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2008-07-30

[言及]あーはいはい

http://d.hatena.ne.jp/eguchi_satoshi/20080730/p1

まぁ、この記事を読んで「そーかー、こんな風に書けば教師から良い評価がもらえるのかー」とか思って役立てる人もいるだろうから、別にこの記事を批判する理由はないんだけど、少なくとも僕にとっては「あーはいはい」と右耳から左耳に抜けるような話だった。まぁ、この記事に限らず、僕は殆どの「レポートの書き方」とか「論文の書き方」とかいう文章をスルーしているんだけど。(*1)

何故なら、そういう「正しいレポートの形式」とかを一生懸命勉強して、そのような形でレポートがあらねばならないと思って、それで正しいレポートが書けるようになったとしても、それによってレポートを書くのが「楽しくない」と思ってしまったら、元も子もないと思うから何だよね。そして更に言うならば、その人にとってそのレポートを書くのが本当に「正しい」ものだったら、そもそも言及先の記事が例示するような文章は書かないんじゃないだろうか?とも思う。

だってさ

「私は図書館に 行ってOPACを調べてみました。なかなか資料が見つからず苦労しました。」

こんな文章、字数埋め以外のなにものでもないでしょう。もし本当にレポートを書く、つまり調べものをすることが楽しくて、調べて新しいことが分かるごとに背筋がぞくぞくするような経験をしていたら、その経験を周りにも分けてあげたいと思って、調べたことでレポートは埋め尽くされるだろうし。そうでないってことは、要するにその生徒にとってレポートを書くってことはかったるいことで、調べるのもかったるければそれをまとめるのもかったるい、だから調べた経緯でも書いてお茶を濁すかなと、そんな感じなんでしょう。

で、そんな状態でいくら「これが正しいレポートの書き方だよ、このような書き方で書けば就職にも役立つよ。」とか言っても、そのレポートが良いレポート、というかその人にとって為になるレポートになるとは僕には思えない。だってただ単位をもらうだけに書かれるわけで、学んだ内容自体は提出した瞬間にぼろぼろ抜けていくんだから。いや、まぁ教師にとっては読みやすいレポートにはなるんだろうけどさ。

そういうのを消していっても、いずれあなた自身の「独自の考え」が出てくるから大丈夫。

と書くけど、そもそも「独自の考え」なんか持とうとも思ってないからそういうレポートになるのに気づかないって……前の某経営学者の件でもそうだっけど、やっぱり大学教員ってアレなひとが多いなぁ。

で、もっと言うとさ、この人は「調べごとの過程なんかいらない、結果がすべてだ」とか書いているけど、これもまぁ僕にとってはちょっとした驚きだったりする。

だってさ、大学で学ぶことなんて、その学んだ内容自体は、人生の中で九分九厘役に立たないことじゃん。まぁ、これは学問分野によって違うんだろうけど、例えば僕が学んでる社会学なんて分野では、アメリカの環境保護運動における自然保護主義者と現地民の対立、みたいなことを調べた論文を読んだりするけど、じゃあこの先生きてきてその知識自体が役に立つかと言えば、多分役に立たないんじゃないかなぁ。役に立つのは、その論文で調べられた知識自体よりは、むしろそのようなことを調べるのにどんな手法をつかったかとか、ある一つの出来事があったとして、それをどのような方法=理論によって説明できるかという方法論だったり。そしてそのような方法論というのは、多分どんな分野に就職しても役立つ、いや、「働く」ことに役立つというよりは、「生きる」ことに役立つと思うから、僕は社会学なんかを学んでいるわけだけど、それは余談。(*2)(*3)

もちろん、別に僕はこの人が解釈理論なんか書かなくて良い、なんて暴論を書いているとは僕も思っていなくて、ただ僕は解釈というのを「方法・過程」と考えるけど、この人は「結果・知識」と考えているという違いなんだと思う。ただねー、それでもやっぱり思うのは、解釈理論ってやっぱりそのレポートで調べたいことを調べるために使う以上、それはOPACとかと同じ「方法」であり、それを使うのは「私」なんじゃないかと。つまり、あることについて調べていて、そのことについての事実だけは一杯集まったけど、それをどう解釈すれば良いか分からないって時に、もちろん文献などを参考にしながらも、あくまで「私」が、「そうかー、この理論を利用してこんな風に解釈すればいいのか」と解釈して、そして「そうだとしたら次はこんなことを調べる必要があるな」という、調べる過程に根ざすからこそ、解釈っていうのは意味があるんであって、それを無視してただ結果だけ、つまり「○○先生は××という解釈でこのことを解釈している。一方△△先生は……」というような感じで解釈を列挙したって、それこそまさに高校までの受験のための暗記勉強じゃんって、僕は思ってしまう。

大体、いくら「私」のことだと言っても、人なんて大体同じことを考えている(*4)わけでさ、その大体他人と似たり寄ったりな「私」が辿った過程なら、それはきっと他の人にとっても応用可能な経験なんじゃないかと。つまり、レポートで、「私」が最初は常識的な考えを持っていたのが、色々調べていく内でそうではない考えに移行していったとするならば、その過程は他人がその道を辿る時の道しるべになるわけで、もっと大きく考えれば古い考え方にとらわれた社会全体を如何に新しい考え方に変革していくか、という社会変革にも使えるかも知れない。別にたかが1大学生のレポートがそんな社会変革まだ狙う必要なんかもちろんないだろうけど、少なくともそこまで利用価値のあるレポートを、「正しいレポートじゃないから」という言葉で切って捨てるとするならば、はぁそうですかとしか言いようがない。

けど一方で

まぁ僕は「私語り」が好きすぎるよね。

というか、そもそものことを言うなら、僕はそもそも「世の中の為になるために学問を勉強したい」なんて気持ちはさらさらなくて、ただ「私を見て!」って感じで、僕が注目を浴びるための手段として学問を利用しているからなぁ。だから、その学問で「私語り」をするなといわれるなら、そもそも学問なんか勉強する気おきねー、って感じな訳で。まぁ、そりゃあまともな学者さんと折り合いが付く分けないわなと。それこそ「小説でも書いてりゃ良い」って感じなのだろう。(*5)

ただ一方で、そういう僕の様な不純な動機を批判するのは勝手だけど、じゃあそれを批判するあんたらは、学生たちに「学問を勉強するって何が楽しいのか」ということを説明できるのか?とも僕は言いたかったり。学生のことを「怠惰だ」と批判するのは気持ちいいだろうけど、そもそもつまらないことをやらされていたら人間は怠惰になるのが当然、ならない方がむしろ恐ろしい(*6)わけで、そこで「学問ってこんな楽しめるんだよ」ということを説明できずに、学生はダメだダメだ言うのは、はっきり言って下劣だなと。

追記

0:13

id:optical_frog

読み違いをしておられる:例えば“調べた過程はいらない”とは,「大澤 (2008) によれば~」と書くべきところに「OPACで検索すると大澤 (2008) がかかったので読んでみました云々」は不要ってことでは? 調査方法は別件.

だからそのOPACという方法こそが重要なんだって。OPACで検索するっていうことは、検索する「単語」が必要な訳だよね。つまりそこで何の言葉で検索したかということが示される人により、調べた人が最初どのようにその問題を解釈していたかが分かる。その解釈の変遷こそが重要じゃないかという話。そこで元ブログの人は変遷を取り除いて結果だけを示せと言っているから反発しているの。

どうもこう語ると身体論とか技術決定論チックに誤解されそう(*7)なんだけど、本で調べるか、パソコンで調べるか、人から話を聞くか等の違いって、研究内容に絶対影響を与えると思う。そして、どの方法を選ぶかという選択が、その当人がその時どのような解釈枠組みでその問題を捉えていたかを示す訳。もちろん、それ以上に重要な情報があるならそれをやむなく切り捨てるのもありだけど、だからといって調査方法・過程を示すことが何の価値もない行為だとは、僕は思わない。

*1: だから悪文がいつまで経っても治らないw

*2: ほら、まさに氏が批判する(「自分語り」だよ)

*3: さらに余談をするなら、僕は「社会学」という学問自体が「物事を考えるための方法」の学問だと思っている。つまり「社会を研究する学問」じゃなくて「『社会的なもの』という視点から何かを研究する学問」なわけ。まぁ、「社会学って何?」と聞かれた時に、僕はいつもこの説明をするけど理解してくれる人はあんまいない。けどやっぱり僕はそう考えるから、「方法はいい。結果だけ示せ」といわれると、社会学自体を否定されている感覚に陥る

*4: だからこそ自然科学ほど厳密な検証をしなくても人文科学・社会科学はなんとかなる

*5: 僕は、「学問が小説といっしょで何が悪い」と思うけどね

*6: 萌えアニメを好きになるとかよりその方がよっぽど「動物化」してる

*7: というか、もしかしたらその誤解のまんまなのかもしれない

この日へのコメント

田中 2008/08/30 14:35
レポートってのは、本来、調べたり書いたりする過程にこそ教育効果を期待して課すものです。だから、最後にできあがった文章だけをみて評価できると考える教員が無能なのはわかりきった話で。多少わかってる教員であれば、レポートそのものとは別に、途中経過を報告させるとかして、調査/執筆プロセスをコントロールするでしょ?