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2008-08-15

[使い回し]『風の谷のナウシカ』を読む―「友達がいない」ナウシカ

 ナウシカは本当に様々な語られ方をする作品である。環境論という視点から見れば、自然との共生の可能性・不可能性を描いた作品というふうになるし、女性論という視点から見れば、それこそ授業で触れたように「戦闘美少女」としてのナウシカということになる。

 ただ、そのような大上段の議論のまえに、僕にはこの作品を読んでいるときに一つ気になることがあった。それは、「ナウシカには『友達』がいないなぁ」ということだ。

 まず「風の谷」におけるナウシカの立場だが、風の谷においては子どもはどんどん数が少なくなっており、とくにナウシカの年代と同じ年代の子どもはほとんど見当たらない。ナウシカは常に幼き女の子たちの「姉」であるか、大人たちの言うことをよく聞く「娘」である。そこでは、ナウシカのような年代にはかならずありそうな「同年代の友達との付き合い」は描かれない。そして、まるでその空白を埋めるように、ナウシカは腐海へメーヴェ作りの部品を探しに言ったり、地下室で植物栽培の実験を行ったりするのである。友達と付き合わず一人で趣味に没頭する中高生とは、よくオタクのステレオタイプとして挙げられるものだが、実はそのようなステレオタイプにナウシカはぴったり当てはまる。

 そして、そのような中、突然「外部」から輸送船の墜落などのさまざまなイベントが起きて、ナウシカは仕方なく風の谷を出て行くことになる。そこでナウシカは二人の同年代の人物、アスベルとケチャに出会う。たぶん、もし作品の中から、「ナウシカ」の友達といえるような人間を挙げるとすれば、この二人だろう。事実、この三人で旅をしていく場面も、物語の中盤にはあった。

 だが、ナウシカはやがてそのようなパーティーからも離れる。そして出会うのがセルムという存在である。ナウシカと一番親しくなった同年代といえば、やはりこの少年だろう。

だが、じゃあ彼は「友達」であったのかと考えると、やはり僕にはそうは思えない。というのも、なるほど確かに彼はナウシカに「私と共に生きて下さい」などという風に明らかに好意を抱いている。だが考えてもみれば、そもそも「私と共に生きてください」というような言葉、「友達」に発するだろうか?また、確かに呼び方も、「セルム様」からやがて「セルム」に変わるなど、目上の存在として見ている感覚から共同して何かを行う存在という風に印象は変わっていく。だが、どこまで言ってもこの二人は敬語でしかやりとりしない。もちろん、敬語であってもそこに確固たる友情が見える関係はあるのだが、どうもこの二人は違うというか、あえて言うなら「同僚」的な感じで、やはりそこに友情というようなものは感じられない。

 そして何よりも、セルムとナウシカの関係はどこまでも一対一であり、通常の友達関係のようにあるコミュニティを媒介にした複数間の関係ではない。これはやはり、「友達」という概念に当てはめてこの二人の関係を考えるには重要な問題となるだろう。「君」と「僕」しかいない環境で、果たして友情が成り立つのかと問われれば、やはりそれは成り立たないのではないかと思う。

 そしてナウシカは結局そのままストーリーのラストを迎える。そして、ナウシカはその課程で重大な決断を"一人で"し、重大な秘密―オームの血の匂いと墓の体液の匂いが同じ―を聞くが、その秘密はセルムとか共有しない。あくまでナウシカは一人、もしくは同僚、(「共犯者」と呼んでもいい気もする)の二人としか自らの秘密を共有しないし、協議もしないのだ。やはり、ナウシカという存在には、「友達」のような関係のキャラクターはいなかったのではないだろうか。

 もちろん、これはナウシカが〔超越者〕として描かれている文には、ある意味当然であるといえる。ナウシカは常人とは違う、人間と自然を媒介できる、半神半人のような存在であるなら、そこに友人などというものは必要ない。

 しかし、マンガ版のナウシカは、決してそのように〔超越者〕であることが絶対視されている存在ではない。そのことが端的に現れているのが最終巻で語られる、ナウシカの母親についての記憶の存在である。ここにおいてナウシカは、自分が「母に愛されなかった」という、ある種のトラウマを語る。そして、それを元に、自分の理想の母親の形を取るヒドラに対し、「現実はそうではない」と看破する。

 だが、しかし一方で、その出来事はまた、ナウシカがそのトラウマに縛られ続けることも意味しているのだろう。そしてその後墓に赴いたナウシカは、墓主の「一緒に人類を浄化し、新世界を作ろう」という問いかけに対し、「人間とは清濁併せ持つ存在である」と看破し、そのようなある種の理想主義を否定する。これは、明らかに母のトラウマを呼び起こすという源泉が元になった決断なわけだが、そのような立場については批判もある(*)。

 もちろん、そのような批判とナウシカの示した道、どちらが正しいのかは結局人間をどのような存在として認めるかの差であるから、結論などつきようがない話だろう。だがここで僕が問題に思うのは―それが物語りの構造上仕方がなかったとしても―そのような決断が、あくまでナウシカ一人の手に委ねられ。そしてその責任も、ナウシカ一人に委ねられているということである。ナウシカはそこである種の人間の業を、一人、もしくはセルムと二人で背負う。そこで僕は思ってしまうのだ。何でそこで「一人で」背負うのだろうかと。周りのみんなに、「墓がオームと同じだったよ」と相談する選択肢は、ありえなかったのだろうかと。

 トラウマの最も効果的な治療は、何よりそのトラウマを「語る」、そして、それについて周りから「反応」をもらうことであると言われる。だが、友達のいないナウシカにおいては、「語る」ことを行っても、それは聞かれるだけで反応はない。故にナウシカのトラウマは持続され、結局物語の最後まで昇華されることはない……一般によき終わりとされる『風の谷のナウシカ』だが、そこに、そのような裏構造としての悲劇を読み取ることは、深読みのしすぎであるだろうか?そして、さらに言えば、そのような悲劇は、実は現代人に共通する問題なのではないか?つまり、何か決断をしたりする際に、それらがすべて「自己責任」によって為されることが求められる、そんな社会の姿である。

 このような社会状況の背景の一つには、友人関係の流動"可能"性の増加があると言われる。つまり、以前だったらそれこそある狭い地域のなかで友人を作り、そしてそれが人生の終盤まで続いていく、そんな状況だったのが、人々が豊かになって行動範囲が広がり、情報機器が発達するにつれ、友達となれる人々の範囲が大きくなる(そう、まるで風の谷から飛び出て世界を放浪し、超自然的現象により遠くの人間とも会話できるナウシカのように!)につれ、友人は選択できるような存在となった。好きな友人と付き合い、嫌な友人とは付き合わなくてもよい、そんな社会の到来だ。そしてそのような社会の元では、当然「好きな友人」であろうとするから、例え友人であってもすべてを打ち明けるというような"重い"コミュニケーションは難しくなる。故に、本当に重要な決断は、自らの責任で全て決めるべき……そのような強迫観念が共有される社会の写し絵として、「友達のいない」ナウシカは生まれたのではないかと、僕は考える。そしてだからこそ、ナウシカは今なお名作として、いまだ人気を集めるのだろう。マンガ版はもちろんいまだ多くの人に読まれ、アニメ版も何度も繰り返し再放送されることからもわかるように。

 だが、一方で、ナウシカから変わったこともある。それは「大(文字の)問題」の消失だ。どういうことか?ナウシカがそこまで厳しい状況をあくまで一人でくぐりぬけてきたのは、実は逆説的には、それをしないと、世界が終わってしまう厳しい状況なんだという、危機感があったからともいえる。つまり、自分の肩に世界の運命が掛っているという使命感こそが、実はナウシカの行動の源泉にはあった。

 そして、そのような使命感を抱いていた人―いや、正しくは「団体」―が現実にもあった。「オウム真理教」である。オウム真理教の想像力が、SF的なものであったことは広く知られているが、彼らの行動理念もまた「世界が危機にある→それを救えるのは私たちだけ→しかもその救済を社会は妨害する→だから私たちは秘密裏に様々なことをしなければならない」という、極めてSF、というかオタク的想像力だった。そして、実はこのような理念の構造自体は、ナウシカとそんなに変わりない(世界観・人間観はかなり異なったとしても。彼らはむしろ墓の中にいた人間のような理想主義者だった)。

 そして、彼らは地下鉄サリン事件をおこした。だが、実際は、彼らは敗れたにもかかわらず、世界は終わらなかった。そう、世界は別に人間がどうこうしなくてもそんな急には終わらないのだ。

 だが、一方でその事実は、人々にこのような問いをも呼び起こさせる。世界は終わらない、自分が何しようが世界は変わらない。だとしたら、"そもそも何のために苦しい決断をしなければならないのだ?"と。しかし日常は人々に決断を否応なく迫る……

 そんな中で人々は、そのような決断を代行してくれる〔超越者〕として、「なんどめだナウシカ」と言われながらナウシカを見るのだろう。だが、アニメのキャラクターは実際の人生は代行してくれない……『風の谷のナウシカ』を読み解いていく内に見えたのは、そんな、ゼロ年代の袋小路であった。(3888文字、2008/8/15)

参考文献:宮崎駿[1984-1994]『風の谷のナウシカ1-7巻』徳間書店

宮台真司[1995-1998]『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』筑摩書房

宇野常寛[2008]『ゼロ年代の想像力』早川書房

紙屋研究所-『風の谷のナウシカ』を批判するhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nausika.html(アクセス日:2008/8/15)(*)

きなこ餅コミック 第28回 少女漫画的に読み解く『風の谷のナウシカ』http://yusurakinaco.blog92.fc2.com/blog-entry-144.html(アクセス日:2008/8/15)

3時間で書いた。ついでに言うと、参考文献に挙げた本、どれも手元にない状況で書いた

なんか前の前の記事に対して怒ってた人も、まぁ、「なんで、こんな程度の学生があんなこと言ってたのかよwwww」とか言って、笑って許してくれればいいと思います。

この日へのコメント

ショウコ 2008/08/29 01:34
こんにちわ!
はじめて、コメントしています。
日本アニメが好きな方々にとっても面白いサイトを見つけたのでご紹介したいと思ってコメントを書いています。
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