↑でお知らせし、そして記事本文でも何度も何度もしつこく宣伝してきたので、皆様も既にうんざりするほどご存じだとは思いますが、今度僕も所属するゆとり世代部というところで、「ゆと部報とりあえずねむい」という同人誌を出します。
頒布する日時・場所は12/30のコミックマーケット73し-33a「古い夢」、価格は400円ですので、もし興味がある方は立ち読みでも良いので是非ブースに来てもらって、そしてもし気に入って下さったなら、買っていただければ幸いです。
さて、しかしそうは言っても、全然内容が分からないのに、いきなり「ブースに来てみて下さい!」と言われても困ってしまうというのも事実でしょう。一応、目次と解説、それにゆと部報に文章を書いた各々が、自分が書いた記事などについて紹介している記事へのリンクなどはhttp://enfant-terrible.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%86%e3%81%a8%e9%83%a8%e5%a0%b1%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%9a%e3%81%ad%e3%82%80%e3%81%84にまとめてありますが、正直記事タイトルだけでは、内容が一体どんなものなのか分からない記事も結構ありますし、記事タイトルで論点は見当がついても、それについて具体的にどの様に論じているかは、やっぱりタイトルだけではいまいち良く分からないでしょう。
そこで今回この記事では、先行入手した「ゆと部報とりあえずねむい」を用いて、勝手に、それぞれの文章が一体どんな感じなのか、ちょこっとだけ紹介し、更にそれに対して少し僕なりにレビューしてみようと思います。この記事を読んで少しでも興味を持ったら、是非頒布当日はお立ち寄り頂き、そしてよろしかったら買っていただきたく思います。
あ、僕自身の文章については既にで紹介したのでなしです。
執筆者はid:yama_rさん。「ゆとり世代」という世代が、一体どんな環境の中で育ち、そしてその結果どんな気質を持つ傾向があるかを分析している。
僕の「ゆとり世代というレッテルをあえて背負う」という文章が、「ゆとり世代」をある一つの理想形として考えたのに対し、yama_rさんは、より実体論的に「ゆとり世代」というものを、現に実在する一つの世代として捉えているのかな、と思う。確かにその様に、現に実在している1987年から89年生まれのゆとり世代を捕まえて調べれば、そこには教育の影響なんかより、インターネットやケータイなどの技術革新の影響が強いのだろう。
ただ、じゃあそれがゆとり世代という限定的な枠組みで語れることなのかというと疑問だなぁ、という感想も持つ。
これも執筆者はyama_rさん。高校なんてやってられないという人のために「高等学校卒業程度認定」、略して高認という制度の概要、そしてそれが如何に簡単な試験であるかを紹介している。
何かドラゴン桜みたいな語り口だなーと思った。で、それはともかくとしても、この高認という制度、確かに高校生は覚えておいて損は無いんじゃないかなーと思う。もちろん別に取ったからと言って即ドロップアウトする必要はないけど、「いつでもドロップアウト出来る」と思って高校に行くのと、「高校から逃げ出すことは絶対出来ない。逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ・・・」と信じ込んで高校に行くのでは、やっぱ気の持ちよう、ストレスの程度が違ってくる。
ちょうど、昔「完全自殺マニュアル」という本が話題になったとき、そのマニュアルによっていつでも死ねるという安心感が、逆に生きる糧となった。というような感想が多かったように、この文章も、実は執筆者の言い様とは裏腹かもしれないが、多くの高校生を安心させてくれるものだと思う。
執筆者はid:marubonさん。第一部では、生きる意味、死ぬということ、「ゆとり教育」という思い出などについて、第二部では、インターネット、ブログ、ニュースサイトなどについて、marubonさんの思索が対話形式で綴られる。
他人の思考形式を見るというのが、僕は結構好きなんですね。普段私たちは、他人とコミュニケーションすることにより、他人の思考の結果を知ることが出来る、そしてその結果というのは、殆どの人の場合、そんなに意外性がなくて、ありきたりな結論となる。
しかし、じゃあその結論に至る思考の過程を見てみると、そこには、今回の文章のようにホント多種多様な独自の思考形式があるのです。そして、実はその思考形式の多様性こそが、私たち人間一人一人が、ほかの誰とも代え難い、「個人」であるゆえんなのかなと、思ったりします。
文章の内容については、あんまり詳しく載せちゃってもアレなのであまり言いませんが、とにかく面白いです。思考の回路を刺激される、そんな感じがします。
執筆者はid:sagara17さん。『つきのふね』という作品のあらすじを説明しながら、登場人物の行動・言動にどういう意味があるのかを考えていき、『つきのふね』という作品の魅力を紹介している。
「作品を読みたくさせる感想文」というのは、まさにこういう風に書くのだなあと素直に感心した。この文章を読んでいくうちにどんどん『つきのふね』が読みたくなっていった訳で、僕ももうちょっとこんな風に素直に作品の魅力を伝える文が書きたいものだ。
しかし智君の行方が気になる・・・本気で読もうかなあ、『つきのふね』。
執筆者はid:azmin。森見登美彦氏の「太陽の塔」、「有頂天家族」という作品に共通して登場する叡山鉄道について、その鉄道が作品においてどの様な意味を持つのか考察している。
前項のsagara17さんの文は、作品の良いところを紹介する文だったけど、この文は、そういう風に感情を入れて語るというよりは、冷静に作品について分析している、そんな文だと思った。
いや、もちろんazminさんが何でこういうテーマを選んだかといえば、それはこの「太陽の塔」や「有頂天家族」に何か思い入れがあるからであって、別にazminさんが何も感情を入れなかったとは思わないけど、少なくとも文中ではとてもクールに、「何で叡山鉄道がその様ないでだちで現れるのか」、「作品において、叡山鉄道が何の意味を持つか」を考察している様に思えたのだ。
そしてだからこそ、この文章は、森見氏ファンや鉄道ファンは勿論、そうでない人にもかなり知的に面白い文に仕上がっているのだと思う。全ての表徴には意味があるんだなあと、改めて思い知った評論でした。
執筆者はid:bummyさん。坂口安吾という作家が書いた「夜長姫と耳男」という作品について、耳男の「耳」や、耳男が注がれ、そして注ぐ「まなざし」などの意味を紐解きながら、耳男と夜長姫の関係がどの様なものなのかを明らかにしていく。
あー、これはその「夜長姫と耳男」という作品を読んでいれば良かったんだろうけど、読んでないからなぁ・・・内容についてはなんとも言えない。
形式としては、文芸を文芸として批評している、真っ当な「文芸批評」で、多分今回のゆと部報の中で1番読みごたえはあるんじゃないだろうか。多分、坂口安吾とかの、いわゆる「文学」を読む人なら、とても興味深く読めると思う。「文学」は良く読むけどこの作品は読んだこと無いという人は、これを機に作品を読んでからこの評論を読むのも良いと思う。
確かに書かれている説明だけを見ると、何か夜長姫とかすごい可愛い女の子に思えるんだけどなぁ・・・
執筆者はid:seo19114さん。やがて女性となる『女の子』として存在することが、どのように難しいかを綴った文。
女の子は、人生の何処かで、それを肯定するか否定するか、その肯定(否定)の形態はどの様なものかはともかくとしても、誰もが「女の子である」ということを、ある種の'問題'として認知します。これは、男の子が、「大人になる」ということは問題としても、「男の子である」ということは問題として扱わないことから考えるとなかなか面白い問題だなぁと、最近よく思います。seo19114さんはそれを「私は女子大に身を置いてるから」と言うけれど、でも実際共学の大学の女の子でも、そういう問題に悩む女の子は多いと思う。
そして、そういう「女の子である」という問題に対し、seo19114さんが出したとりあえずの心を支えるための対処法が、なかなか考えさせられる。僕は、その対処法は、なかなか良いと思ったのだけれど、最後にそれは「自分の許容範囲以上のこと」と書かれていてハッとなった。結局僕は、男の子として自分を安全地帯に置いているから、そういう対処法を軽々しく擁護できるのではないかと、そう自分の中にある男性性=権力性に気づいたからだ。
とにかく、全ての女の子、そして全ての男の子に考えてもらいたい、そんな文です。
執筆者はid:qt_fbさん。家族というものの抑圧性、特に母親の支配というようなものの危険性を、内面化というキーワードを用いながら過激に指摘する告発文。
よくid:azminはこれを改変せずに載せたなあ、というのが読み終わった第一印象。僕だったらあそこの部分はヘタレだから勝手に「**だろう」という感じで伏せ字にしてしまうだろうと思う。でも、やっぱりあの文章の核はあそこの部分だから、改竄しなかったのは正しいと思う。ただ僕は正しいことを貫く度胸がないだけだ。
しかし・・・家族、特に母親の支配の恐怖は、斉藤学氏の本を読んだり、青い芝の会の話を大学で勉強したりして知ってるつもりだったけど、やっぱ当事者の告白はショッキングだなあ・・・いや、一応僕だって親は居るから、僕も当事者の筈なんだけどね。僕は、この文章で言う長男・次男の立場なんだろう。
やっぱり僕らの世代において、「自立」というのは、きわめて難しい、そんな問題になってるんだなと、痛感した文章でした。
執筆者はid:AltNight。「ねこもふ」の言葉にならない可愛らしさをtextという制限の範囲内でどこまで表現できるかに挑戦した実験文学(というふうに、僕は解釈した)。
ついにこの究極の問題作の番になりました。どこがどう問題なのかは、それこそ見ていただく以外に無いのですが、かなり賛否は分かれるだろうなーと思います。
でも、そういう賛否両論分かれる作品だからこそなんですが、僕は断言します。これは傑作だと。
そもそも、「ねこもふ」なんてあんな崇高なものを、写真ならまだしも、言葉で表現するということ自体に無理がありました。しかしこの作品は、その無理にもう一つ無理を重ねることにより、-10000と-10000を掛ければ1億にもなるように、華麗な作品に仕上げたのです。
敢えて断言しましょう。これを評価できない人は、脳味噌が腐ってると!そして、これを評価出来る人は、腐りすぎて発酵していると!
これも執筆者はid:AltNight。自らのIDをタイトルにしていることからも分かるとおり、これはid:AltNight自身の精神世界を表現した、私小説的前衛芸術である(と僕は妄想している)。
なんというか・・・前項の「ねこもふ」といい、今回の「AltNight 1,2,3,4」といい、AltNightさんの作品は、単なる文字列の筈なのに、そこに生命の息吹を感じるというか、文字列が今にもうねりだして本からはみ出しそうな、そんな錯覚を覚える。
そして、前項の「ねこもふ」が生命の喜びを模したカンタービレならば、今回の「AltNight 1,2,3,4」はまさに1つの生命の激動の人生とその終局を悲しげに、しかしあざやかに表現した、ギリシャ悲劇であると言って良いと思う。
特にあの最後の1文は・・・はっきり言いましょう。あそこで泣かない人間は居ない!もし居たら、そいつは人の皮を被った獣であると!
自分が人か獣かを確かめたい人は、是非読むことをおすすめします。
執筆者はid:kiwofusi。20歳の男の子の心模様を叙情詩で表現したエッセイ。
なんという乙女ちっくさ。とりあえず読んでいる内に顔から火が出そうになるのは、僕も心の中にまだこんなことを思う乙女ちっくな部分があるからなんだろうなぁ。
性的な表現をしながらここまで嫌らしさがないというのもまたすごいよなぁ。いや、正直苦手なんだけどねこういう風に性を表現するのは。でも少なくとも一般的に言われるような嫌らしさはない。というか、この文本当に20歳の男の子が書いたの?20歳の男の子を想像している17歳くらいの腐女子高生とかが書いたんじゃねーの?
男と呼ばれることに違和感を持つ、けど別に性同一性障害とかではない、そんなオトコノコにお勧めです。
さて以上でゆと部報に載った文章全てレビュー(というより単なる感想だったね)し終わった訳ですが、ここで、この記事をご覧になった方へ素敵なお知らせです!
12/30日の12/30のコミックマーケット73し-33a「古い夢」でゆと部報をお買い上げになる際、変な帽子を被っている人をブース内に見かけたら、「レビュー見て来たよ!」と声掛けてみましょう。
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(id:bummyによる『初音ミク』)
↑の様な絵が描かれたスケッチブックとクレヨンなど、素敵なものをプレゼントしちゃいます!なお、素敵なものが無くなり次第その企画は無くなりますので、あらかじめご了承下さい。
それでは皆さん、コミケで会いましょう!