sjs7アーカイブ

2007-12-26

[考え方]宿「命」について

id:NaokiTakahashi:20071224#p1

どういう作品が好きか嫌いかとかはどうでもいいことなのだけれど、どうも「『死』という悲劇が神=作者の手によるものなのか、人為的な要因によるものなのか」という対立軸が、僕にはちょっとピンと来なかったので考えてみる。といっても僕は、上記のページで紹介されている作品はどれも読んだことがない(*1)から、あくまで上記のページを読んでの印象論で。

id:NaokiTakahashi氏はこう書いている

こうなったのは作中の人間達の愚かな行動の集積の結果であって、必然ではなかった。そして、こうなっちゃったことはまあ納得しなきゃしょうがないかなあと俺は思えた。

一方で、この「ザ・ムーン」を下敷きにしたらしい「ぼくらの」は、実に現代的な作品だなあと思う。あらかじめ悲劇の約束された世界観・設定の上で、その通り悲劇を演じて死んでいく少年少女を描いている。どうやったって悲劇になるように、神様(作者)が周到に世界を用意している。俺はこういうストーリーが好みじゃないんだよねえ。ていうか正直言うと毛嫌いしている(そのせいで実はまだちゃんとは読んでないんで、これをきっかけに読んでみようと思っている)。人の愚かさに駆動される悲劇のほうが、あらかじめそうなるよう神が定めた悲劇よりもずっとマシだと俺には思える。単に好みの問題だけどさ。

つまり、「ザ・ムーン」は登場人物があがけば何とかなったけど、「ぼくらの」は登場人物があがいても実に用意周到に「死」が用意されているから何とかならなかったと、そういう話だと思うんですが。

でも、僕は、例え「ザ・ムーン」というマンガにおいて、登場人物があがけば何とかなったとしても、その作品内において登場人物があがけなかったのなら、多分それは「あがけない」んであって、結局「ぼくらの」と一緒だと、そんな風に思ってしまうのです。つまり、登場人物があがくかあがかないか、そんなことも、どういう作品世界にその登場人物が生きているかによって決まるしんじゃないかと僕は考えていて、そうであるのなら、結局「ザ・ムーン」も「ぼくらの」も、その世界の神=作者によって、「死」が準備されているんじゃないかと、そう思うのです。

まぁ、これをテツガク的に言うのなら、「自由意志というものが果たして存在するかどうか」という論争になるんであって、そしてその論争になぞらえて言うのなら、僕は決定論、あるいは宿命論という立場、つまり個人に自由意志など存在せず、全ては世界の状況によって決定するという、そんな立場になるのでしょう。

「宿命論」をとりあえずは擁護してみるテスト

最近の若者がより宿命論的傾向にある、というのは若者論でもよく言われることです(ex.isbn:406149788X)。まぁ、それが本当に現実の若者に適合できるかどうかは、それこそ社会学者さん頑張って調べてください、という感じです。

しかし、そういう「現実にそういう傾向があるのかどうか」を置いといて、理念として「宿命論」というものを考えた時、どの様に「宿命論」というものを考えたらいいのか。若者論の語り手たちはよく「宿命論ってそんなに良くないんじゃないのかなぁ」と言います。なぜなら、各々が自分たちの置かれている境遇を「宿命」だと感じてしまったら、そこでその境遇に追いやった社会の責任というものが不問にされてしまう。例えば、貧困に苦しめられている人達が、「貧困であることは自分たちの宿命なんだ」という風に思ってしまったら、そこで貧困はしょうがないものとされてしまい、別に解消する必要もないとされてしまうように。だから「宿命論」はいけないと、そういう議論です。

ですが、じゃあそうやって宿命論を排して、貧困というものを「しょうがないもの」ではなく、「あってはならない」ものとして捉えるのが本当に良いことなのか。そこに僕は疑問を抱くのです。つまり、「宿命論」を排して、全ての人は「自由」に(*2)自分の生き方を選べるとする。当然そこでは、貧困という生き方を選ぶ人なんて居ないでしょうから、個人で貧困を脱出するか、社会的に貧困を何とかせよと要求する運動をするか、いずれにせよ何かしらの努力が要求される。だって、社会変革をしようにも、そこには絶対的に「努力」が要請されるわけですから。

しかし、僕はむしろ、そういう風に努力が要求されるぐらいなら、むしろ、その様なネガティブなものとされる「貧困」でさえも一種の「宿命」として扱って、別に貧困であっても良いという風にした方が、より人々も楽に生きられるのではないかと、そう考えるのです。例えば、僕は前々回の記事(id:sjs7:20071225:1198524364)でhttp://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20071222/p1という記事を紹介しました。この記事にはこんな記述があります。

弱者の保護救済は、聞こえはいいけれど、実質的には大抵無意味になってしまう。それどころか、彼らを駄目にしてしまうことすらある。

「福祉ってのは最悪だな。クラックより酷い中毒になっちまう。頼っちまうんだ。ただで何かを貰うのがどれだけ楽か、分かるか?何もせずにただベッドに寝て、色んな男とヤりまくって、子供をゴロゴロ作ってればそれだけで福祉の金が入ってくるんだ。そんなことをしてれば、すぐにモラルも倫理も仕事に対する価値観もなくしちまう。福祉ってのはそういうもんだよ。」

マイク・タイソンが、福祉について正直に、こんなことを述べていたけれど、これは僕も同感だった。

ですが僕はここでこう言いたい。「それで何が悪い?」と。

良いじゃないですか、何もせずにただベッドに寝て、色んな男とヤりまくって、子供をゴロゴロ作ったって。僕は、別にそれが悪いことだとは思いません。大体、そういう風にエラソーに説教してやがるマイク・タイソンとかいうボクサーも、じゃあそいつはどのように「仕事」をしているかと言えば、人々に囲まれながら、別に自分が憎んでもいない人間を殴って、それで周りで見ている奴らの暴力欲を満たす程度の、そんな職業でしょ。そんな職業やる位なら、まだマイク・タイソンが馬鹿にしている人間の方が、別に人を殴ったりしていないだけ良い人間でしょう。もちろん、これは僕の個人的な好き嫌いです。でも、それを言うのなら、マイクタイソンがそういう風に悪く言うのだって、ただ単にマイク・タイソンの好き嫌いでしかない。

結局、宿命論がなかったとしても、その様な他人の好き嫌いを押しつけられてしまう。だったらいっそのこと、宿命論を受け入れ、自分の今ある状況から、自分の宿命を都合良く考え、そしてその宿命を「これは私の宿命なんだ。だから他人はどうこう言うな!」と主張する。そんな方法もあるのではないかと、そう考えるのです。

もちろん、それが本当に幸せなのかどうかは議論の余地があるでしょう。そのことを考える際に試金石になるのが、「江戸時代の人々はある程度幸福だったかどうか」という議論です。つまり、江戸時代というのはそれこそ宿命論の時代で、生まれた時から自分の人生が殆ど決まっている、そんな時代だった訳です。しかし一方でだからこそ、江戸時代には受験勉強なるものは存在しなかったし、他の人より先んじるためにより長く働くとか、そういうことも無かった。もちろん、その一方で当時は経済規模も小さく、技術もそんなに発達していませんでしたから。なんだかんだ言って労働時間もかなり長かったですし、余暇というものもごく僅かしかなかったです。しかし、もし今の経済規模・技術力で、江戸時代のような社会に移行できるとしたら、私達は一体今の社会とその様な社会、どちらが幸せなのか。僕は、江戸時代のような社会もなかなか良いんじゃないかと、そう考えるのです。

宿「命」ということ

しかし、そのように「宿命論」を擁護してみるんですが、どうもやっぱり気になる点があるのです。

そこで再び最初に紹介した記事に戻ってみましょう。

あらかじめ悲劇の約束された世界観・設定の上で、その通り悲劇を演じて死んでいく

そう、宿命論が宿「命」論である究極的な理由、それは、その宿命が文字通り「命」を左右するものだからなんですね。つまり、命がどのように育ち、そしてどの時点で終わるか、そこまで決まっているからこそ、宿命論は宿命論なんです。

もちろん、そうは言っても、フィクションと違い現実では、自分の未来がどうなるかなんてことは、どんな人にだって分からない訳で、それこそ都合良く「自分は死ぬ宿命にはない!」と考えられるのならば、別に問題はないでしょう。

しかし、ではそのような生きたいという欲望、生きるための「あがき」を、例え自分の周りの状況がどんなに絶望的であっても、持つことが出来るかというと、僕はかなり疑問なのです。例えば、『ぼくらの』という作品は「ロボットを倒さなければ地球は滅ぶ、ロボットを倒しても自分は死ぬ」という設定だったわけで、そういう場面において、なおも「ロボットに乗らないで逃げる」という選択肢(「生きるためにあがく」とは、そういうことです)を取ることが出来るかどうか。

何でこういうことを問題に思うかといえば、僕は「頑張った人が報われる社会に」とか「高度経済成長期の様に、国民に夢を与える社会へ」というような、http://toushoran.blog.shinobi.jp/Entry/5/で言う「平等」を求める運動は、別にやりたい人がやれば良いことで別にやらたくないならやらなくて良いし、少なくとも僕は意義を感じない(だからこそ「宿命論」を支持したわけだ)んだけど、「生存」を守る運動は、やっぱり重要だと考えているからです。例えば、僕らの生涯所得があの春我部市のN一家より明らかに低くなるであろうということ、これは別に「宿命」として受け入れたって結構だと思うんです。けれど、一生長時間・低賃金で働かされ、それが出来なければ野垂れ死ぬしかない、そんな状況は、やはり受け入れるべきではないし、きちっと文句を言うべきだと思うわけ。でも宿命論を真に突き詰めて考えるならば、後者も「宿命」として考えることも出来るわけで、そうなったら、「生存」を守ることすら不可能になるのではないかと、そう考えてしまうのです。

「自分は生きのびる」という宿命を信じられるか

『生きさせろ! 難民化する若者たち』(idbn:4778310470)という本で、雨宮処凛氏は「『生きさせろ!』というメッセージほど強いメッセージを私は知らない」という様な趣旨のことを述べていますが(*3)、しかしその様な「生きさせろ」という叫びを、生存の危機に瀕した人間が皆出せる訳ではないんですね。まぁ、そんなこと、自殺などの心の問題に散々関わってきた雨宮氏にとっては、当たり前のことなんでしょうが、多くの自殺者というのは、社会的・経済的・精神的様々な理由で生存の危機に瀕した時、「生きさせろ!」という叫びをストレートに出せなかったからこそ、死んでいったのです。

「人は生きるために頑張らなきゃならない」というのは、必ずしも自明のことではないんです。ですから、当然その延長線にある「自分は生き延びるんだ!」という宿命も、決して自明の内には信じることができない。そこには信じるに足る根拠が居る。でも、一体それは何なのか?

どのような根拠があるから、自分は生きたいと思えるのか。実はこの問いには、僕自身答えが見いだせていません。別にそんな珍しいことではありませんが、自分の場合、40歳代位までの自分は、何か定職に就かずにぶらぶらしてたりするのかなーとか、なんとなく想像できるんですが、それ以降の自分というものが想像できないんですね。だってそれ以降はフリーターとして生きていくのは不可能な訳で、必ず何か定職に就くなり、「生きていくための苦労」を背負わなきゃならなくなるでしょう。はっきり言って僕はそんな苦労を背負う覚悟は全く出来ていなくて、それこそ働かずないためお金もなく、どっかの橋の下で一人餓死するとか、そういう姿しか想像できない。そういう未来を「宿命」だと感じてしまっているんです。

ただ、それでも最近、少し「例えそういうキツい苦労を背負ってでも、ずっとずっと生きたいな」という風に思うことも出てきました。そんな感情をどういう時に感じるかと言えば、実はサークル活動であったり、あるいはゆとり世代部でのクネクネだったりの時に感じるんですね。

もちろん、別に僕はそれ以外にも、例えばニコニコ動画のMADを見ていたり、面白いアニメやマンガを見ていたり、ハンバーガーとか美味しいものを食べている時など、楽しみは一杯あります。ただ……なんて言うんでしょうかねぇ、そういうものの楽しさは、やっぱり刹那的なんですよ。例えば僕は、ニコニコ動画でひぐらしのなく頃にのMADを見るのが凄い楽しいんですが、しかし、別にそのMADを見ている時、急に心臓発作が起こって、死にそうになったとしても、「ああこれでもうひぐらしのMADが見れなくなるなっちゃう……」とか、そういう悔しい思いをすることはないでしょう。

しかし、もしゆとり世代部のでチャットや飲み会をしている時に心臓発作で倒れたとしたら、多分その時僕は凄い悔しがると思うんです。「ああ、これでもう飲みもチャットも出来なくなっちゃうんだな……」と。

これの二つが何故そんなに違うのか。それは良く分かりません。もしかしたら、それこそid:gordias:20071201:1196438857とかで話題になっているような、「他者による存在承認」なのかもしれない(ただ不思議なのが、別に僕は他人に声を掛けられたりして面と向かって話しかけられなくても、そういうコミュニケーションが行われている「場」に居るだけでなんか満足するんだよね)し、違うのかも知れない。更に言えば、このような感覚は、あくまで僕だけが感じる感覚で、他のみんなは感じないのかもしれない。

ただ、僕の場合、そのような一見他愛もないクネクネが、「自分は生き延びなきゃ」という宿命を信じられる根拠に、何故かなっていると。今僕が分かっているのは、それだけです。


宣伝

さて、そんな風に、僕が生きる支えともなっているゆとり世代部なんですが。実は今度同人誌を出すことになりました。『ゆと部報とりあえずねむい』という同人誌で、2007年12月30日のコミックマーケット73の西し-33a「古い夢」で、400円で頒布する予定です。

といっても、実は今回の同人誌に僕が載せた原稿には、そんな今回の記事と密接に関係するような記事はないんですが、しかしこの記事にも共通する根本的な精神、つまり「他者との交流の場をどのように作るか」という問題意識は、今回の同人誌に載せた「「ゆとり世代」というレッテルをあえて背負う」でも同じですし、「『自分は生き延びるんだ』と思いこめない」というのは、要するに「自分という存在にリアリティを感じることが出来ない」ということでもあるわけですが、その問題について、「はてなアイドル列伝~目指せHATEDOL M@STER!~」では、はてなで良く話題になる人達を評論することを通じて考えています(ただこの文章は、はてな内の内輪向けのネタが多いので、そういう事情に詳しくない人にはお勧めできません)。ですから、今回の記事や、id:sjs7:20071230:yotobuhouで紹介した僕の過去記事に興味を持った方で、12月30日に冬コミに行く方は、是非立ち読みでも良いんで、読んでもらえればなーと、思います。また、今回の文章に興味が持てなかった方も、『ゆと部報とりあえずねむい』にはhttp://enfant-terrible.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%86%e3%81%a8%e9%83%a8%e5%a0%b1%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%9a%e3%81%ad%e3%82%80%e3%81%84にも書いてあるとおり、様々なゆとり世代部のメンバーが様々な文章を書いておりますので、12月30日に冬コミに行かれる方は、是非西し-33a「古い夢」へお立ち寄りください。

*1: そもそも人が死ぬような作品って嫌いだし

*2: この「自由」がどの様な意味の自由なのかに注意

*3: ちょっと本が手元に無いので引用は不正確かも