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2008-05-26

[書く・書かれる]トリアージ騒動まとめ

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127:title](なおこの文章は改竄後の文章です。改竄される前の文章は[http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080525/1211664691を参照。(*1))についての記事はこの記事で一旦終わりにします。ずっとぐたぐだやってたって仕方ないしね。(竹田さん」呼ばわりで無視して、Trackbackもコメントも削除される、そんな人をこれ以上相手にする必要はないでしょ。それこそ勝手にルサンチマンの海で自分の吐いたアジテーションに溺れていれば良いさ。">*2)

id:fuku33が投稿した記事は、怒りこそ沸きますが、はっきりいって何も参考すべき内容のない記事でした。(*3)ですが、この記事について色々な人が様々な反応をした記事の中には、読む価値のある記事も沢山ありました。(*4)ですからこの騒動の最後は、それらの様々な秀逸な批判・反論をまとめて、それぞれの記事がいったい何を示そうとしているのか、考えてみたいと思います。

「全体や組織から見た最適」という欺瞞

http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1

 しかし「全体」自体が敵対性によって構成されているのです。「全体や組織から見た最適」の名の下に個が切り捨てられるとしたら、それは常に敵対するある特定の位置からなされます。

 三宅秀道さんは、その特定の位置を自由に選択しています。ところがトリアージというなじみのないカタカナ語を振りかざすことによって、あたかもそれが政治的な選択ではなく、万能のプロセスの自動的な適用であるかのように振る舞っているのです。これを自己欺瞞と言います。

 学生たちは、その自己欺瞞を批判しました。それを三宅さんは、「感情的」であると決めつけて否定します。他人が「感情的」だといって騒ぐとしたら、その人自身が感情的である第一の症状です。三宅さんの文章にはいらだちがあふれています。他者の感情の被害者を装うことによって、自分の感情にだけは正当性があるように振る舞うゴマカシがここにあります。

※コメント欄より

>fuku33さん

あなたの最大の問題点は、「全体」や「組織」に対するナイーブな信仰です。

これは経営学の初歩なのですが、もしまだわかっていないなら、一定期間、中小企業で労働者として働く経験をしてみてください。

経営者は、給与カットや労働強化や人員削減を迫ってくるでしょう。

その際の彼らの決まり文句は、「こうしなければ会社がつぶれる」というものです。

「会社がつぶれたらみんなが困る。君だって困る。非常事態なんだ。だから会社のために受け入れてくれ。そうすることが君自身のためでもある」というわけです。こうして、彼らは「マネジメントという行為を意識する契機」を与えてくれるでしょう。

けれども、「全体」は敵対性によって構成されています。「全体」に同一化することは、その中で特定の位置を政治的に選択することに他なりません。「全体や組織から見た最適」は特定の政治的位置においてのみありうるのであって、切り捨てられる側がそれに屈服すべきいわれはありません。

あなたの授業は、恫喝です。災害のような「非常事態」を想定しつつ、「最悪」(全員が死ぬなど)が嫌だったら「マネジメント」を受け入れよと説く。

しかもあなたが滑稽なのは、学生たちを「感情的」と決めつけ、自分が知的に優位にあると思いこんでいることです。違います。あなたの教室において露見したのは階級対立です。ブルジョワジーのまやかしをしゃべる教師に対して、学生が造反したのです。あなたと学生たちは政治的に敵対しています。正しいことを教えてやってるのに学生がわかってくれないと未だに嘆いているとしたら、おめでたいことです。

「『全体』や『組織』に対するナイーブな信仰」。そう、まさにそれなんだよ!

id:fuku33は「全体や組織から見た最適」ということを口に出します。だけど、その「全体や組織から見た最適」は、"あなた"の味方はしてくれない。もしかしたら明日あなたは「全体や組織から見た最適」を口実に職を失うかもしれない。「全体や組織から見た最適」を口実に、医者から「おまえ(の大切な人)はもう死んでいる」と宣告されるかもしれない。「全体や組織から見た最適」を口実に、「君があの戦艦に突っ込んでくれれば本土の何千人もの人間が助かるんだ!」と命令されるかもしれない。

しかしそれは、結局のところ、どんなにカタカナ語で綺麗に取り繕ったって、「君は死ね」という命令なのです。「全体や組織から見た最適」?はっきり言おうよ。「あの、これから将来がたっぷりある子どもの鈴木君のために、君は死ね」と。つまり、「君」の命よりA君の命の方が重いと、「鈴木君を大事にしたい」という政治的位置から判断したとさ。

そして、そのような命令が下ったとしたら、君はこう叫べ。「ふざけるんじゃねぇ。俺がかわいそうだろ!」と。それを非難するいわれは、どんな人間にもない。おえらい大学のセンセーにもね。

経営学の理想としての「ナチス・ドイツ」v.s.「かわいそう」という一言が示すプリミティブな異議申し立て

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1

さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。問題は「適切な配分」とは何かです。

資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる

経営学者様はこれが肝心だといいます。例として彼は四川大地震をあげました。ぼくもひとつ適切な例を知っています。ホロコーストです。

資源の有限性(アーリア民族の生存圏)がその合目的的(アーリア民族の生存)な最適配分(アーリア民族への配分、障害者やユダヤ人の切り捨て=虐殺)を促し、戦略性(ガス室)やリーダーシップ(総統の独裁)や組織内の規範意識(ハイル・ヒトラー)も意思決定(最終的解決)も価値判断(アーリア民族至上主義)もそこから始まる

これこそ経営学的には素晴らしい組織です。ユダヤ人がかわいそう?そんなこと言ってたら(最終的)解決しませんよ!偉大なるアーリア民族が貧窮してもいいんですか?というわけで、経営学の理想はナチス・ドイツだったのでした。

トリアージという発想がもともと野戦病院発、いかに効率的に人を前線に再投入するか、つまりいかに効率的に人を殺していくか、という考えから出てきたものです。われわれはそれがいかに人を助けるかという救急救命の思想へと変容していったかという、歴史社会学的な観点を持つべきです。この点で今現在、四川省で、あるいはかつて福知山線の事故で救急救命にあたった医療関係者にたいしては、当然敬意が払われるべきです。しかし、われわれは同時に、このトリアージという概念が戦争における技術的価値観から生じたものであり、トリアージはけしてその矛盾から逃れることは出来ないということは忘れてはなりません。なぜならば、トリアージがいったん、たとえば我らが経営学者様の手にかかって、救急救命の手を離れ一般的に通用する理論としてみなされたとき、上のような全体主義思想が復活するのです。

「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立てに他なりません。いわば、「王様は裸だ」と叫ぶ無邪気な子供のようです。たくさんの兵隊を連れて行進する王様にたいして、片やもう一方の経営学者様は彼女の単位を左右します。童話の王様は恥ずかしくなって逃げ出しますが、現代の王様は一味違います。「バカだなあ。王様が裸なんて当たり前じゃないか」と自らの裸を誇示するのです。

さて、「かわいそうなぞう」は何故「かわいそう」なのでしょうか。ぞうのハナコは、人間の安全を取るか、動物の命を取るか、という「苦渋の」合理的決断に殉じたのではありません。戦争、日本軍、あるいは「動物園」という形態……さまざまな人間社会の欺瞞によって殺されたのです。つまり、ハナコは合理性という王冠を被った裸の王様に殺されたのです。

えーと、ぶっちゃけると僕は別に象をかわいそうとだと思う心は持っていない(*5)んですが、まぁそれはさておいて、トリアージっていうのは要するに「資源が無い中で、多くの人の『命』を救うために、少数の『命』を救う」という技術です。ですが、そもそもそのような状況ではそのような状況においやった人間=裸の王様は不問にされる。しかし「かわいそう」という異議申し立ては、まさにその王を告発するのです。

そして更にid:hokusyuさんは問いかけるんですね。「そもそも、その様な『多くの人の『命』を救うために、少数の『命』を救うことが必要とされる』状況が何で日常にまで敷衍されるのか?それは結局、世界はそのような世界なんだと納得することによって、現状をなんとかしようという努力をあきらめたいからではないのか」と。

もちろんトリアージを拡大解釈するなってことは大事なんでしょうけど、どうして人はトリアージみたいなものを拡大解釈したがって、しかもそういうエントリには賛同ブコメがいっぱいつくんだろうってのも大事では。いや、「誰かを切り捨てなければ誰かを助けることはできない」っていうのが、彼の中で事実(Wirklichkeit)を通り越して真理(Wahrheit)にまで達しちゃってる人っていますよねっていう話なのですが。

(略)

そういう人がヲタになると、たとえば『イリヤの空』みたいなのを絶賛したりする。「この残酷さにこそリアリティがあるのだ」って言って。キモいなあ。

それで、こういう人の価値観って確かにかの女子学生みたいな人をdisることによって保たれているんですよね。

「悪しき決断」としてのトリアージ

http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080523/p1

全体主義的な独裁者による労働者の徴用が最適解でないのと同じくらい、「英雄」への期待も最適解ではない。自己犠牲的な英雄を必要とする人道主義など欺瞞だからだ。だからといって、優しく手を取りあって自ら滅んでいくのも絵空事だ。ここに「解決策」など存在しないのだ。大惨事において胸を張って採用できる「最適解」「解決策」などありはしない。常に人道は危機に晒され、私たちは苦悩のうちに「悪しき決断」に頼るしかないのではないか。

むしろこう言うことができる。「比類なき人間」はまさしく「比類なき」存在なのだから、死者数で何かを語ることも欺瞞である、と。

100人を助けるために1人を見殺しにすることも、1人の救助のために100人の生存を損なうことも、それは同じだけ悲劇なのではないか。ここで賢しげに「トリアージ」とか言い出すことは、「ソ連の全体主義よ! ありがとう!」と平然とリクビダートルたちを死地に送り出した「西側」の自己欺瞞と同じだ。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

商学者様にはこんなものは言葉遊びにしか感じられないかもしれない。

この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。

しかし、倫理的前景をすっとばして「『全体や組織から見た最適』というコンセプト」やら「『かわいそう』のその先」などを云々したところでそんなものはカスだ。100年早い。どんな追記を重ねても、トリアージを「経営学的ソシューリョン」の文脈で語ることは私には容認できない。

しかしだとしても現実は私たちに「悪しき決断」を迫る。だけど重要なのは、絶対にそれを「最適解」だとか「解決策」などという風に偽ってはいけないということだ。「トリアージ」は「ソリューション」ではない、ただの「悪しき決断」なのだ。例え「リアリスト」気取りのブロガーがどんなに喚こうと、何度でも言おう。「トリアージ」は決して正しくなんか無いと。

有限性や合理性が持ち出されるのは、その配分に与れない人間たちやそれに対して不満を持つ人間たちを黙らせるため

http://d.hatena.ne.jp/madashan/20080524/1211583236

しかしながら、そのような権力の真の目的は何でありましょう。我々の認許の理由である、人命の最大限救済は果たして実効性のある形で実現されるのでしょうか。いったいに合理的基準の合理的とは何を意味しているのでしょうか。権力にとっての合理的な目的とは、果たして我々の道徳感情の理性的回答である「最大限の救助」という原則と一致しているのでしょうか。そして、仁愛の情に由来する尊い生命とやらは本当にこのような形で価値づけられるものでしょうか。仮に、価値を計測可能な量的な単位として把握するのなら、その時どのような操作がなされているのでしょうか――こうした諸々の問いを我々は考える必要があります。それが腐敗した汚物を引き取る人間の義務です。

現状では、トリアージとかオモシロ単語を持ち出して悦に浸っている人がいるだけです。そもそも有限なリソースといいますが、そのリソースを増やす努力はなされているでしょうか?いつでもそうであるように、有限性や合理性が持ち出されるのは、その配分に与れない人間たちやそれに対して不満を持つ人間たちを黙らせるためです。

(略)

合理性それ自体を技術的な枠組みとして設定してやると、お頭の沸いた人たちには何が問題なのか理解できなくなってしまいます。理性には目的の正しさを検討する能力はありませんし、人間には最終的に情緒に由来しないような如何なる正義もありえません。男子学生は易々と<合理性>の軍門に降りました。男にとって理知的で社会的な――即ち公的な態度とは感情を抑圧すること以外の何物でもないからです。そして、このような公的態度とは大抵の場合、形式のみの無内容な代物です。感情が反論として提示されるのなら、待ってましたとばかりに、彼はそれを愚劣で低能な振る舞いとして遮断するでしょう。自己満足的な決断の悲壮感と他人に対する大仰な切断操作が、彼にしみったれた優越感をもたらします。しかしながら、この振る舞いは女子供の感情的絶対性に決して打ち勝てません。期待されていた優越感が機能しないのなら、男にとって理性的態度はチリ紙程の価値もありません。だからこそ、女子供は度し難いのです。彼女たちは男たちの目的を共有せず、集団の紐帯をその我儘――私的感情の衝動によって破壊するからです。

ご自身の感情に素直だったお嬢さん学生は、頭の足りない男子学生よりも遥かに本質的な部分をついたのでした。不満や不快感、憐憫や怒りといったものは根源的な疑義をもたらしてくれます。そして、それは何時いかなる場合であれ「合理的」なのです。

(略)

こんな長文読んでる暇ねえよ、ボケ。という全はてな非常委員の皆に結論だけ端折って教えるよ!。要するに君らの「合理性」だの、「最適解」だの、「一般性」だのといった寝言について僕は知らないし、知る必要はないという話だ。

なんというか、まさに何でid:fuku33があそこまで女子学生へのミソジニーを露にし

事前に「あそこはお金持ちのお嬢さんが多いミッション系だから」とか聞かされても、なるべく先入観にならないように、吹っ切って話を素で始めようとしてある程度それには成功したと思ったのですけれど、いろいろあった。慈善や博愛の精神に富んでいると聞こえはいいが、そうじゃないよな、これは。

(略)

思い出すのは、小学校の学級会の「○○君がいけないと思います!」という女子たちによる吊し上げ。まさかこちらは教壇の上に立っているからやられはしませんが、でも、ソリューションというものを考える時に、「それは誰か担当者がちゃんとやればいいじゃないかそれを指摘すべきじゃないか」というスタンスで解決するのは、閉鎖的共同体の嫁姑関係くらいじゃないのかな。ビジネスでそれだけでは無理じゃないのかな。そうか、彼女たちがあの特殊な疑似共同体的「バザー」に熱心なのは、やっぱり自分たちのメンタリティにフィットしているからかな?

[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080522/1211479510:title=女性から「女性性」を剥奪しようとするか]を、白日の下に晒しちゃいましたね……(*6)

合理性なるものが、結局自分たちの権力を維持し、現状を何とかする努力から逃れるための詭弁にしか過ぎないというのは、id:Rir6君も以前似たようなことを書いていたけど全く同意。でもまぁ、彼らはいつまでもあの特殊な擬似共同体「学者仲間」の中にいて、単位認定を駆使してそういう根源的な疑義を排するわけだけど……(*7)

迷える1匹の羊を救うキリストv.s.ニーチェ気取りの経営学者たち

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C497052863/E20080524113420/index.html

2008年05月25日 superfrill 多くの人間が長い時間をかけて積み上げてきたものよりも、自分の感情が絶対的に正しいと思える無邪気さ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1

ブクマコメでもちょっと書いたんだけど。「トリアージ」って発想はたかだか200年の歴史しかないわけですよ。他方、「かわいそう」という「感情」について言えば、それを進化の産物と考えれば(少なくとも部分的にはそう言ってよいと思えるのですが)十数万年、あるいは数十万年、あるいはそれ以上の時間をかけてできたものということになります。まあ「積み上げてきた」というよりは「積み上がってきた」と言うべきでしょうが。また、思想史のはなしに限定したとしても、トリアージの10倍くらいの歴史があるかもしれませんよ。

あなたたちのうちの誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ってしまったとしたら、九十九匹を荒野に打ち棄てて、失われてしまったその〔一匹〕が見つかるまで、それを求めて歩いて行かないだろうか。(ルカ:15.4)

すまん、それ以前の「仮言的命題」云々の文章は全然意味が分からなかった。結構重要なことが書かれているんじゃないかなーとは思うのだけれど……

それよりもやぱり僕はこの聖書の言葉が気になるんだよなぁ。かつて人々は「多数のためなら少数をどんどん犠牲にして良い。その結果人は強くなるのだ」と考えていた。でも、それじゃあいけない、ただ全体が栄えれば弱者を切り捨てて良いなんていうのは間違ってる!と唱えたのがイエス・キリストだったわけだよ。

でも、その様な考えは21世紀に入って再び否定されようとしている。ちょうど、id:fuku33氏も、そして彼を支持して、彼を批判する人間を通り魔と罵倒するid:repon氏などにしてもそうなんだけど、彼らはルサンチマンという言葉を多用するんだよね。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127#c1211469455

早速ブコメで「あたまがわるい」などと呼ばれておりますが、そういう方は結局はルサンチマンの海で自分の吐いたアジテーションに溺れているだけですね。

http://b.hatena.ne.jp/repon/20080525#bookmark-8718702

はいはいルサンチマンルサンチマン。陰険だねぇ。

要するに弱者のために強者が犠牲とならなければならないと考えるやつらはルサンチマンだ。そんな奴らは見捨ててしまえと……ルサンチマンという言葉を使う=ニーチェを崇拝しているっていうのは、そういうことですよね?だったら、そうブログの上段に書いておけよ。「自分たちは、強者が反映するためなら、弱者をいくらトリアージして犠牲にしてもかまわないと考える経営学者ですが、何か?」と。そして、授業の最初にもそう宣言すれば良い。それで残る生徒と話をしてりゃあ、そりゃあ授業も楽々と進むだろうよ。

トリアージの克服こそが近代の課題だった

http://d.hatena.ne.jp/chintaro3/20080524/1211628963

「安く、大量に作れて、しかも美しいものを」と爆走してきた工業製品開発を、この先も暴走させ続けても良いのか?という疑問もありはするのだけど、「お前らはトリアージのお陰でこんな豊かな生活ができてるんじゃないのか」という問いに対しては、はっきりNoと言える。

「大学生に勉強してほしいこと」で思い出したことといえば、たとえばこんなこと

バウハウス・デッサウ展 モダン・デザインの世界遺産

http://www.bauhaus-dessau.jp/

これはおよそ「工業製品」というものに日々お世話になっているすべての人に見てもらいたい。マジで。本当に本当に本当に。

歴史的には、共産主義的だとしてナチスに弾圧されたバウハウスだが、左翼か右翼かみたいな目で見てほしくない。現場の物作りには右も左も無いと思うので。

昔の庶民の貧しい生活、住宅や日用品の不足という問題をどうやって解決するかという命題に対して、現実に「革新的な工業デザイン」がそれを解決してきたという歴史に、誰しも感動を覚えるはずだ。

あんまりはてなでは注目されていない記事だけど、すごい重要だと思った。

そうなんだよ、これまでの世界の歴史っていうのは、確かに多くの過ちを秘めている。けど、それでも、みんな必死で、「トリアージ」なるものがない社会をどうやって作るか、そんなことを一生懸命考えて、やってきたんだよ。

そんな歴史の針を巻き戻して、「トリアージすることは仕方ないんだ。お前らも大人になれ」とか言い垂れる人たちを、僕は絶対に許したくない。

大学が育てるべき人材、それは、「トリアージはまぁ仕方ないよね。この世の中からはなくならないよね」などという諦念を持った人材ではなく、「トリアージなんて俺は絶対に認めない!なんとしてもそんな状況にならないための技術を見つけ出してやるんだ!」という熱意を持ち、研究を行う、そんな人材なんじゃないかなぁ。

バウハウス展、もし機会があれば是非行きたいです。

良い大人がよってたかって議論することか

http://d.hatena.ne.jp/gerling/20080524/1211659333

正直、何をみんな一所懸命に話しているんだろう。

え、地震はまあ、日本だから起こるかもしれないか。でも、医者じゃないだろう、みんながみんな。

もし、そうだったらどうする?って?仮定の質問にそこまで真剣に考えるもんか?しゃべり場って感じの。

もしそうだったらどうするかって?そうね、やっぱり合理的に動いて、ある人を救って、ある人に死を与えるんだろうか。もしくは、右往左往してみんな殺しちゃうのかもな。

しかし、思うにそんなふうに誰かの生き死にを前にした判断が純粋に工学的なもので、ひよこの雄雌を鑑別するみたいに、死に廃棄する命とまだ生かしておく命を峻別するなんてことが在りえるだろうか。無論、そんなはずはないはず。

何か純粋に計算的なモデルがあってそれに完璧に則って治療する、というのはどこまでできるかというのが疑問であるし、それはやはりグロテスクなことだろう。

少なくとも、人の命の判断を「殺す/生かす」のようなビット単位でできると思うのが間違いであるし、あらかじめ前提となるモデルを設計して計算的にそれに適用できるというのが間違いなのである。

そのような管理的、グロテスクなモデルはたとえ、合理的理性の賜物でも、人間的理性の賜物でも間違いなのである。

簡単に言えば、良い大人がよってたかって議論することかっていうことだ。

相変わらずid:gerlingはちゃぶ台をひっくり返すのが上手いなぁ……

でも確かにそうなんですよね。誰かを生かす、そして誰かを殺す、それは多分にグロテスクというか、人間的なものなんであって、それを「理性」によってどうこうできるという、まずその原初の考え自体が間違っているんですよ。だから、どんなにその間違った原初から始めても間違った結論にしか至らない。

「全体」とかそういうことを云々言う前に、まずその殺される人を見よと。そして「かわいそう」と言う。それ以上のことは人間はできないし、しちゃいけないことなんじゃないか……まったくそのとおり。

あ、でもid:gerlingはだからといって女子大生にも味方しないのかな(^^;

最後に

では、これらの真摯な議論に対して、id:fuku33はどのように対応したのか、それを見てこの騒動の〆としたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

早速ブコメで「あたまがわるい」などと呼ばれておりますが、そういう方は結局はルサンチマンの海で自分の吐いたアジテーションに溺れているだけですね。夢想的理想に照らして地道な問題解決努力を馬鹿にすることほど楽なことはないのですが、そういう人は、その場しのぎ以外の改善の可能性にはなんら益しない。反吐が出るようなヒロイズムの臭みを感じます。でもそれがああいう人たちの真の目的だから、対話は成立しないでしょう。

( ゚д゚)ポカーン……えーと……これじゃあんまりなので、やっぱりid:fuku33に対するブックマークコメントから、一番共感したブックマークコメントを引用して終わりにしますね。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

# 2008年05月25日 inocici この一連の議論を(ジェンダー関連含めて)それらの学生さんが見てるんだなあ。生きた授業。先生の言うことがいつも正しいわけじゃないとか批判の方法とかいろいろ学べてよいと思う。

ああ、そういう言い方もあるか……

というわけで、id:fuku33氏の授業を取っている方は、是非これらの記事を読んでみてください。(*8)

*1: 以下に示すさまざまな反応が、改竄前の文章と改竄後の文章どちらを元に反応しているかは、id:fuku33が改竄の詳細を明らかにしないから、いまいちよく分からなかったり……

*2: 正直、いくら意見を言っても一方的に「竹田さん」呼ばわりで無視して、Trackbackもコメントも削除される、そんな人をこれ以上相手にする必要はないでしょ。それこそ勝手にルサンチマンの海で自分の吐いたアジテーションに溺れていれば良いさ。

*3: 強いて言えば、「ああ、満足に授業もできない癖に講師を名乗っている人間というのは、こうやって自分の中の論理で人を馬鹿にすることによって、自らのプライドと権威を保っているんだなぁ」という風に、ガクシャの内面と、学問権力の維持についてのケーススタディができるぐらいかなぁ……

*4: ほんと、あんな文章でよくそこまで書けるよ……

*5: え……だって、ぞうだし。←象の価値を低くみる「特定の政治的位置」(笑)

*6: やめてー、もうid:fuku33のライフはゼロよー(棒読み)

*7: 世界はそれを「卑怯」と呼ぶんだぜ!

*8: そして授業選択を後悔しましょう

この日へのコメント

chintaro3 2008/05/26 20:58
とりあげて頂いて有り難うございます。本当にありがとう。
Apeman 2008/05/26 22:51
>すまん、それ以前の「仮言的命題」云々の文章は全然意味が分からなかった。

あ~すいません。そこのところはとある方からも「長過ぎる」と叱られました。つまり fuku33氏は「女子学生」の反応について

・トリアージをすればよりたくさんの命が助かることがわかってない

と解釈したわけですが、

・トリアージをすればよりたくさんの命が助かることは理解したうえで、トリアージが要請されるような場面で「よりたくさんの命を助ける」ことをなんの疑いもなく目標とすることへの違和感の表明

として解釈するぐらいのことは、大学の教師として当然期待される器量(そして研究者としての、自身のディシプリンへの反省的意識)ではないか、と言いたかったわけです。
tikani_nemuru_M 2008/05/27 21:50
>トリアージの克服こそが近代の課題だった

にゃんと、このあたりのことをちゃんと書いているヒトがいるなら、僕がそのあたりを書く必要はなかったかも。
エントリでも書いたけど、ゼロサムゲームちゅうか、ホッブズ的自然状態の拒絶こそが文化の営みであると僕も思いますにゃ。