の歴史の大勢に影響はほとんど無かったんじゃないかなと思うのですよ。まぁ、ちょっとアメリカと仲が悪くなって、太平洋戦争の開戦が早くなったかもしれませんが……冗談です。にしても、野球だって一種のシステムであるのは間違いないわけで。

まぁ、それでもスポーツの世界では、幸か不幸かその種目というシステム全体が否定されたことは無かったわけですが、しかしシステム一般(*13)に対象を広げれば、システム全体が否定されたケースなんて、それこそ山ほどあるわけで。

例えば覚せい剤なんていうのは時代の趨勢によりそのシステム全体が否定されたものの代表格でしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E3%81%9B%E3%81%84%E5%89%A4

覚せい剤っていうのは、それこそ戦前・戦後直後は、新聞に広告が載るぐらい大々的に売られていたものでした。おそらくそこでは、中毒者同士のコミュニティ、さらに中毒者と薬局との間で、立派に「覚せい剤システム」というようなものが稼動していたでしょう。しかしやがてその害悪が主張されるようになると、法律で覚せい剤の使用はほぼ禁止され、覚せい剤システムはその全体が否定されたわけです。(*14)

と言っても、別に僕は、マルクスばりに「資本主義は覚せい剤と同じである!」と主張したいわけではありません。ただ、稼動しているシステムがあり、そしてそこで暮らしている人々が居たとしても、そのシステム全体を否定するべき時はあり得るということを主張しているのです。

そもそも、もしシステムはその上で生きている人が居る限り否定してはならないと言うなら、私たちは掲示板一つ閉鎖できなくなります。なぜなら掲示板と言うものが立派なシステムであることは周知の事実なのですから。しかし例え人が居たとしても、そこで犯罪が多発したり、その掲示板の運営コストが運営者にとって過大な負担になったなら、その掲示板は閉鎖すべきなのです。って、別に2ちゃんねるのことを言っているわけじゃありませんので。

否定されるシステム、否定されてはならないシステム

では、前項において述べたそのシステム全体を否定するべき時とは一体いつなのか。

僕は、まず必要条件としてそのシステムの代替システムがある状態だと考えます。

例えば日本国というシステムについて考えてみましょう。もちろん、そのシステムを否定しようという人たちも一定数存在します。彼らはアナーキストと呼ばれます。って、僕も昔はそんな感じの思想を持っていた時期があったから他人事ではないんですが。

しかし、今の僕の視点から考えると、やっぱりアナーキズムっていう考え方は夢想的だったんじゃないかと思うのです。何故か?それは、日本国には代替システムが存在しないからです。例えば、日本国というシステムを否定したとして、しかしアナーキズム、それも僕が信仰していた様な過激なアナーキズムにおいては、全ての人々の結びつきを否定しますから、そのシステムの空白を占めるモノが全く無いんですね。ということはそこはシステムの真空空間になる。しかし真空において人は生きることが出来ないわけで(*15)、やっぱりそれは夢想的なイデオロギーでしかなかったのだろうと、今の僕は考えるわけです。

(余談ですが、しかしアナーキズムにもいろいろな種類がありまして、例えばアナルコ・サンディカリズムなんて言うのは、そのシステムの空白に労組をおくという代替システム案を提示しています。僕は、そのようなアナーキズムは十分現実的で、議論に値するアナーキズムでないかと考えています。まぁ、人からすればこれも夢想的に思えるかもしれませんが、僕は心が広いんで)

では、資本主義システムにおいてはどうなのか?これは、その人が見ている視点によっても違いがあると思うのですが、十分代案システムがあるのではないかと、僕は感じます

何故か?例えば日本国というシステムに関して言うならば、僕は一日の生活の一日中を日本国民という役割を与えられています。それは24時間ずっと一緒な訳で、例えば家に帰ったらブラジル人(*16)になるとか、夜寝るときはアメリカ人とか、そういうことはないわけです。

しかし、資本主義システムに関しては、それは一日の中でも違う。確かにバイトに行ったり、店で物を買ったりしている時は経済人かもしれませんが、しかし一方である時は「労働には必ず対価が必要」などという資本主義の論理を無視して弟の子守をするときもありますし、「金払って90分体を教室に拘束される」などという、とても非経済的とも言える行為をしたりするわけです。というか、一日中経済人である人がもし居たとしたら、その人の人生は、言っちゃあ悪いけどとてもつまらないものとなるでしょう。

何故資本主義システムは私たちの日常を全て拘束しないかといえば、そこには代案システムがあるからです。家に居るときは家族システム、学校に居るときは大学システム、道に居るときはストリートシステムなど、資本主義システムとは違うシステムが世界にはあふれているわけです。そして、小沢氏の提案も、それらのシステムを改造することにより、資本主義システムの代替策を果たそうとするものであり、筋としてはかなり良い筋だと言えます。

もちろん、「代替システムが存在する」というのは、システムを否定するに当たって必要条件ではあっても十分条件ではありません。しかし、その条件をクリアしたら、次に問われるのはそのシステムを否定し改造した代替システムに乗り換えることの、リスクとベネフィット比較でしか無い訳で、さらに言えばそこにはリスク・ベネフィット比較である以上「何が大事でなくて何が大事か」という価値観の問題(というか価値観も一つのシステムだ)が入り込むわけで、とても「論理的/非論理的」という評価軸で片付けられるような単純な話ではありません。そこでは、双方が双方の提示する価値観やベネフィットに対して、真摯に対応することが求められるわけですが、小沢氏はともかく、ただ「非論理的であること」をヒステリックに槍玉に挙げるid:fuku33氏に、そのようなことが出来ているとは、到底思えません。

資本主義システムが全てのシステムの上位に移行しようとしている

この議論を更に進めると、何故資本主義システムが殊更に否定されるのかも掴めてきます。

それは本来家族システムや大学システムと同列のシステムであるにも関わらず、常に上位への移行を狙っており、全てのシステムを自分の下位システムに収めようとするからです。ハーバマスなどが主張する「生活世界の植民地化」です。

そして、その為には資本主義システムを禁忌化、つまり「否定してはいけないもの」とすることが必要なわけで、id:fuku33氏はその点で、やはり資本権力に奉仕する御用学者というよりないでしょう。しかし、禁忌はそれが禁忌だと名指しされてしまえばもはや禁忌ではないわけで、資本主義批判が禁忌であった時代に戻りたいのは分かりますが、もうそんな時代には戻れないのですから、id:fuku33氏は「資本主義の否定はすべからく非論理的だ!」などと主張するのではなく、おとなしく資本主義を巡る価値観の闘争に自分の身をおくべきだと、僕は考えます。

4.「コンビニの方が自営業者より優れている」論について

しかしid:fuku33氏は、全ての文章において、その様に大学講師という肩書きを利用した高みから、相手の意見を無効化することを狙っているわけではありません。ごく僅かですが、具体的な各論に入り、小沢氏の文を批判しています。

id:fuku33:20070705:1183635453

ひとつだけ各論的批判を。コンビニのバイトはやる気がなくって自営業の個人商店の経営者はよく商品のよしあしを吟味する、という情緒的描写は単なるひとつの仮定であって、しかもあまり筋が通っていない。むしろ現実には店頭の商品の動きや消費者の反応をよく分析し事業に活用するノウハウも個人商店より大企業組織のほうが持ち合わせている場合がたいていである。*1つまり小売店頭での商品の競争と、それを踏まえた市況情報処理機能については、論者の仮説は成り立っていないと考えるのが妥当だろう。

僕はこの様な相手の議論に真剣に向き合った批判こそが重要なのだと考えます。ので、この反論が正しいかについて、真剣に検証してみたいと思います。

コンビニと自営業者を比較して、コンビニの方が消費者のニーズに合致しているというのは、それはコンビニの方がニーズ察知能力に優れているという見方も出来るだろうが、むしろ消費者の方がコンビニ的品揃えに「慣らされている」という見方の方が妥当ではないか。つまり、メディアへのアクセス方法をより多く持つコンビニが、メディアを通じて自社の製品を宣伝し、そしてそれによりニーズを喚起された消費者が、コンビニに行き、そのCMで喚起されたニーズを満たす。そのような循環が生まれていると考えた方が、コンビニの商品管理が優れているという論より説得力を持つと、僕は思う。

そして、そのようなニーズ喚起効果を除いたとしても、そもそもコンビニと自営業者の、どっちがニーズを察知できるかという比較がどのように行われているのか、僕は疑問である。例えば、「なんとなく欲しかったものが十個見つかった」コンビニと、「すぐ欲しかったものが1個見つかった」自営業店舗では、一体どちらがよりニーズを察知できているというのか。「市況情報処理機能」というが、それは平均的なニーズを掴むには優れているが、特定の地域の特異なニーズを掴むにあたってはどうなのか。往々にして「平均的なニーズ」よりは「特定の地域の特異なニーズ」の方が、より重要度の高いニーズであったりする。

もちろん、これに対してid:fuku33氏は再反論があるでしょう。そして、そのように個別の具体的事例についての議論ならば、きっと身のあるものとなるでしょう。

5.善悪二元論について

しかしid:fuku33氏はその様な議論は殆どせず、多くを相手の文章が非論理的であり、それは悪いことであるという決め付けや、下記のような印象論に終始しています。

id:fuku33:20070623:1182580528

経営について、それらがまるで賎業であるかのように論じる人たちは、実は内心、いくらか大衆蔑視、衆愚意識とそこから得られる優越感に陶酔しているのではないかと思うことがある。特に人文系にはたまにそんな人がいる。彼らは「眠れる大衆よ目覚めよ」などという。自分は既に目覚めており、周囲の衆愚はまだ愚かであるという独善的な意識が透けて見えるのは僕の錯覚なのだろうか?

「ひとびとの敵」をまず想定して、それへの攻撃を印象論で繰り広げていくレトリックなど、その人が批判する全体主義の採った手法そのままではないか。怪物を批判して自らも怪物になってしまっていはしないか。それを避けられるくらいには自己懐疑的な人だと思っていたのだが。

(略)

でも、小沢さん、あなたはそれでいいんですか。僕はあなたの理想に魅力を感じないではないですが、そこへ到る手法としてあなたのような社会観が適用されたら、社会はあなたの望む方向とははっきり逆方向に変化するでしょう。まさかそんな暴挙が実現はされないでしょうが、あなたが嘆くほど、人々は愚かではないと思います。いや、そんな言い方も傲慢で、多くの人々は賢明ですよ。しかしそれが時に扇動されるとしたら、それは疎外感を抱いた人々のルサンチマンが正義の衣を被って火をつけて回る時ではないでしょうか。

id:fuku33:20070702:1183371975

まず「敵」を設定する。そして残りは「味方」であるとする。そうすると敵味方、同じことをやっていても向こうは悪行でありこちらは善行であるかのような錯覚が生じる。敵の効率主義は反人道的であるが味方の効率主義は人道的であるかのように書かれていますが、同じことではないですか。相手が民主主義国家で市民の価値観に訴えかけることは陰謀であり「ジャーナリストたち」はみなその手下になっていると言いつつ、自分たちがなにかデモをするために非合法なことをするのは正義であるとする。あなたが批判する「敵」よりも、手段を選ばない分どうかと思いますが。社会構築主義も自由市場信奉も法治主義も敵がやれば悪で味方がやれば善だというのなら、その敵と味方を判別できるのは小沢氏でしょうか?

例えば小沢氏は「絵本の国」(「基地帝国」によって広島と長崎に原爆が落とされたというのだからこれは日本でしょうが)から工業が海外に移転することを批判する。「ちゃんとした報酬をもらえる仕事がなくなったから働けなくなっただけの若者を怠け者のようにいうのはおかしい」かのようにいう。ということは先進国に工業があることはよいことなのか。しかし他方で小沢氏は、社会的分業そのものを論難する。修理できるものは修理し、自給自足できるものはしたほうがよいという。分業(それは裏返せば協業であり、つまりは社会が組織的に経済活動を展開すること)はいったい善か悪か。それは程度の問題だというなら、みんなやはりそれは程度の問題だと言うでしょうが、じゃあ「どの程度が社会的に適切なのか」は誰かが決めるのか。小沢氏が決めることができますか?民主主義を称揚する人がそんなことは言わないと思うのだけれど。

(略)

僕は小沢氏が悪意のプロパガンディストだとは思わないですが(ファンとしての欲目かも知れないが)、結果としてそうなってしまってもおかしくないくらい変な論理を彼は使っているように思います。まず社会を敵と味方に分け、社会の問題の原因はあたかも自分以外の他者に外在的にあるかのようなレトリックを巧みに展開し、敵と味方が行為として同じことをしていても向こうは悪でこちらは善だ、と弁別するのははっきりと二重基準ですが、それは「普通の人々」の耳に心地良い。でもそれは、具体的な問題について「もっといい解があるはずだ」と架空の理想を提示して抽象論で攻撃するという極めて安易な論法で、しかも「自分は目覚めている」という甘美なナルチシズムを存分に味わうことができる。僕に対して「資本主義性悪説」をぶつけてきた小沢ファンはすっかり信者になっているようでしたが、こんなことも、おそらく小沢氏は意図せずに、無意識に生み出す言葉でやれてしまっているのではないか。やはり彼は天才だと思いますが、それは芸術的天才であって論理的なものではない。

(略)

小沢氏の社会批判、それはもしかしたら、論難自体が自己目的化してはいないか。あるいは、その行為によってある人間集団が一体感を生じることを目的としているのではないか。その集団としての反近代、反知性主義、そしてルサンチマンの正当化ではないか、と懼れます。僕は反近代でも反知性主義でも、個人の生き方としてなにも問題はないと思いますが、それを社会に訴えかけるとき、特に「熱狂的ファン」がいる方がそれを行うときに、ファンのためではなく、もしかしたらプロパガンディストになってしまう人に対して、ちょっと危惧を憶えるときがあります。

id:fuku33:20070705:1183635453

そうするとどうなるか。もしかしたらシステムの変革を支持したかもしれない人々の、変革を働きかける行為に対して絶妙に水を差すことになろう。誰もがみなそのシステムにどこか依存していて、だからこそそのシステムの慣性も身に沁みて感じていればこそ、現実に着実にシステムに向き合っていかなければそれを変えることはできまい、という「現実的」な認識の人々に、「とてもこんな夢想的な構想には共鳴できない。」と思わせれば、結果としてこれほどシステムの現状維持派を利する行為はあるまい。

要するに「小沢氏の文章は善と悪を二元的に分けている!こんなのは全く幼稚だ!」と、そう主張するわけです。どんな高二病だよ。

そりゃ何かを批判しているのだから、批判の対象を悪として扱い、それに相対する自分を善として主張するのは、その批判の当事者としては当然でしょうが。もちろんそれに対して、小沢氏こそ悪であり、自分が善であると戦いを挑むというなら、それは正当な行為ですが、「善/悪の区別なんて恣意的だ!」なんて言って自分がそういうことを知っている頭の良い人間だと自惚れるのは、とてつもなく格好悪い行為だと思います。

もちろん、思考の段階においては、「自分が本当に善なのだろうか……」とか、そういうことを悩むのは必要です。しかしいざ発言するんだったら、そこでは毅然と、自分の言うことが真実であると決断しなければならないのです。

更に言うなら、小沢氏はhttp://ecologyofeverydaylife.org/usagi/index.htmlを見る限りでは、ある特定の国・人を、その本質において性悪だとしているわけではありません。

小沢氏の物語に置いて、唯一完璧な悪であるのは「灰色」ですが、しかしこれは資本主義的精神を比喩的に表現したのであって、何か特定の国・企業・人を表しているわけではないです。

その点で、別に小沢氏が灰色を悪者としているからといって、それが人々の性格を「善」と「悪」に二分しているなどと考えるのは、それこそ論理の飛躍です。小沢氏が灰色を悪とするのは、灰色に象徴される資本主義的精神こそがまさに批判の対象だからです。そのような定義ももし駄目だというなら、一体どうやったら「何か」を批判できるのか、教えていただきたいものです。悪ではない善を批判するなんて、それこそ非論理的なのではありませんか?

何故このid:fuku33氏の文章ははてな界隈に支持されるのか?

しかし、実はこのid:fuku33氏の批判は、id:fuku33氏の記事に対するはてな界隈の反応に対しての文と捉えるなら、実にピタリと当てはまります。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070623/1182580528

id:nogamin 思想 すごく納得いく。二項対立的な思考が浮かんだら大体にせものだからとりあえず疑わないといけないなあ。

id:umeten 社会, 音楽, 文学, 身体と精神, 批評 思想家系の人間の話かと思って構えて読んで損した。なんだ、あの渋谷系のオザケンの小説の文芸批評かこれは。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070702/1183371975

2007年07月04日 id:sivad まあそれが彼のメシのタネなんでしょう。

2007年07月03日 id:morutan 芸能 福耳さんの逆説的な愛が伝わってくる文章。たぶん、一部サヨクの人たちの中では増えるワカメちゃんみたいに食料や衣服が自己増殖していくんですよ。次はコミューン的なこというと思うな(cf.滝山コミューン)

2007年07月05日 id:Southend 思想・主義, ああ、懐かしの, もうゴールしていいよ スキゾ・キッズも、音楽的断片を拾い集めてオシャレに着こなしてた頃はひとつのファッションとして消費できたものですが、その断片が偏った思想的廃棄物に取って代わってしまうと腐臭しかせず。スキゾ・ゾンビ現る。

2007年07月04日 id:tackr あとで fuku33さん、誠実だなぁ。

2007年07月04日 id:R2-3PO economy, society, column ある(かつての?)小沢健二ファンが、いつの間にか遥か遠くへ行ってしまった「オザケン」に対して嘆き悲しんだ文章。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070705/1183635453

2007年07月05日 id:rajendra 経済, 社会, 公共性 他人の「個別具体」を細やかに想像するようなことは複雑でしんどい。いっしょくたにして批判するのはシンプルで労力も小さい。だから単純な極論に走りがち、というような理路があるのではと思っている。

http://d.hatena.ne.jp/umeten/20070702/p1

「生まれながらの保守」ならぬ「生まれながらの革新」か。

人の世をナメくさるのもいい加減にしろよ小沢健二ぃぃぃィィィ!!!!!

テメーが座ってるその安楽イスのデカさってのは無自覚でいいものでも無自覚で許されるものでもないわ!!

生まれと育ちだけで悠長なご身分を維持できてるような人間が手慰みで知ったような口を利いてるんじゃあない!!!

しかも、それに徹頭徹尾寄りかかった上で、だ!!!

テメーのようなヤツが垂れ流す脳汁がこの社会を余計にクソッ垂れのクソまみれにしやがるんだよ!!!

恥という概念を知らないなら今、知れ!!!

そしてテメーのそのイスを切り分けてみせろ!!!

できるもんならな!!!

あー恥ずかしい人たち(特に一番最後の人)

要するに彼らの中では既に

ということが、ダイヤモンドより硬い信念としてあり、そしてその信念によれば、今回の事件は「金持ちの馬鹿息子が、馬鹿な論文を発表して、でそれをとても頭がよく真剣に社会のことを考えている学者が、その金持ちの馬鹿息子を、『本当はお前のファンだったんだよ……』と言って泣きながら金持ちの馬鹿息子を徹底的に論破する」事件だったわけだ。そしてそれに対して観衆が、とても頭がよく真剣に社会のことを考えている学者に対しては「辛いだろう……頑張ったねぇ」と褒めながら、「金持ちの馬鹿息子」に対しては「このファン知らず!手前なんか人間じゃねぇ」と糾弾し、自らの正義感を満足させると……

それなんて三文芝居?いや、別に三文芝居をしてても良いが、それだったらちゃんと銘打ってくださいな。「この文章は事実とは全く関係の無いフィクションです」と。

ていうか、小沢氏の文は、そりゃ資本主義システムに対する舌鋒は厳しいけど、特定の人の人格をまるごと否定するような発言はありませんでしたよね。それをid:fuku33は勝手に「ルサンチマン」とか言って、あわれんだり、はてブなどの反応はもうコメントする気力すら失せさせる罵詈雑言……

このような現状をいち早く批判したid:Rir6氏の記事には、こんなブックマークがつけられていました。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20070702/1183385302

2007年07月02日 id:synonymous オザケン(とFG)がトラウマになっている人たちってのがいるのですよ。

なるほど、結局今回の事件は、アーティスト離れ出来ない子供が徒党を組んでぎゃーぎゃー騒いだってことなんですかねぇ。正直そこまでアーティストを、そのアーティストの迷惑も顧みず狂信できる心情は羨ましいですが、彼らの様に自分たちを裏切ったことをネチネチ言うような大人には、心底なりたくないと思いました。

*1: ルサンチマン語るんならニーチェをきちんと精読して、彼の文章が今どんな風に評価されているかについて知ってるんでしょう。ただ、僕は知らないので何もコメントできませんが、どうもこの人の文章、というかネット界隈で使われる「ルサンチマン」という単語は、ただ単に自分の利害と敵対する主張を掲げる人の動機を貶めるための言葉のように使われている気がしてならない。

*2: しかしこれがid:fuku33氏の言うようにそれともあれはあなたの詩でしょうか?そうだとしたら、それは鑑賞はされても批判されるのは的外れなんだろうと思いますが。というように、「論理的/非論理的」という評価軸で計れない文は私的なものだから社会的なものには適用できないとも考えません。理由は後述

*3: ややこしい言い方ですけど、こういう言い方しかお馬鹿の僕には出来ませんので

*4: 例えば僕の上記の文章のように、「必要条件」「十分条件」というタームを使って、主張がそのような論理に基づくことを説明するとか

*5: まぁ、中にはそうじゃないミステリーもあるみたいだけど、正直僕は文芸には詳しくないので口出さない

*6: 奴隷制度っていうのは、本当に論理的思考っていうものが如何に疑わしいものかを教えてくれる良い教材だと思う。だって「人=白人」である前提のもとでは、どんなに論理的思考をしようが、「黒人に人権を与える」という考えは出てこないわけで、そこでは必ず、論理が疑われ組み替えられることが必要とされるんだから。

*7: 前者は演繹法、後者は帰納法と一般に呼ばれているものじゃないかな。僕は論理が苦手だからよくわからないけど

*8: こういう言い回しってVIP臭いかなぁ

*9: ex.「動いているものをいじるな」

*10: ←はい全く分かってませんね

*11: 個人的には、システムの最上部は「世界は存在する」という一文に集約できる単純な構造だと思いますが、それは今回の議論とは全く関係ないテツガク的ギロンなので省略

*12: 「疑いを持ってはいけない」って、なんか禁忌みたいだな……

*13: こういう括り自体、実は「何でも含みますよ」と言ってるに等しいのだけれど

*14: この時反対運動があったかどうかは知りませんが、多分あったらこう主張したでしょうね。「例え覚せい剤が体に悪いとしても、その覚せい剤システムによって生活している人がいる以上、ルールの厳格運用は求められても、覚せい剤システム全体を否定することは許されない」と

*15: アナロジーです

*16: 外国人といってすぐブラジルが出るあたりは地域柄を象徴しているなぁ

この日へのコメント

fuku33 2007/07/06 22:59
小沢氏の社会臨床雑誌掲載論文「企業的な社会、セラピー的な社会」及び「子どもと昔話」連載の小説「うさぎ!」(全7回)に対する僕の批判を批判なさるには、まずあなたも同じオリジナルのテキストをご覧になりもとの批判対象の論旨を把握されることが大前提だと思いますが。どうやらネット上ですぐに読める「うさぎ!」第一回と僕の文章の照合をされているだけのようにお見受けしますが、それはそもそも批判するために必要な情報を持ち合わせないままでの行為であり、その状態で仮定を進められることは「批判のための強弁」であると思います。そしてそれは、批判として成立しないのみならず、アンフェアですし、実りある議論のための手間を怠った不誠実な姿勢であろうと思います。そういう方とはどんな意見の交流も成立しないし無意味であろうと思いますので、以後sjs7及びRir6、両方のアカウントからのトラックバックは一切謝絶させて頂きます。またもしこのコメントがあなたの感情を害するものでありましたら、それは僕の本意ではありませんので、どうぞ削除なさって結構です。
kiya2014 2007/07/06 23:13
この件について何も知らない(だから何も言うことはない)けど、この文章はもっと短くできると思うよ。
この長さじゃほとんどの人は読めないよ。
もっと「読者」のこと考えてね。
なまえー 2007/07/07 05:12
すんません長くて半分ぐらいしか読みませんでしたw
うさぎは読んだんですがこれを敵味方に2分していると解釈するのは単純すぎると思います。
灰色は登場人物達と別の存在ではないわけですし。
まぁ何かを敵味方に2分すぎって批判したい気分の時はそう解釈してしまうこともあるかも。
sjs7 2007/07/07 05:58
>小沢氏の社会臨床雑誌掲載論文「企業的な社会、セラピー的な社会」及び「子どもと昔話」連載の小説「うさぎ!」(全7回)に対する僕の批判を批判なさるには、まずあなたも同じオリジナルのテキストをご覧になりもとの批判対象の論旨を把握されることが大前提
同じことを、「企業的な社会、セラピー的な社会」及び「子どもと昔話」連載の小説「うさぎ!」(全7回)を読まずに貴方の文章を盲信する人にも言ってあけたらどうですか?読まなきゃ批判が出来ないんだったら、批判の反対である賞賛も出来ないわけなんだから。

>実りある議論のための手間を怠った不誠実な姿勢であろうと思います。そういう方とはどんな意見の交流も成立しないし無意味であろうと思いますので、以後sjs7及びRir6、両方のアカウントからのトラックバックは一切謝絶させて頂きます。
要するに「学者のやり方」にそぐわない文章はすべからく不誠実な文章であると。まぁ、そういう風に自らの殻に閉じこもるのは勝手ですが(ただ、そうやって殻に閉じこもっていながら、「そもそもビジネスはお金儲けを追求する悪ではないのか」という疑問をぶつける学生を「あんたと家族はどうやってご飯代を稼いでるの?」と見下すのは、正直凄い格好悪いなぁと思いますが)、ただこちらがブックマークで文を引用した後に、何も書かずにそこを訂正するのは不誠実ではないんでしょうかねぇ?
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070705/1183635453

>またもしこのコメントがあなたの感情を害するものでありましたら、それは僕の本意ではありませんので、どうぞ削除なさって結構です。
感情を害しましたが削除しません。何故僕がそうするかは、ご自身でよく考えてみてください。

>この長さじゃほとんどの人は読めないよ。もっと「読者」のこと考えてね。
その内リライト版を出そうと思います。
ジャッキー 2007/07/09 21:25
ハジメマシテ。非常に興味深く読ませていただきました。sjs7さんが『うさぎ!』(全7回と上に書かれていますが、「現在」七話まで連載)や『企業的な~』をお読みになられたらもっと当を得た批評が書けるのにと僕も思いましたが、それを理由にfuku33さんが反論をシャットアウトし、無視するような態度を取られたのは少し残念に思います。おそらく小沢の文章について現在ネット上で最も熱く交わされている議論が今ここで行われているものだと思うので、もっと意見を闘わせて欲しかったなあ…と蚊帳の外から思ってしまいました。議論の場に感情を持ち込むと説得力がなくなってしまったり、その後の主張が歪んでしまうことがあるのでそれも残念なことです。攻撃的なのイクナイ(・?・)
fuku33さんの主張もsjs7さんの主張も非常に面白いし、ある程度頷ける部分が双方にありました。願わくはsjs7さんが小沢の文章を全てお読みになってから再批判を行い、それにfuku33さんが応える、という展開を望みます。…勝手ですが、非常に面白い議論になっているので。身元(http://homepage2.nifty.com/ozakit/)